純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号182 『啓蟄先生』  先生はある山間の里人であった。今となっては幾年月の昔、天下は定まらず、数多の雄が盛衰を繰り返す時代のことである。山水画の妙手として名声を千里に馳せ、数名の弟子を抱えて暮らしていた。  正月も近付いたある日のことである。盛んに吠えたてる犬の声に弟子の一人が目を覚ました。空は瑠璃色深く、星々もまだ消えきらぬ夜明け前である。何事かと警戒しながら門を少し開けば、見慣れない男が先生を呼ばわっていた。聞けば優れた画師の噂を耳にし、新年を祝する画を頼みに来たのだという。犬を宥めながら弟子は考え込んだ。師の評判を聞きつけてやって来たのであれば、なるほど悪い気はしない。さりとて未明の頃に呼び立てする無礼も見過ごすわけにはいかない。  どうしたものかと考えあぐねているうちに、騒ぎを聞いて起き出したらしい先生が近付いてきた。しかし先生は門から少し離れて足を止めた。自ら応対する気はないらしい。 「朝っぱらから何を騒いでおる。客人か」 「先生に画を頼みたいと申しております。東の村から夜通し走って来たとか」  弟子が要件を伝えると、先生はそれを一笑に付した。せせら笑うように、侮蔑を隠そうともせず言う。 「そんなどこの誰とも知れん田舎者に、わしの画は勿体ないわ。帰らせろ」  あまりにも傲慢な言い種に、弟子は思わず抗議の声を上げた。先生の驕りは今に始まったことではないが、夜を徹して駆けつけた客人の手前である。弟子の身分とはいえ諌めないわけにはいかなかった。すると先生は目を細めて問い返した。 「では聞いてやるが、何を描けと言うておる」  すかさず門の隙間から、男の声が飛び込んだ。師弟の会話に耳をそばだてていたらしい。 「寅を。力強く勇壮な寅が欲しい」  所望を聞くや、先生は顔色を変えて踵を返した。弟子が慌てて引き留めても一向に耳を貸そうとしない。寅は描かぬ。その一点張りで部屋へ引っ込んでしまった。仕方なく弟子は男に詫び、師の後を追った。呆然とする男の鼻先で門は閉じ、冷たい風がつむじを巻いた。  さて門の内では、弟子がまた違う理由で肩を落としていた。追いかけはしたものの、部屋にこもられてしまっては引きずり出すこともできない。結局弟子が次に先生と会ったのは朝食の席だった。まるで拗ねた子供のような態度に首をかしげながらも、弟子は隙を見て先生に尋ねようとした。しかし早朝の一件を知らない同輩たちの前で問い質すのも何やら気が引ける。その後も機を窺ううちに、日は高くなってしまった。 「何故お断りになったのですか。先生ほどの方が、まさか寅を描けないこともないでしょうのに」  正午近くになって、ようやく弟子は縁側で犬と戯れている先生を捕まえた。どうにか真意を量ろうとするが、やはり先生は沈黙したままである。しかし、それでも弟子は諦めなかった。しつこく食い下がる弟子に根負けしたのか、先生はしばらく経ってから渋々口を開いた。 「この犬はな、わしがかつて描いた犬じゃ」  余りに途方もないことを言い出す老人に、弟子は拍子抜けしたような顔をしている。師の言葉といえども、そう易々と信じられるものでもない。 「自分で言うのもなんだが、わしの画は優れておる。あまりに真に近付いたものじゃから、ある日画の中の犬が跳び出してしもうた。それがこの犬じゃ。あの男は寅を描けと言うた。寅が跳び出しては危なかろう、だから断るしかなかったのじゃ」  さも言いにくそうに語る師を、弟子は胡散臭そうな目で見ている。先生とてそれには気付いているだろうが、敢えて何も言わなかった。いくら信じ難いとはいえ、先生は拒絶の理由を打ち明けたのである。弟子がそれ以上追及できるはずもなかった。  その午後のことである。弟子は先生が昼寝を始めるのを見計らい、同門の若者を呼び集めた。もちろん師の言葉の真偽を計るためである。今朝の来客から昼の言い訳に至るまでの一切を打ち明けると、年長の弟子が、父から聞いた話だがと前置きして口を開いた。 「先生が今のように有名になったきっかけを知っているか。俺たちが生まれる前で、先生もまだ若かった頃の話だ。この地方でひどい干ばつがあったらしくてな、村はずれの川も干上がりかけたそうだ。その時に先生が美しい川を描いたところ、数日と経たずに雨が降って、川も絵の通りに生き返ったらしい。先生ほどのお方だ。もしかすると本当に不思議な力を持っておられるのかもしれない」  一同の中でも少なからず尊敬を集める者の言葉だけに、反論しがたい響きがあった。しかしそれを圧して、矮躯の弟子が言う。 「そうは言ってもやはり信じられん。画が動き出すなんてことが、あるのかどうか。川の話だって実際に見たわけじゃない。信用して良いものか」  一人が異を唱えれば、周りも疑念を抱き始めるものだ。弟子たちは頭を寄せ合って考え込む。そこで今度は最も大柄な弟子が提案した。 「ならばこうしよう、先生に描いてもらえばいい。なに、俺たちは画を習いにきているのだ、おかしなことはない。仮に先生の力が本当だとしても、猫でも描いてもらえば安全だろう」  単純ではあるが、誰にとってもそれが最善に思える。弟子たちは一様に頷くと、如何に頼んで動物画を教わるかの算段を始めた。そうこうするうちに日は傾き、この日の密談はお開きになった。……  迎えた翌日。弟子たちは意を決し、先生に動物画の教えを請うた。もちろん予想された通り、先生の答えはにべもないものであった。 「ならぬ。わしとて山水画を極め尽くすには至っておらん。何かが足りんのだ。お前たちは山水画でさえわしに劣るというのに、動物画などまだ早い」  弟子たちの方を見ることもなく、先生は言い放つ。その筆は今日も絶佳なる風景を描き出している。そびえ立つ峰々は峻険にして、横切る渓流は刃のごとし。静謐にして絶対の厳しさを内包する、それが先生の画であった。師でさえも途上であるならば、弟子などは言うべくもない。鋭く切り込む筆先が、無言で物語っていた。  しかしこれぐらいは弟子たちとて重々承知している。それでも師の動物画を見たいと画策しているのである。だから表面上はいたって素直に、弟子たちは手筈通り師の言葉に従うのだった。 「まだまだ。わしほどに描けとは言わんが、もう少し進歩を見せてはどうじゃな。お前たち全員まるでなっとらん」  日も傾く頃、弟子たちを前に先生はそう評した。師の言葉である、表立って声を荒げるような弟子などはもちろんいないが、内心でこの傲慢な師に反感を抱いている者は多かった。それでも彼らが師事し続けているのは、先生の確かな力量と画に対する真剣さのみに依る。  その後先生は弟子たちに夕食の用意を言いつけると部屋から追い出してしまった。 「俺は今日の先生を見ていて思ったのだが、もしや先生は動物画を描けないのではないか」  忙しく立ち働く中、今回の発起人たる弟子がふと言った。周りの弟子たちも耳を傾ける。 「先生の自尊心が強いことは皆も知っての通りだ。その先生が頑なに描くことを拒み、山水画にこだわっている。もし描けるのであれば、実際に描いて見せるのが常だろう。これはやはり、本当は描けないのをひた隠しにしているだけなのだ」  その言葉に対し、弟子たちは口々に私見や反論を述べ始める。議論は紛糾しているが、確実に言えることは、彼らの中で師への不信感や秘密への好奇心が高まっているということだけである。  明確な結論には至らぬまま仕事は終わりを迎え、夕食の用意が整った。しかし先生の姿が見当たらない。弟子たちは皆、部屋に閉じこもって画でも描いているのだろうと思ったが、果たしてそこに先生はいた。 「先生、これは一体どうなさったのですか」  呼びにやった弟子の声を聞きつけ、他の弟子たちも先生の居室へとやってきた。そこには散乱した紙に囲まれて眠りこける先生がいた。紙にはどれも犬や猫らしきものが描かれていたが、とても先生の作とは思えない。子供の遊びと言われた方がまだ納得いくような出来である。その量から察するに、これは昨日今日で描き貯めたものではない。寝る間も惜しんで修練に励んだ跡である。無理が祟って眠り込んでしまったのだろうが、その際描き貯めた山に倒れ込んだものと見える。 「なんだ、あれほど威張り散らしている先生も結局動物は苦手だったか」  呆れたように苦笑しながら、弟子の一人が呟く。 「しかしさすがは先生だ。我々に課す以上の努力をご自分でなされている」  別の弟子は、先生の醜態からも学ぶべき点を見出し賛美する。そう言われれば他の弟子たちにも、その言葉は的を射ているように思われた。 「だがわからん。ここまで下手な動物画しか描けない人が、なぜあれほど巧みに山河を描くのだ」  至極もっともな疑問に一同首を傾げる。山水画に特別な思い入れでもあるのか、はたまた動物画が性に合わないのか、それは分からない。しかし当代随一と言われる画伯だけに、この欠点は驚愕に値する。 「ところで諸君。理由はどうあれ、ここは先生に一つ薬を飲んでもらうとしないか」  この尊敬すべき間抜けの姿を笑う気にはなれなかったが、弟子たちは一つ師を懲らしめる悪戯を企てた。常日頃から驕り高ぶる先生の鼻を折ろうというのだ。簡潔に段取りを組むと、ある者は表へ、ある者は別室へと、それぞれの役目を果たしに散開した。 「先生、先生、夕食の用意ができました。ここを開けてもよろしいでしょうか」  間もなく弟子たちは一人を残して退散し、最後の一人がさも今来た風を装って師を呼ばわる。相当な大声で呼び続けるうち、部屋の中で先生が慌てる気配が伝わってきた。恐らく散乱した習作を必死で拾い集めているのだろう。 「それには及ばぬ。わしも今行くからの」  ややあって、何食わぬ顔で先生が出てきた。自らの苦心を隠しおおせたと思っているのだろうが、その横で弟子は笑いを堪えている。何やら妙な雰囲気で膳を囲み、その日の夕食は済んでいった。裏手からは野良犬の唸り声が響いている。……  翌日のこと、弟子たちは庭に集められた。平静を装ってはいるが、先生の目線は忙しなく弟子たちの間を行きつ戻りつしている。 「一人足りんようだが、どうした」 そわそわした感じのある先生が弟子たちを前に問うた。普段の先生とは違う、急くような口調だった。 「もちろん声はかけましたが。蓋し、用でも足しているのでしょう」  その答えに先生は頷くと、遅刻者を待たず切り出した。それほどまで先生を焦らせる事情と言えば、弟子たちに心当たりは一つしかない。 「お前たち、わしの画を知らぬか。隠し持っている者がいるのなら、咎めはしない、わしに返しなさい」  先生はまんまと策にはまったようで、弟子たちにしてみればしめたものである。無論先生の失くし物も、その在り処も、全て皆知っていた。だが、悪戯はこれに留まらない。 「先生は一体、何の画を失くされたのですか。ぜひとも探し出して御覧に入れましょう」  代表として、年長の弟子が真面目腐って申し出る。あまりにわざとらしい物言いから、先生も事の次第に感付いたらしい。羞恥に耐えず言い淀む先生を良いことに、年長の弟子はさらに言葉を重ねる。 「どの不埒者かは存じませんが、何を失くしたか仰ってくだされば、弟子の内で下手人を捜すことは容易いでしょう。さあ、何の画を失くしたのか教えてくだされ」  ここに至って先生も観念したか、屈辱に顔を歪めて一言、犬、と絞り出した。  するとその時、まるで計ったかのように野良犬が一頭、一同の前に躍り出た。 「ははあ、さすがは先生だ。本当に画を犬にしてしまわれた」  心底感心した風を装い弟子の一人が呟く。聞くが早いか、先生は肩を震わせて庭から取って返すと、離れに飛び込んで堅く戸を閉ざしてしまった。  弟子たちもさすがにからかい過ぎたかと反省したが、後の祭り。それからしばらくは食事も運ばせるだけで出ては来ず、先生は極端に人を遠ざけ続けた。 弟子たちだけでなく、村人たちも先生の引きこもりを気に懸けるようになったが、先生は一向に機嫌を直そうとしない。その内に正月が過ぎ、春が近付いてきた。……  およそ一月もの間、先生は一人で画を描き続けていた。弟子たちと言葉を交わすこともなく、村人の訪問に応じることもない。人目を盗んで所用を済ませては閉じこもる、そんな生活である。日にちの感覚もとうに失せ、肌に感じる春の気配に急かされながら筆を走らせた。しかし、描けども描けども満足いかない。何かが足りぬ、過日弟子たちに零した一言こそ先生の悩みの核心であった。山河の静謐は失われ、禽獣に至っては屍にも等しい。未だ嘗て疑い見ることもなかった己の才であるが、ここに至って唐突に拠り所を失くしていた。  いつの頃からか名手と謳われ、自らも画の才を誉として生きてきた。年数を重ねる毎に名声は高く、己の鼻も高くなった。時の天子の目に留まったことさえある。各地から弟子たちが集まり、画師としての地位は確固たるものとなった。しかし、何かが足りない。筆を走らせ、技巧の粋を凝らしても、そこにあるべき何かを描き出せない。描くべきものも描けない筆に価値は無い。  失意に沈むこと数日、薄明の中で先生は夢を見た。どういうわけか目線は空ばかり向いて足下も覚束ない。踏み出そうにもよろめくばかりで進まない。ついに躓いて転び、ようやく周囲が目に入った。それは久しく忘れ去っていた風景。心の底に落ち込んで思い出すことの叶わなかった原点であった。  陽射しは烈しく大地を焼き、青々と茂った作物をも褐色に焦がす。蛙も蛍も息を潜め、飽き足りぬとばかり熱風は小川を干した。誰もが悲嘆に暮れ、天の気まぐれを呪った夏の日である。あれはいつの頃だったか、虚ろな意識で先生は回顧した。乾いた土のにおい、枯れた草の色合い、命尽きかけた川のせせらぎ。老人の魂は往時に帰る。  先生は知らず涙を流した。村が死にゆく姿を眺め、無情な天を怨嗟した。何を為すこともできない、人の悲運に涙した。  だからこそ祈ったのだ。愛した山河を胸に想い、届かぬ祈りを筆に託したのではなかったか。慢心もなく、自尊もなく、心に刻まれた純真な祈り。それを描き出すためにこそ、先生の筆はある。  忘れていた、それは先生が初めて筆を執った若き日の夢だった。称賛に押し上げられ久しく見失っていた。思い出の中で、時間の感覚もないまま、先生はかつてのように祈り続けた。  やがて雨が降り始めた。先生の胸中は不思議と穏やかに凪いでいた。あの日のように蛙の声が聞こえる。夢か現か、それさえ判然としない合唱を耳に、先生は目覚めた。  憑きものが落ちたように足取り軽く、先生は表へ出た。何の憂いもなく、久方ぶりの朝日を存分に浴びる。その姿はすぐ弟子の目に留まり、辺りは村民も巻き込んで祝宴の様相を呈した。  ついに姿を現した先生は、以前の倨傲がすっかり鳴りを潜めていたため人々を大いに驚かせた。閉じこもっている間に冬は去り、川辺の蛙が春を歌おうとしていた。
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