純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号159 『名残り火』  昼過ぎに小雨が降ったせいで、土が湿っていた。送り火を焚いたあと海へ出ると、妹の依子がついてきた。  堤防の縁に座って夜の海を眺めていると、隣に座った依子がぽつんと言った。 「つまらんね。なんも、見えんね」 連絡船の時間を聞くと、朝一番で行くと答える。 「弘の塾があるからね。夕方の飛行機で帰って、明日からは夏期講習よ」 膝を抱えていた腕をほどき、仕度があるからと言って立ち上がった。  堤防から道へ飛び降りざまに振り向いて、 「ほんとに、なんもないね」 そう言い捨てて港へ向かって戻り始めた妹の後ろ姿は、じきに街灯の向こうへ消えた。あとには、暗い海が打ち寄せる波の音と、ねっとりと肌に張りつくような、潮のまじった闇。  何もないわけではない。隣の島の黒い影。その向こうには、本四架橋のライトが、点滅する銀河のように本土へ向かって流れて行く。子どもの頃は、本物の天の川が見えた。決して変わらない宇宙の原理のように思えた星座が、何十年もしないうちにすっかり姿を消してしまったが、明るい夜の下で、海だけは深く動かない。  瀬戸内の海は穏やかだ。それを知ったのは、中学の修学旅行で訪れた、高知の海を見たときだった。初めて見る太平洋の波は、陸を洗い尽くすように荒々しく、力強かった。  何もかもタイミングだったと思う。高校を卒業して、勤めに出た今治のタオル工場で事務の仕事をしているとき、信金の若い職員と知り合った。職場に来る度にお茶を淹れ、そのうち近所のスーパーで菓子を買ってきて出すようになった。半年ほどそんな状態が続いて、それ以上何も起こらないように思われたとき、偶然町で出会った。  誘われて人目を気にしながら、喫茶店に入り、コーヒーを飲んで世間話をするうちに、映画が好きだと言う話になった。話題の映画を見たいと言うと、青年はポケットからチケットを取り出した。 「・・・今度行ったとき、誘おうと思っとったんだけど」 『愛と青春の旅立ち』と言う映画のタイトルに照れたように、うつむきながら、 「来週の日曜に、どうですか。国際ホテルで食事してから」 突然の誘いだったが、以前からそんなことがあるのではないかと、そんなことがあればいいと密かな期待があったから、すんなりと目の前の青年を受け入れて、初めてのデートの約束をした。その前日、島の実家から電話をしてきたのは、当時まだ高校生だった妹の依子だった。 「お母ちゃんが、倒れたよ」  脳梗塞だった。まだ四十半ばだったが、倒れてそのまま島の診療所で息を引き取った。急いで会社の同僚に連絡して欠勤の届けを頼み、松山へ出て連絡船に乗り、着いたときにはすでに冷たくなっていて、ことばを交わすこともなく母は逝ってしまった。  みかん山の手入れをしながら、実家の食料品店を切り盛りして姉妹二人を育てた。今治のタオル工場で働いていたとき、父と知り合ったと聞いた。九州のどこかの炭鉱町で生まれたと漏らしたこともあるが、詳しい生い立ちを話したことはない。  母の思い出は、凍らせたみかんを浮かべて入るみかん風呂。柑橘の爽やかで甘い匂いと、風呂場の窓から見た、崩れるような銀河の流れ。そして、お酒が入ったときに歌ってくれた、炭坑節。  葬式やそのあとごたごたして、一息ついたのは初七日を過ぎた頃だった。結局タオル工場には退職願いを出し、母に代わって家族と店の面倒を見る決意をして、ハンドバッグの中身を片づけていると、忘れていた映画の前売り券が出てきた。あの人に連絡をしなくては。そう思い、折りじわのついたチケットを眺めながら電話機のところへ行って、ダイヤルに指をつっ込んだまま、ぼんやりと蝉の声を聞いていた夏の終わり。  もしそんなことが起こらなくても、あの人とは映画に行って、それきりになったかもしれない。もしつき合っていても、結局は、別れることになっただろう。考えても仕方のないことを、ときどき思い出す。そういうとき夜の海を眺めに来て、深く暗い、夜のざわめきに耳を傾ける。  成績の優秀だった依子を、松山の大学まで出してやれたのはよかった。まだ元気だった父とみかん山をやりながら、夢中で卒業させて、松山の石油会社に就職した依子は、東京から出向してきた若い社員と恋をし結婚して、男について東京へ行った。そのまま根を下ろして十数年。ときおり電話をしてくる声は、すっかり標準語になっている。  盆には甥の弘を連れて必ず島へ帰っていたが、少し前まで夢中になって海で魚や貝殻を採っていた弘も、今年は買ってもらったばかりのゲーム機から離れずに、クーラーもない実家の部屋に寝転がって、早く東京へ帰りたいとしきりに言っている。  街灯の影に消えた依子を追うように立ち上がり、サンダルのかかとを鳴らしながらアスファルトの道を小走りに帰ると、玄関で、居間の方から声が聞こえた。 「来年は、弘が受験じゃけん、帰ってこられんかも知れんよ」  夕食の片付けのあと縁側へ出ると、依子たちの部屋から甲高い声がした。 「そんなこと言っても、みかん畑なんかいくらにもならないわよ・・・」 開いた窓の向こうからこっちを見て、気が付いた依子はきまり悪そうに携帯電話をしまった。  蚊帳を吊ってやると、面倒臭そうにもぐりこんだ弘が扇風機の前に張りついて、暗がりの中でまだゲームに夢中になっている。ゲーム機のライトがホタルのように点滅すると、その度に、部屋の中が明るく蛍光色に光った。  そのようすを縁側からぼんやり眺めていると、 「ちょっと、いい?」 依子が隣へ来て座った。東京の暮らしのことなどを話し始める。携帯電話を持たないと言ったら、驚いた顔をした。 「なんで、不便やろ」 家の前へ出て大声で呼べば、集落中に聞こえると言って笑うと、あきれている。  以前だったら、そんなことでは世の中から取り残される。インターネットもメールも知らなくては、生きて行けなくなる、今度買ってきちゃる、と言っただろう。 「お姉ちゃんも、女を捨てたらあかんよ。もうちょっと自分に構わんと」 そう言って、東京で買った化粧品や香水をみやげにもって来たが、この頃ではぷっつりと、そんなこともなくなった。  子どもの頃のように、縁側に座って膝を組む依子を眺めると、視線に気がついてうつむいたが、すぐに気を取り直して依子は切り出した。 「ねえ・・・みかん山、どうするの?」  父が心臓で倒れて松山の病院に入院してから、一人ではやりきれなくて、みかん山は放ったらかしにしてある。もう何年も前から、苦労して作ってもいくらにもならなくなってはいたが、先祖からもらった畑だからと、父は頑固にみかんを作り続けてきた。その父も、退院してきてからはめっきり弱って、父の世話と食料品店のきりもりで時間的にも体力的にも余裕はなかった。 「あれ、売ったらいくらぐらいになるの?」 と依子が言ったので、驚いて見つめると、依子は居直ったように表情をこわばらせた。 「だって・・・わたしにも、権利はあるのよ」 切り口上になる。  住んでいるマンションが古くなった。今、都内のマンションは買い時で、弘が受験を予定している中学の近くに引っ越したい。頭金が少し足りない。  すねるような口ぶりに思わず笑い出した。 「買ってくれる人があったら、タダでも持って行ってもらいたいわ。こんな、観光客も来んような年寄りばっかの島で、誰がお金出して、みかん畑を買うと言うの。いくら農地でも、税金だけは毎年ちゃんともって行かれるんやもん。あんたが、引き取ってくれるなら、明日からでも名義を変更していいよ」 依子はびっくりしたように口をつぐみ、しばらく黙っていたが、 「じゃあ明日、早いけん」 そう言うと、立ち上がって部屋へ戻って行った。  窓の中ではまだ、青蚊帳が、ちらちらと白い光の中に浮かび上がっては消え、浮かび上がっては消えている。それは、送り火の青白い炎にも似ていた。  翌朝、九時の連絡船に乗る依子と弘を送って、父と港へ出る。父に小遣いをもらった弘は、新しいゲームソフトが買えると喜んで、乗船場の方へ走って行った。その後をゆっくりと、前かがみになった父の影がついて行く。 「来年は来られんの?」 念を押すように言うと、 「弘が受験やけん・・・。この辺はのんびりしてて、ええね。東京では教育にえらくお金がかかるのよ。塾代だって、たいへんよ。パパのお小遣い、半分にしてもらったんだもん」 新しいマンションは、あきらめるのだろうか。 「受かっても・・・遠いから通学が大変で、かわいそうやわ」 桟橋に横づけした連絡船の前で、手を振っている弘を見ると、 「お姉ちゃんはいいね、気楽で」 そうつぶやいて、父と息子の方へ駆け出して行った。  あとから着いて、降りて来た船員から明細を受け取り、運ばれてきた荷物を確認する。この島の年寄りたちの生命線になる荷物だった。今では人口が百人足らずになった島で営む、生活雑貨と食料品の店は、利益を上げているとは言いがたい。しかし、無くなってしまえば、この島の老人たちは途方に暮れるだろう。  店まで届けてもらうように頼んで、依子たちを見送って連絡船の中へ入る。さすがにしんみりして、 「弘が中学に受かったら、来るからね」 しきりに父の手をさすって、妹は涙ぐんでいた。普段生活をともにしていても、感じられるほどの父の老いを、妹はどう受け止めているのだろう。いずれ父がいなくなれば、依子はもう、ここへはやってこなくなると言う気がした。  船が出て行くと、再びこの島で最年少の住人になった。もう何年かすると、母が死んだ年になる。母は幸せだったのだろうか。母の生きていた時代は、島の暮らしに翳りが見え始めた頃だ。若い者はどんどん島を去って松山や今治へ出て行き、みかんは自由化で利益が出なくなっていた。それでもつつましく、堅実に生きていれば日々の暮らしは変わることなく、ささやかに続いて行く。そう信じることのできる時代に、早々とこの世と訣別した母の、残りの人生を自分は生きているのかもしれない。母が見なかったものを見て、この島の店じまいを見届けるために、あの日、ここへ呼び戻されたのだろうか。  夜、夕食の後で思いついて、昨日の残り湯に凍らせたみかんを入れた。焚きなおした風呂に、先に入った父が気持ちよさそうに、 「珍しいな」 と言っているのが聞こえる。  終い湯に入ると、甘い柑橘の香りが胸に入った。栓を抜いて湯船を洗っている間も、懐かしいような寂しいような匂いが漂っていたが、水で流すと排水溝の奥に消えた。 「お灯明を上げてくるよ」  父に声をかけると、聞こえたのか。居間でテレビを見ながら、「うん」とも「ああ」ともつかない返事をした。玄関でサンダルをつっかけ、暗いアスファルトの通りへ出る。  海岸の堤防沿いに歩くと、今朝、妹たちを見送った青く凪いだ海が、暗く、静まり返っている。その底に、高知で見た太平洋の波の荒々しさを感じて、昂った気持ちで石段を登り、高台にある社へ向かう。かつてこのあたりにも村上水軍が根城を持っていて、菅原道真を祭った神社を島に建てていったと、子どもの頃に聞かされた。  神社の世話をしていた、上浜の若奥さまと呼ばれている人が腰を痛めて、代わりに境内の掃除を引き受けて半年になる。若奥さまとは言っても、もう六十を過ぎていた。家にいてもほとんどしゃべらない父と、並んでテレビを見るだけだったので、この時間に灯明を上げ、火事にならないよう燃え尽きるのを待って家に戻るのは、さして苦にはならない。  待つ間、林を抜けて甕岩と呼ばれるあたりで腰を下ろし、開けた村の全景を見下ろす。その向こうには暗い海が、そして水平線を縁取るように、対岸の松山の街の火がちらちらと輝いていた。  手を伸ばせば届きそうな気がする。けれど、夜空の星と同じように、それは決して届くことのない世界だった。  あと、何年この島で今の暮らしを続けるのだろう。夏の間に、酷暑を越えられずに葬式を出した家が三軒。子どもたちを頼って、松山や本土へ去る家族もある。めっきり年老いた父は、あとどれくらい店を守ると言い張るのだろう。そしてそのあとは。  けれどもそれは、そんなに差し迫っているわけでもない。少なくともあと十年、あるいはさらに数年。そしてその先のことは、わからない。  対岸の松山の灯かりは、取り返すことのできない過去のようにも見える。そして、今はまだ考えもつかない未来のようにも思われた。  時間を見計らって立ち上がると、草むらの中からついと光が飛び立った。一瞬ホタルかと惑い、すぐに思い違いに気がついて苦笑しながら光の消えた方を見ると、つんと澄んだみかんが匂った。どこの島からか、風に乗って盆踊りの炭坑節が流れてくる。盆は昨日で終わったはずなのにと、首をかしげながら林の間に、ちらちらとまだ燃え続ける社の灯明に誘われるように、草いきれの中へ足を踏み出すと、頭の上で、送り残した火のように星の影が揺れた。
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