純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号303
『森のアールグレイ』
フミは紅茶をカップに注ぐと、鼻を近づけて香りを吸い込んだ。アールグレイの独特の香りは、いつだってフミを懐かしい気持ちにさせてくれる。
窓の縁に小鳥が一匹止まって中の様子をうかがっている。小鳥の先には、青々とした森がどこまでも続く。ここにはそれしかない。
フミは一度、そのどこまでも続く森を歩いたことがある。別にどこかに行きたかったわけではない。そうしようと思い立っただけのことだ。フミはこの森以外の場所の存在すら知らないのだから。そして行き着いた先は、この小屋だった。ひたすら歩き続けて、元いたこの小屋に戻ってきただけだった。
けれどフミはそのことについて、特に何とも思わなかった。フミの持つ感情は、朝日の柔らかい光のようなとても穏やかなものだった。いつだってそれ以外の感情はフミにはない。
どこまでも続く森と、変わり得ない感情。
メイは、ミシンに向かってテーブルクロスを縫っている。かれこれ四時間もの間一度も席を立つことなく、カタカタとミシンを動かしている。これから一時間休憩をして、また四時間同じようにテーブルクロスを縫う。
昨日も一昨日もずっとそうやってきた。多分明日も、明後日も。それがメイの仕事だった。
もちろんメイはそんな毎日にうんざりしていた。テーブルクロスの掛かっているテーブルをどこかで見かけると、それを剥ぎ取ってくしゃくしゃに丸めて放り投げたくなるくらい、うんざりしていた。もちろんそんな事はしないし、「もう金輪際、私はテーブルクロスを縫いません! こんな仕事はうんざりなんです!」と言い放ってここを飛び出したりもしない。
メイは黙々とテーブルクロスを縫い続けた。周りのおばちゃん達と一緒に、下らない世間話をしたりすることもなかった。メイはここが自分の居場所だとは、一瞬たりとも思うことはない。けれどメイにはここしかなかった。きっちり定時に仕事が終えられて、安定した休みと給料、それから病院まで徒歩五分という立地、そして何より何の取り柄もないメイを雇ってくれるのはここくらいだった。
メイには一人息子がいる。もうすぐ四歳になる。けれど息子のハルは、長い間ずっと眠っている。交通事故に遭ったハルは、一命は取り留めたものの目を覚ますことはなかった。けれどハルは間違いなく生きている。その事実だけが、メイの生きがいだった。
父親は、こんなハルとメイを置いてどこかへ消えてしまった。メイはもちろんものすごく腹を立てたし、不安で一晩中泣き明かしたこともあった。けれど今は、そんな男の存在さえなかったことにしている。どうしようもないことにいつまでも悩んでいるのは、メイの性に合わなかった。
ハルに対してもそうだった。ハルは必ず目を開け、また元気に走り回るとメイは信じていた。医者に見込みはないかもしれないと言われても。
フミはカップに入れた紅茶をハルに差し出して言った。
「この紅茶はね、私が一番好きなもの。紅茶でもね、アールグレイじゃなきゃだめ」
ハルは何も答えずに、黙って紅茶を飲んだ。フミは続ける。
「あとはね、パンケーキが好き。レーズンをたっぷり入れて焼くのよ」
ハルは答えない。フミはハルの声を聞いたことがない。けれどそんなことはちっとも構わなかった。
「あと私が好きなものはね、ウールのブランケット。少しちくちくする所がいいの」
フミはブランケットをハルに見せようと、暖炉の前のロッキンチェアに取りに行った。ほんの一瞬だったのに、戻ってくるとハルはテーブルに突っ伏して眠っていた。
「ハルは寝てばかりね」
フミはくすっと笑って、持ってきたブランケットをハルにそっと掛けてあげた。
フミが森にひたすら歩きに行ったとき、途中でハルを見つけた。ハルは木の間から漏れる太陽の光を追いかけて一人で遊んでいた。二人は手を繋ぎ、一緒に森の中を歩いた。
ここはいつでも冬だ。でも雪は降らない。ここには時間がない。
メイは病室のベットの横に椅子を置いて、毎日そうしているようにハルに話しかける。
「今日はね、お母さんの好きなものの話をしてあげる」
ハルはピクリとも動かない。けれどハルはちゃんと聞いている。だってこんなに綺麗な耳が二つしっかり付いているじゃない。メイはそう思う。
「まずはね、アールグレイの紅茶。あの香りを嗅ぐと、とても懐かしい気持ちになるの。お母さんのお母さん、つまりハルのおばあちゃんはね、昔イギリスで暮らしていたの。おばあちゃんはその国が大好きで、ずっとそこで暮らしていたかった。でもそれはどうしてもできなかった。それに、ほとんどの物を置いて出て行かなくちゃならなかったの。どんなに大切なものも、持っていくことは許されなかったらしいわ。それでおばあちゃんはね、みんなの目を盗んで紅茶の葉を一掴みポケットに入れたの」
メイはその話を何度も母に話してもらった。悲しいお話だけれど、メイは大好きだった。
「その紅茶がね、アールグレイだったの。おばあちゃんはそれを小瓶に入れて、いつもこっそり香りを嗅いでいたそうよ。悲しい時は、その香りを嗅いで涙をぐっと堪えたの。それからお母さんが生まれて、アールグレイの紅茶もいつでも飲めるようになった。おばあちゃんは、全てを取り戻すかのように毎日紅茶を入れた。もちろん過ぎた日は戻ってはこない。でもね、その香りだけはずっと変わらなかった……」
メイは鞄の中から小瓶を取り出すと、コルクの栓を抜いて鼻に近づけた。それはもうとっくに香りを失っていた。けれど不思議と気持ちが落ち着いた。
「お母さんもね、いつの間にかアールグレイの香りが大好きになってた。おばあちゃんと同じで、それがないとダメになっちゃうくらい……」
メイの頬を温かいものが流れた。何度も何度も。
ハルが目を覚ますと、フミはハルの手を取って外に出た。小屋の裏にある葡萄の木の下に立つと、いつものように木の枝を器用に使って葡萄を取りハルに食べさせた。そして自分も食べながら言った。
「私のお母さんはね、大人なのに木に登るの。おっちょこちょいなのに、自分では何でもできるって思ってる。もし木から落ちたら、葡萄まで一緒に落ちて潰れちゃうなんてこと考えないの。私は、お母さんが大好きよ。紅茶よりもパンケーキよりも、ブランケットよりも大好き」
ハルは葡萄の木を見上げて強く頷いた。フミはそんなハルの横顔を見ている。
「ハルがお母さんを守ってあげるのよ」
フミはもう一度ハルの手を取った。そして今度は森の中へと歩き出した。その足取りは、以前ひたすらに森を歩き回ったときとは違い、とても力強い。
メイは今日も八時間テーブルクロスを縫うと、ハルの横に座って話をした。今日はハルのまだ聞いたことのない話をすることにした。ハルのお姉ちゃんの話。
「ハルが生まれる何年も前にね、お母さんは赤ちゃんを授かっていたの。お母さんがとても大好きだった人との赤ちゃんよ。もちろんハルのお父さんのことも大好きだったけれど、その人のことはもっと比べ物にならないくらい好きだった……」
メイはそう言うと窓の外に目をやった。夜だというのに小鳥が一匹、窓のサッシに止まっている。小鳥は病室の中をぐるりと見回し、メイと目が合うと飛び立ってしまった。窓に映る夜の黒い景色の中に、白いものが入り込んできた。雪だ。
メイは膝に掛けていたウールの茶色いブランケットを胸まで引き上げた。
「あの日はね、とても寒いのに雪は降らなかった」
メイは静かに眠るハルの顔に目を向けていたが、その目は何も見ていないようだった。メイは話を続ける。
「あの人からもらった大切な指輪を、あの日お母さんは落としてしまったの。大切なものだから、失くさないようにしまっておこうと思ったのよ。そしたらね、どこからか小鳥がふっとやって来て地面に落ちた指輪を口にくわえて持っていってしまったの。きっととても綺麗な指輪だったから。小鳥だって羨むわ。その鳥は、目の前の木の枝にちょんっと止まってお母さんを見下ろしていた」
そう、それはたしか葡萄の木だった。寒い冬の日なのに、その木はたくさん実を付けていたのをよく覚えている。小鳥はその木に巣を作っていた。丁寧に編み込んだ巣の中には、さらに小さい鳥が顔を覗かせていた。
メイは迷うことなく木に登り始めた。メイの中の小さな命は、まだお腹を膨らませてはいなかった。でも確実に、メイの中で心臓を音もなく動かしている。
フミが言った通り、メイは自分のおっちょこちょいな所をあまり自覚していなかった。木登りなんて、子どもの時にだって上手くできなかったのに。
どれくらい眠ってしまっただろう。メイはハッと起き上がると、ベットで眠るハル越しに時計を見ようとした。でも、時間を見ることはできなかった。メイのことをじっと見つめるハルと目が合ったからだ。ハルの口元は笑っていた。
「お母さん。僕お姉ちゃんに会ったよ」
フミはアールグレイの紅茶をカップに注ぐと、鼻を近づけて香りを吸い込んだ。フミは今日も穏やかな気持ちで、それを飲む。ウールのブランケットに包まれて。
フミはロッキンチェアに軽く揺られながら、カップを持ったまま眠った。それはとても深い、どこまでも続く眠りだった。