純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号150 『鈴虫』  窓を開ける。半日かけてため込んだ煙草の煙が外気と混ざり、この部屋は私だけの空間ではなかったのだと思い出す。何度繰り返しても慣れないこの憂鬱な習慣は、逃避した先から私を現実に引き戻してくれることはあっても、ほかの何物も与えてはくれなかった。  南向きの日当たりがいいその窓は、佳織のお気に入りだった。一か月ほど前に二人でこの部屋へ引っ越すことに決めたのは、佳織がその窓を気に入ったからであった。私には、ただそれだけの理由でも十分だと思えた。  彼女は仕事を終えてまっすぐ帰宅すると、自分と私のために料理を作ってそれを食べ、洗濯をし、そして、私の腕の中で眠るのだった。 「ただいま」  帰宅した佳織の様子が、いつもと違った。 「これ、鈴虫を買ってきたの」 「鈴虫?」 「あなたと一緒に、鳴き声を聞きたいと思って」  それだけを私に告げ、テーブルの上に荷物を置いてから、佳織はいつものように台所へ向かった。  プラスチック製のその小さな飼育ケースの中には、鈴虫が四匹と、輪切りにされたキュウリが数枚入っているだけだった。彼女が言う鳴き声は聞こえなかったが、それは私だけの問題なのだとふと気付かされて、彼女の後姿を目で追った。包丁で食材を刻む音がして、それがいつもより大きく聞こえること以外には、いつのも佳織と同じに見えた。  佳織は本当に聞こえていないのだろうか。無意味な疑問だと知りつつも、私は時折そんなことを考えた。私と接するときの彼女はなんというか、耳が聞こえない自分のことにまるで気が付いていないような、それこそ、聞こえているのに聞こえないふりをしているようにさえ見えることもあった。私は彼女の障害を嫌ったことがなく、むしろ口下手な自分にとってはありがたいくらいだと考えていた。そんな彼女の、不可解とも思える行動や態度は、私をひどく不安にさせた。鈴虫の鳴き声を聞くたびに動悸が起こり、眠れない夜が増えていった。 「どうして鈴虫なんか買ってきたんだ?」  窓辺に座る佳織の背中に問いかけた。初夏の風が、彼女の髪を撫でながら通り過ぎて私にぶつかり、あたりに散った。 「どうしてなんだ、お前は聞こえないだろう?一緒に聞くことなんてできないじゃないか」  彼女は振り返らない。  私の背後で、鈴虫が一つ鳴いた。 「聞こえないことで、俺に負い目を感じているのか?」  私は鈴虫が入ったケースを床に下ろして蓋をはずした。 「お前に何もしてやれない自分が憎いよ、佳織。君と一緒にいてもいいのかな」  これは賭けだ。  私はこれから、鈴虫を一匹ずつ握りつぶしてゆく。最後の一匹を握りつぶすまでに、彼女が振り返れば私の勝ちだ。振り返らなければ、私の負け。 「お前のことが大好きなんだよ」  一番小さな鈴虫を手のひらに乗せ、強く握りしめた。「グチュ」という音と一緒に、潰れる感触がした。それから、潰れた感触を解き放つように手を開くと、醜くい残骸が痙攣していた。二匹目も、三匹目も、同じように醜く潰れては痙攣するだけだった。 「お前のことが大好きなんだよ、佳織」  一番大きな最後の一匹を手のひらに乗せてから、彼女の背中に目を向けてはみたが、ゆがんだ視界の向こうにいる彼女の姿は、鈴虫の残骸とひどく似ていた。
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