純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号209 『紙風船』  貴方様は手先が器用でいらして、まだ幼かった私によく紙風船を拵えてくださいましたね。美しい色紙を用いて、せがむ私に厭な顔ひとつ見せず、幾度となく。  拵え上がった紙風船に息を吹き込み、膨らんだそれを私にそっと手渡すのです。おなごのようなきめの細かい手が羽根のように私の手に触れますと、幼心に胸が熱くなったことを憶えております。 「千穂は、紙風船が好きじゃな」 「私は、兄様★あにさま★の拵える紙風船が好きなのです」  左様にあからさまな言葉を紡ぐことの叶った昔が、懐かしく思われてなりません。  貴方様は、元服した後直ちに若様の馬廻り役として江戸へ発たれ、その後異例の速さで出世なさいましたが、未だに嫁を取らぬは何ゆえにございましょう?  家中では、将来を嘱望された貴方様の奥方に誰がなるのかと、皆が噂をしているのだと父上は申されておりました。私の心中は穏やかではございませんでした。それを聞かされた日、昔を思い出して泣いたのを憶えております。  私の家は、貴方様の家とは遠からぬ縁戚の間柄でありましたから、幼き時分は兄妹のように遊んだものです。  そうそう、貴方様はその優しげなお姿を、常々おなごのようだと周囲より評されておられましたが、『若兎★わかうさぎ★』と揶揄された折、それを仰った年上の方々に喧嘩を挑まれ、数の上でも、力の上でも遠く及ばぬであろうという大方の予想を翻してその喧嘩に勝たれましたね。初めて貴方様の猛る目を見た気がして、恐ろしくあり、されど頼もしく感じたものでございます。  そして、傷だらけの顔に笑みを浮かべながら申されましたね。 「存外、私の中には鬼が棲まうておるのやもしれぬな。千穂、私が怖いか?」  私は頭を振り、貴方様の後ろをついていったのでございます。  その折より九年。私は十八、貴方様は二十二。互いの運命★さだめ★は、もはや交わることを許されぬのでしょうか?  左様な懸念が私を悩ませていた、ある日にございます。  昨今の政情の変化により、貴方様は江戸よりお帰りになられ、その翌日には当家へ参られたのです。そして、父上にこう申されましたね。 「千穂様を、私の嫁にいただけぬでしょうか?」  その言葉を待っていたといわんばかりに、父上は膝を叩かれ、即座に貴方様の申し出を承諾されたのでございます。  貴方様が帰られた後、 「よも異存なぞあるまいな?」  父上はそう申されましたが、その申し出を私が切に願っていたことは家中の小者に至るまで知られたことでありましたから、それは父上の私に対する照れを隠すための悪戯★いたずら★であったのだと思われるのです。  ほどなくして、貴方様と私の祝言は執り行われたのでございました。時は倒幕の風が吹き始めた複雑な情勢下でありましたから、婚儀はごく近親の者のみのしめやかなものではありました。それでも、晴れ渡る空のごとく私の心は澄みきっていたのでございます。    季節は巡り、一年と経った頃、私は貴方様の子を身籠ったのでございます。 周囲は大いに喜び、貴方様も、 「でかした」  と仰って下さいましたね。  されども、抗えぬ時代の波がとうとう私共のいるこの地へも押し寄せて参ったのでございます。  鳥羽・伏見で口火を切った戦の炎は瞬く間に燃え広がり、私共のおります庄内にもその炎は目前まで迫っておりました。  貴方様は官軍が迫るや、後に鬼玄蕃と恐れられる酒井様と共に当時最新と謳われた装備の一隊を率いて出陣されたのです。戦は連戦連勝、奥羽に庄内藩ありとの気概を藩一体になって見せつけられましたが、会津藩の降伏を機に孤立を避け、藩は官軍に恭順の意を示したのでした。  戦より戻られた貴方様は、男子たる者、人前にて涙を見せるべからずという誓いを破り、私とふたりきりの部屋で粛々と泣かれましたね。領内を侵されることなく、己の故郷を守り通したという自負と、余力を残しての恭順との狭間で気持ちが溢れたのでございましょうか。  戊辰の役の後、幾度かの転封を経て私共は庄内へ戻って参りましたが、比較的緩やかであった主家へのお裁きとは裏腹に貴方様の謹慎は続いたのです。家ではゆるりとした刻を、長男の隆太郎と共に過ごしておられましたが、ついにその日はやってきたのです。  若手藩士の中心人物として、あまつさえ藩の主戦派においても重きをなしておられた貴方様でございましたから、藩庁に召される時は覚悟を決めていらしたのでございましょう。  通達より二日の後、真新しい白装束を着込み、貴方様は登城してゆかれました。  三日の詮議の後、家禄の半分を召し上げ、なお赦しがあるまで引き続き蟄居せよとのお達しにございました。死一等を覚悟していた私はその報せを聞くと、まだ幼い隆太郎をきつく、とてもきつく抱きしめたのです。  お戻りになられた貴方様は、戦の折に自らをよろっていたであろう『威』という文字を脱ぎ捨て、幼き頃の私に見せてくださいました柔らかな笑みを浮かべながら、 「今、帰った」  と庄内訛りの少ない、されど穏やかな声音で発せられたのです。  そして、懐より何やら取り出して息を吹き込まれたのでした。その様子を見た隆太郎がはしゃぎだしますと、貴方様は膨らんだそれを宙に放ったのです。  昔、私に拵えてくださいました色紙をたくさん用いた紙風船には遠い、単色★ひといろ★の紙風船でありました。されども、優雅に宙を舞うそれが、私共に久方ぶりの安寧をもたらす合図であったことは申すまでもございません。  その後、罪を赦され旧家禄に復した貴方様の元へ、新政府より陸軍へのお誘いがあったのでございます。それは、戊辰の役の折、死一等を免じる際に力を尽くしていただいた薩摩の西郷様たってのご希望によるものと聞き及んでおります。貴方様の卓越した指揮を買い、陸軍の士官として新しき国のために忠義を尽くして欲しいという内容でございました。  その誘いを丁寧に断られた貴方様ではありましたが、熱心なお誘い、そして受けたご恩に報いるためと、三度目の要請でついにお受けになりましたね。私共は故郷である庄内より、かつては江戸と呼ばれた街『東京』へと旅立ったのです。  東京に着いて後は、貴方様は以前にも増して忙しくなさっていましたが、私と隆太郎へのお心遣いは変わることなどございませんでした。勤務が終わると真っ直ぐに帰宅し、家族で時を過ごす。もはや戊辰の役の後の、定まらず心落ち着かぬあの時分のことなど悪しき夢であったかのように忘れ去っていたのです。  左様な貴方様が珍しく酔ってお帰りになったのは、明治も十年になったある日のことにございました。  下戸である貴方様にいったい何ごとが起こったのかと、大きくなった隆太郎と案じておりましたが、翌日貴方様が仰った言葉で漸くと合点がいったのです。 「西郷さんが、鹿児島で兵を挙げたそうだ」  呟くようにそう仰った貴方様の表情は、とても寂しげなものでありました。東京に着いて暫し後に亡くなられた、ご自身のお父上様に西郷様を重ねていらしたようにも看取れました。その西郷様を討つため、貴方様は鹿児島へ兵を率いてゆかねばならぬ。その表し難きお気持ちが幾重にも交わり、そして重なり、苦しんでおられたのでありましょう。それでも、内乱をなくし、穏やかな世をこの日の本に取り戻すため、貴方様は遠く西南の地・鹿児島へ赴かれたのでございます。  そして、述べ七ヶ月という戦を終えられた貴方様は、目を見張るほどの武功を挙げ、無事東京へ帰って来られました。されど、その活躍を新聞で伝えられし英雄であるはずの貴方様に、嬉々とした色を認めることは叶いませんでした。  力なく私と隆太郎に微笑みかけると、無言で部屋に籠り、下賜された品々の中に身を置いたまま、黙々と紙を折り続けたのでした。拵え上げた紙風船のひとつひとつに、ひと文字ずつ丁寧に梵字を書き入れ、やむなく担ぎ上げられ、挙に殉じた西郷様の弔いとされたのでしょう。  それより一年の後、貴方様は官を辞せられ、庄内へ帰ることを決断されました。東京にいる親戚に長男の隆太郎を預けての、ふたりきりの帰郷にございました。  庄内に戻りましてより後は畑などで土をいじりながら、穏やかに暮らしておりました。才溢れる貴方様と、左様に穏やかな日々を過ごせるとは思ってもみなかったものですから、東京でのきらびやかな生活を恋しいと思うことなど一度としてありませんでした。  元より、戦のみでなく風流の道にも長じた貴方様でございましたから、余りある時間を無駄せず、雅に過ごすことに楽しみを見出してゆかれました。忙しなく費やした維新前の時間を取り戻すように。  その後、成長した隆太郎が東京で商いを起こし、それが成功した後も、貴方様は私共を呼び寄せ、不自由のない生活を送らせようと気を回してくれた息子へ首を縦に振らず、庄内での暮らしを選ばれましたね。  そうして迎えた明治四十一年、眠るように死出の旅に出られたのでございます。私は寂しさのあまり、暫しの間何をすることもなく刻を費やしたのでございますが、貴方様の荷を整理した際、優し過ぎる気持ちを受け取ることが叶ったのです。  押し入れの一番奥の小さな葛籠の中に、その『気持ち』は納められておりました。 私がまだ幼き頃、 「兄様★あにさま★、兄様」  とせがんで拵えていただいたものと同様に、鮮やかな色紙で折られた紙風船。それと共に、私への感謝を記した文が出て参ったのです。  あまり多くを語られる方ではありませんでしたから、その気持ちがいつの日か私の目に留まるよう、文★ふみ★に遺しておかれたのでございましょう。ただただ、優しさに溢れた気持ちを形のよい達筆で記されておりました。私は、熱くなる胸と目頭を奔放に解き放ち、声にして泣いたのです。嬉しさと寂しさの入り混じった塩っぱい涙にございました。  ひとしきり泣いた後、私は誓ったのです。天寿が訪れた暁には、とびっきりのご馳走を持って貴方様に逢いにゆき、幼き頃と同じようにせがんでみようと。 『紙風船を拵えていただけませんか?』  されど、その際には『兄様』ではなく、『貴方』と呼びながら。何ゆえかと訊ねられたなら、私はこう申すでしょう。 『貴方様は昔の兄様ではなく、今は、そして今も、私の大切な旦那様でございますから』 「紙風船を拵えていただけませんか?」 「千穂は、まこと紙風船が好きじゃな」  貴方様の言葉に、私はひと言付け加えるのです。 『貴方様の拵える紙風船が』  ……と。                            (了)
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