純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号149
『宇治の橋姫』
源氏物語「夢浮橋★ゆめのうきはし★」は未完のままで終わった。
だからあたしは、今、途方にくれている。女主人公の浮舟は思った。
物語が途切れてしまい、あたしはこのまま永遠に苦しみ続けるのだ
あたしは母に愛されて育った。
母以外の誰があたしを庇護してくれたろう。
あたしの父、八の宮さまは、お腹にいるあたしともども、母を見捨てた。母とのことは、いっときの気の紛れに過ぎなかったから。
高貴の血を引くゆえに、母はあたしを尊んだ。
娘にはなんとしてでもよい縁組を。自分のようにみじめな思いはさせるものか。
母が飛びついたのは源大将、薫さまだった。第一級の名門貴族で、ご自身も帝の信頼を一身に受けておられる。
あたしは妻のひとりとして、幸せな生涯を送ることができるのだ。あたしは何もものを思うことなく、母に順々と従った。
薫さまの隠し妻として、宇治の山荘にかくまわれ、時々の薫さまの訪れを待つ身となった。あたしの小さな世界はそれで充分だった。
あたしの腹違いの姉、中の君さま。その夫は帝の第三皇子だ。世間はこの方を匂宮★におうのみや★とお呼びしている。
ある日姉の所へ訪れたあたしは、匂宮さまに見染められてしまった。宮さまは、薫さまが居ない宇治の山荘に忍んで来て、無理やりわたしに迫った。
宮さまとの密★みそ★かごとに、あたしは生まれて初めて心を揺さぶられ、熱に浮かされたように溺れこんだ。
水を浴びたように冷静になったのは、薫さまに宮さまのことを気づかれた時だ。
そこからあたしの地獄は始まった。
あたしは薫さまの良さがわかり始め、しみじみといとしく思うようになっていた。
薫さまのよそよそしかったこと!
正面からは決してあたしの罪を問いたださない薫さまに、あたしは苦しめられた。
かと言って、匂宮さまとの恋を貫けば、今度はあたしが姉君を苦しめることになる。
自分がいったい誰を本当に愛しているのか、もうわからなくなっていた。薫さまと匂宮さま、あたしはどうしても、どちらかひとりを選ぶことができない。そんな力はあたしにはなかった。
母は、薫さま以外の男とあやまちを犯したら、もう娘とは思わないと言い切った。あたしは母に見捨てられては生きていけない。
思い悩んだあたしは、夜間に家を抜け出して、宇治川に身を投げることに心を決めた。そして……。
気がついたらここに、尼君の屋敷にいた。尼君とその兄上である僧都さまに助けられたのだ。尼君は亡き娘御を再び見出したかのように、心をこめてあたしの世話をして下さった。
亡き娘御の夫に、あたしはまたも言い寄られた。あたしは心を決して自分で髪を切り、強引に僧都さまに得度していただき、尼になった。ああ、あの時の安堵の思い……。
薫さまにあたしの居場所を見つけられてしまった。
尼君と僧都さまはあたしに還俗を勧める。あたしはこの方たちに保護されているのだ。
あたしは薫さまが怖い。本当は、絶対にあたしのことを許しておられない。
そんな方と知っていて、何ごともなかったかのように、薫さまとの生活に戻ることなんてできるはずがない。
またしても、ふたりの男のどちらを取るか、という悪夢のような状況に落ち入るのだ。
もう絶えられない、こんなことは。なんとか逃れるすべがあれば……。
「どういうことか? きみのことを、助けたと思っていたのだが」
浮舟は男の声に驚いて振りかえった。若い男が格子の遣戸★やりど★もたれて座っている。あきらかに高位の人が着るような濃き紫の、しかし萎えてしまった直衣(のうし)を着ていた。その姿と声に浮舟はぼんやりと覚えがあった。
「あなたは。あたしが宇治の山荘から出るとき……」
「そう、君は真夜中に雨混じりの激しい風に打たれながら簀子★すのこ★に座りこんでいた。私は君に近づいた。君は放心していて、まったく人形みたいだったね」
「あなたは『さあ、私のところに』と言って抱いてくださったわ。あたしはそれから先のことは覚えていません。気がつくと、この屋敷に寝かされていました」
「私は君を抱え上げ山荘を出て、木の下に横たえた。僧侶の一行が君を見つけた」
男の声、その姿には、異様にもの憂げな調子がひそんでいた。しばらくして、
「あの館から連れ出して、君のことを助けられたと思ったんだ」男はもう一度言った。
浮舟はいぶかしんだ。
「なぜあたしをお助けになったの。あたしは宇治川に身を投げて死のうと思いつめておりましたのに」
「どうしてだろう。いつも私がやっているように、女が夜ふらふらとあくがれ歩くのは気になるんだ。あの夜は恐ろしいくらいの嵐だったから、それで同情したのかな」男はにこっと笑った。
浮舟の身の上話を静かに聞き終えると、男が口を開いた。
「因果を断ち切るため、繰り返しあなたは正しく決断したと私は思う。どうも私は中途半端な助け方をしたようだ。よろしい。あなたはまだ死にたいか? それなら、死なせてあげるけど」
「今ではもう死にたいとは思いません」
「じゃあ何、君が望むものは」男はやわらかな声で尋ねた。
「あたしが願っているのは、どなたもあたしのことを思い捨てていただくこと。静かにみ仏にお仕えすること。毎日みなに責められるのは本当に辛いんですの」
「よし、では私と行こう。誰もやって来ない静かな家にあなたを連れて行って上げるよ」
「里人はあなたのことを狐だとうわさしています。本当にあなたは狐? それとも鬼かしら?」
「それ、半分のそのまた半分ほど、当たっているかなあ」男が真顔でつぶやいた。
「私は鬼に食われたんだ。それははっきりしている。しかしどうかな。今はもう自分が鬼になってしまったんじゃないかと思うんだ。君はそれでもよいか?」
「あたしはかまいません。宿世からのがれることができるなら、あなたが狐狸でも鬼でもあたしにとってはみ仏ですわ」
「わかった。ついて来たまえ」
若い男はふらりと立ち上がって、遣戸を開けて出て行った。男には影がなかった。浮舟が魅入られたように後に続く。男が浮舟に手を差し伸べた。
浮舟は男に連れて行かれた家で、おだやかで静かな日々を過ごした。小女ふたりと下男ひとりが仕えるだけのささやかな生活だが、尼の身には充分の暮らしである。
時どき男がたずねて来て、軒先の板敷きにぽつんと座った。月の光の中で少し話をすることもあった。
十年過ぎたある日、男が部屋に上がると、
「だめだった。君のお母上は亡くなられた」と言った。
「ああ……! お母さま!」
浮舟は顔をおおって打ち伏した。自分は母の期待を完全に裏切ったふがいない娘で、ついに母には悲しみしか与えなかったのだ。浮舟の傷心の日々が続いた。せめて浄土での母の幸せを願って、ひたすら祈り続けた。
年月が流れ、ある日男が、
「帝はご退位だ。帝の弟君、あなたに縁★えにし★のある東宮が践祚★せんそ★された」
若き日の匂宮との憑かれたような恋は、今では苦い思い出だった。しかし気がかりなことがひとつある。
「私の母違いの姉上は……?」
「后宮★きさいのみや★に冊立されたよ。あの方の皇子が新しい東宮だ」
「そうなんですか……。よかった、本当によかった」
それでは、宇治の八の宮の一族にも春が巡って来たのだ。
さらに歳月が流れた。
「左大臣、源薫★みなもとのかおる★殿が、亡くなられた兄上を追い越されたよ」
「それはどういうことですの?」
「太政大臣を拝命したんだ」
浮舟は微笑した。薫は官僚として第一級の才能を持つ人だった。
帝がみ位を東宮にゆずられた。
隠棲していた薫が亡くなった。
浮舟はすっかり年老いていた。若き頃、あれほど死ぬことを願ったのに、白髪になるまで命を長らえた。
男は若い姿のまま、相変わらず浮舟を訪なってくれた。
浮舟が関わりを持つ人々はすべてこの世を去っていた。浮舟はおだやかな気持ちで昔を振り返る。すでに苦しみもなく、あの懐かしい人々を心から愛しく思えるのだった。
今、浮舟は病の床についている。男がそっと枕もとに座った。
「よかった。もう一度お目にかかれて。ひとことお礼を申し上げたかったんです。あたし、あなたに救われました。こちらに来てから、ずっとおだやかな日々を過ごさせていただきました。ありがとうございます。このうえはあなたが成仏されるよう、わずかでもお助けできたらよいのですが」
「ああ、私のことならいいんだ。自然に任せていれば、いずれは消滅するよ。かまわない、かまわない」
明け方浮舟の顔に変化があり、男は浮舟があちらへ逝ってしまったことを悟った。
浮舟の遺骸を鳥辺野に送り、遺骨を寺におさめた。
その夜浮舟の住んでいた家に行ってみると、ささやかな調度類は手配のものがもうあらかた片付けていて、部屋の中はひどく狭くがらんとして見えた。
月の光が昼間のように床一面を照らしている。男は縁先にぽつんと座った。
これで君もいなくなったな。
浮舟が暗い部屋の隅から現われた。初めて会った時のような若い娘の姿だった。
男は浮舟を見上げて吹き出した。
「おやおや、これは。いったいどうしたわけだ」
浮舟は、初めて男が見る、さばさばした表情だった。
「ああ、あたしだめだったんです! 仏になるには足りないものがあるって、撥ねつけられました。出家して、何十年も立つのにねえ。地獄の方にも断られたんです。だからこちらへ戻って参りました。ありがたいことに、縁★ゆかり★のみなさまは大丈夫、成仏なさったみたいですわ。あたしに足らないものって、いったい何でしょうね」
「私にもわからないよ。それがわかったら、私も成仏できるんだ」
青白い月の光が射す浅茅生の庭に、ふたりの笑い声が響いた。
「この世に心を残して死んだわけじゃないのに……。困ったわ。若い頃と同じような悩みがまた始まった。あたしには、結局、居場所がないんです。いったいあたし、どこに行けばいいのかしら」
男は真面目な表情になった。
「ああ、それなら簡単に答えられる。君は宇治に帰りたまえ」
「宇治へ?」浮舟は眼をみはった。
「そうだ。宇治川にかかっている、あの大きな橋に棲みつけばよい。君は仏になるには少々無理があるかも知れないが、宇治の橋姫としての適性は認めるよ。あの橋には今、橋姫がいないんだ。行けよ、君にはふさわしい。しかし、通行人をあまりいじめるな?」
浮舟は少し考えている風だったが、すぐうなずいて、
「それは面白そうね。やってみますわ」
「送って行こうか?」
「大丈夫、あの橋ならよく知っているから、あたしひとりで行けますわ。いろいろとありがとう! あなたが宇治をぶらぶらする時は、遊びにいらして下さいね」
浮舟は微笑している男にほほ笑みを返し、庭先に下り立つと、その若々しい姿は、男の前からたちまち消え失せてしまった。