純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号204 『午後の日の、翳り』  窓際に頬杖をついていた。海と、散り始めた桜がトンネルをくぐるたびに眩しく通り過ぎた。  一冊の白いノートを広げて、隣のボックスでは、女子学生が二人額を寄せて小声で話している。それから向かいの席で、小さな男の子を連れた若い母親が、なだめながら肩掛けバッグからコアラをかたどったチョコレート菓子を取り出して、与えた。子供は手と唇をチョコまみれにさせ、しゃぶっている。残らず吸い尽くそうとする子供の、貪欲さで。  どれほど小さな子供かと言うと、あなた、が以前見せてくれた写真の女の子と同じくらい。母親は若くて、まだらに金色に染めた髪をかきあげ、こめかみの汗と、それから子供の口のまわりをタオルでぬぐった。  女子学生がボールペンを出して、書き込み始めた。思い出し、考えながらゆっくりと、文字を書き入れる。くすくすと笑い、また額を寄せ合う。  のぞき込むと、気が付いてこちらを見る。私は目をそらし、中吊りの雑誌の広告へ視線を投げた。  若いグラビアの娘たち。開け放たれた窓から吹き込む風に、はたはたとそよぎながら微笑んでいる。窓の外へまなざしを向けると、茶畑の緑が鮮やかに私の心を染めた。ありふれた、ローカル線の昼下がりの風景を、私はあなたに話すところを想像する。 「それで、その中学生は何を書いていたんだい?」  あなたはそう尋ねるだろうか。その時の印象は、心がどこか別の場所にあって、上の空な様子。そうでなくても、どうと言うことはないけれど、その話題であなたを引き込こんでみたい。  私は答えを引き伸ばし、気を持たせようとするが、あなたはあいかわらず他のことを考えているふう。知り染めたころ、ほどくのももどかしく、絡めたままもてあそんでいた指先を見つめ、いつの間にか私が外させた指輪の、白かった痕が、もうわからないほど日に焼けていることに気付き、答えを引き延ばしたのは私自身であったことを思い出す。  私は少し躊躇し、それから思い切って物語を始める。それは、私たちにも関係のあることなのよ、と。  列車が止まり、女子学生は窓ガラスにもたれてうとうとしていた。いつの間にか彼女の友人は、彼女を残したまま車両から姿を消し、親子連れは、母親が急き立てるようにして子供の手を引き、列車を下りて行った。  特急列車を待つ間、停止したままのひなびた駅で、開いたドアから、風が花弁の影をリノリウムの床に揺らす。止まった時間の中に、残された向かい側のシートのチョコレート菓子の箱と、子供の匂い。  突然女子学生がびっくりしたように立ち上がり、カバンをつかむとあわてて駆け出して行った。扉の間から影が消えて、流れ出た空気の向こうに、海が広がる。そこから目を移すと、窓際に置き去りにされた、純白のノートに日差しが躍っている。特急列車が通り過ぎて、車体がガタガタと震え、それからまた穏やかな午後の静けさが車内に戻ると、とっさに私はノートをさらって外へ飛び出していた。  私の背後で扉が閉じる。 「それから?」 あなたは手持無沙汰な思いをもてあまし、興味をひかれたようすで聞き返すかもしれない。  ベンチにすわり、ぼんやりと白いノートのページをめくってみると、たわいもない、おしゃべり。冗談。陰口。担任の教師の似顔絵が妙にリアルで覚えず笑みを誘われる。  遥か以前に決別したそういう、邪気のないむき出しの感情は、私を少し恐れさせた。それから途切れた文字の、ずっと後ろの方をそれとなくめくり、ボールペンで塗りつぶされた白いノートブックの片隅に視線が引き付けられる。そこには、どんな秘密が書かれていたのか。秘めた恋? 言葉に出せない、幼い想い?  風が止まり、柔らかな春の日が新しいページの、黒いしみを明るく照らしていた。ふと思いついて、太陽に透かして隠された言葉を私はのぞいてみたくなる。まっさらな少女の胸に生まれた、みずみずしい想いを、かつて誰もがいだいていた憧憬をよみがえらせてみたくなる。  そうして私は曇りない春の日に、一点生まれた影を凝視し、その奥に広がる闇を知る。  あなたは再び尋ねるかもしれない。 「何て書いてあったの?」 私は言葉を濁しつつ、口ごもるに違いない。それから、その続きはどうなるだろうと自問してみる。  お別れしましょう。と、答えを出せば、あなたはこの頃の無関心さを隠すこともなく、 「そうだね」 とうなずくだろうか。  あるいは、君はもう決めているのだろうと、言下になじるだろうか。あるいは、季節が春から初夏へ予告もなく移り変わるように、自然なことと受け止めて黙ったまま歩みも止めず、傍らの私がまるで見えないように、まっすぐに立ち去ってしまうのだろうか。  かつてあなたがいた場所。悔恨と気まずさとぬぐいきれないわだかまりが待つ、それでも重い鎖でつなぎとめて片時もあなたを離さなかった場所へと、嬉々として向かうのだろうと想像する。  それは、ふと背中を押される感じ。崩れたバランスが新しいバランスを求めて踏み出すつま先に感じる、ありふれた日常の痛み、悲しみ、悔恨。憎しみさえ、いとおしいと思え、むなしさもやりきれなさも、平凡で巷にあふれているものすべてが、生き生きと色彩を持っていたのだと気付く。  今は失われたそれらのものを乗せて春は薄墨に桃色がかり、遠く霞に煙り、海流に流されていく。追憶の中で息をひそめ、翳りのない春があったことを思い起こす。  そのとき、フィルターを通して見るように、過去の日々を私は眺めた。  人気のない駅舎に、竹箒を持った初老の男が、くたびれた制帽を直しながら、ホームへ出てきた。あの少女が気付いて戻ってくる気配はない。駅員が改札のまわりを掃き始める。  その間に、急行列車が二本通り過ぎて行った。風が起こり埃が舞い、再び切り取られたような静寂が戻ってくる。思いついて私は立ち上がり、ゆっくりと男の方へ近づいた。声をかけノートを託そうとしたとき、改札の向こうの、バス停のあるロータリーの方から少女が駆けてくるのが見えた。  私の手にノートがあることにすぐに気付くと、軽く頭を下げて、 「すみません、それ」 と言ったのが意外に力強く、晴れ晴れしかったので、あの、ノートの隅に染みついた、闇に残る言葉が余計に私の心を突いた。パパ……バカヤロウ、カエッテクルナと刻まれた少女の心の翳りが、ほのかに潮の香る海辺の駅舎の影に重なった。  それから私は、午後の線路を渡り、反対側のホームへ移って次の列車を待った。
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