純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号142 『フーガの技法』       A1  コーヒーの匂い、暖炉の火の穏やかな音、そして鼓動の響きだけが残った。外の雪は止みそうにない。  彼はオーディオの電源を落とした。CDはバッハの『フーガの技法』で、聴いたのはこれが初めてだった。少し汗をかいていた。  その曲は突然終わったのだ。最後に一音だけ鳴らし、何の前触れもなく。  『フーガの技法』はバッハ絶筆の作品で、未完のままであった。一般的には作曲を終えずにバッハが死んだのでそうなったと言われている。彼もそれを知って聴いていた。  ところが最後の一音を聴いた、その瞬間の感覚はそれを否定した。未完ではない。そこで途絶えたというより、そこで到達した。そう感じた。バッハは人知を超えた表現に踏み込んだ。だからもう音はなくなったのだ。  仮にバッハが生き長らえてその続きを楽譜に書こうとしても、何も書けなかったに違いない。もはや表現しようとした領域は人間にとって不可知であり、バッハにおいても認識を超えるものを記号にすぎない音階という言語に落とし込むことは不可能だ。  彼の興奮はまだ冷めずにいた。最後の一音はそれほど彼に響いた。  カップに残っていたコーヒーをぐいと口に含んだ。もうまずくなっていた。新しく淹れなおそうと立ち上がって壁に手をつくと、外の寒さがそこから伝わった。石造りのアパートはよく冷えた。       B1  外国である必要はなかったのかもしれない。しかし彼はなるべく遠いところへ逃れたかった。そこは石ばかりの街だった。欧州ではありふれた街並みだが、日本とはまるで共通点のない異文化世界が彼には心地良かった。  道はどこも石畳で、建物も石造りなのは彼の住んでいるアパートも同じだった。それはアパートが立ち並ぶ通りの端にあり、五階建てだった。彼は三階の一室で生活していた。  石造りの家は冬になるとひどく冷え込み、常に暖炉の火を必要とした。そしてコーヒーや紅茶など、温かい飲み物をよく飲んだ。  『フーガの技法』を聴いた後もコーヒーを飲み、しばらくしてから彼は昼食を食べに外へ出た。  アパートの玄関の段差を踏み越え、彼は雪の歩道に出た。白に染まった世界には音も匂いもなかった。外気は刺すように冷たく、厚着をしていても寒かった。雪は強く降る訳ではないが、ずっと降り続けていた。  向かいの家の前に一人の少女が立っていた。その家は三階建てで、三十前後の金持ちの男が一人で住んでいる。男はおそらく独身で、家政婦を雇っていた。しかし男の性格が余程悪いのか、しょっちゅう家政婦が替わる。だからその男と全く交流のない彼でも、その少女が新しい家政婦として来たのだろうとおおかた予想は付いた。  これほど寒いというのに家の外で待たされる少女を、彼は気の毒だと思った。男はいつも若い家政婦を雇っていたが、少女はまだ幼さが残るほど若く、十六くらいに見えた。そのせいもあって余計不憫に思えた。だが彼が特別気にするようなことでもなかった。  小一時間が経ち、昼食を取ってアパートのあたりまで戻ると、彼は少女がまだ外で立っているのを見つけた。少女は白い息を吐きながら控えめに足踏みをしていた。黒に近いこげ茶色をした厚手の外套を着ているが遠目にも上等なものには見えず、寒そうだった。  さすがに彼も知らん振りは出来なかった。道路を渡り少女の方へ近寄った。距離が縮まるにつれて少女の顔がはっきりと見え、化粧もろくにしていない青ざめた顔で頬だけが赤く色づいているのがわかった。 「寒いだろう、向かいのアパートで待っていなよ」 「ありがとうございます。でもここで待っているように言われたので大丈夫です。多分すぐに入れると思います」  少女は素直そうに言った。彼は少女が本当にそう思っているのだと感じた。もしかすると最初に見かけた時からずっと立っていた訳ではないのかもしれないとも思った。しかし、それにしては弱っている感じでもあった。  彼はさらに少女を気遣ったが、少女は大丈夫だと繰り返し言った。従順なのか強情なのかわからないが、そう言われてしまうと彼は納得してその場を後にするしかなかった。  彼がアパートの入り口を越えようとしたとき、怒鳴り声が聞こえた。彼には「早くしろ!」という言葉だけが聞き取れた。振り返ると少女が乱暴に手を引かれてゆき、男に押し込められるようしてに中へ入っていった。  彼はそれを見て少女をかわいそうだと思うより、まず真っ先に男を醜いと思った。見た目も以前見かけた時よりも肥え、小太りと言われるに十分な体型となっていた。  そして彼は少女のことを思った。もしこれがあの家の敷居をまたぐ最初の機会だとしたら、彼女は自らの将来にどれほどの不安を抱くだろうか。それは単に当面の生活における問題だけで済まない。人生における大事な時期をあの家に託すべきではないのは明白だ。彼女もそれを感じているかもしれない。それともあの家では嘆く暇もないのだろうか。  彼はそう思うとますます男を嫌悪した。なぜあのような男が働きもせずに遊んで暮らし、少女が働いても報われないのか。その理不尽だが当たり前の現実がもどかしかった。  しかし、次第に虚しさや罪悪感が募っていった。そういうことを考えるといつもそうだった。質素に暮らしてはいるが、彼自身にも十分な財産があり、働かずに生きていた。実際、少女のような人間から見れば向かいの男も自分も同じ類の人間であることは容易に想像できた。       C1  気がつけば扉の前だった。しかし、歩いてきたのは確かに彼自身だ。  彼は自覚を余儀なくされたのだった。  あたりは雪に覆われ、ただ平坦な地面がどこまでも続いていた。空は灰色で、まるで変化がない。何か降ったりもしないだろう。  彼の後ろには道が出来ていた。それは無数の足跡が作った道だった。そこだけ泥で雪が汚れていた。しかし、それが人が生きていた証であり歴史であった。  彼はその先端にいた。何もないところに立っている。そして目の前には大きな扉があった。  扉は途方もなく大きく、幅が数十メートル、高さは百メートル以上あるだろう。天国の門か。いや違う、掟の門かもしれない。  扉は固く閉ざされているようだった。だから扉の向こうは見えない。その扉は何かの建物の一部なのか、ただ扉だけが存在しているのか、彼にはわからない。世界は扉の手前にしかないのだ。       A2  旋律が体に馴染んでいく。いやもしかすると数本の旋律が体に絡みつき、少しずつ音楽に取り込まれているのかもしれない。  あれ以来一日一回は『フーガの技法』を聴いていてそう感じた。最初の衝撃はさすがにもう薄れ、聴きながらいつの間にか寝入っていることもあった。  一週間が経ったその日、彼はいつものように『フーガの技法』を聴いていたのだが、気がつくと部屋の寒さに起こされた。そこにもう音はなかった。  暖炉をつついて部屋を暖めながら、ふと窓の外を見た。雪が少し降っていて、街並みは霞んでいた。  向かいの家に目を向けると、二階の窓に少女の姿を見つけた。椅子に座っていた。その部屋には以前はなかったベッドが見えた。そこは今までカーテンが閉ざされていることも多く、外から見る限りでは長らく使われていないはずだった。しかし今は少女に住み込みの部屋をあてがっているのかもしれない。彼はそう推測した。  少女はじっとしたまま動かなかった。窓に背を向けてうつむいている。だが雪のせいであまりはっきりと見えなかった。泣いている。彼はそう思った。彼にはそうとしか見えなかった。他の可能性も十分にあり得たが、彼はやはり少女が泣いているのだと思いたかった。そんな惨めな状況でない方がいいとわかっていても頑としてそう思いたがる自分を、彼は残酷だと感じざるを得なかった。       C2  扉はやはり閉じていた。前と変わらない。しかし、だからと言って扉の圧倒的な存在感が薄れることはない。扉はこの世界より重いのかもしれない。  ここに立つ人間は立ち尽くすしかないのだろうか。そうではないはずだ。彼は思った。  すると変化は起こった。扉の向こうから声が聞こえたのだ。いや声という単なる空気振動なんかではない。音、というものを超越している。  話者は一瞬のうちに再びの沈黙を始めた。しかし、その一瞬は時間軸すら内包していた。溶け出した氷河の一雫に悠久の時間が込められているように。      A3  彼は目を覚ました。そして与えられた言葉について考える必要があった。  自覚のない彼は選択を迫られたのだった。自己か世界か、そのどちらかを終わらせなければならない。  話は理解出来た。それほど難しいことではない。しかし、決断は自分で下さなければならない。彼はどうすべきかわからなかった。  それは夢という形で現れたものだが、決して夢ではなかった。現実であった。話者は間違いなく、彼か世界を殺す。彼はそれを避けられない事実として受け止めた。しかしなぜ自分が決めなければならないのか、そこだけは納得がいかなかった。また、世界が死んで自分が生きるという選択肢は何を意味するのか、彼には全くわからなかった。      B2  その日は良く晴れていた。といっても気温は低く、地面は雪で覆われている。口から大きく息を吸い込むと冷たい空気がすうっと肺の中に流れ込み、体の内部が洗われるように彼は感じた。鼻から吸えば冷たい空気特有の、無味無臭の水のような風が鼻から滑り込み、頭の中が透き通る。  深夜までは雪が降り続けていたようで、歩道の雪は新雪だった。足跡はまだどこにもなかった。早朝だったのだ。  一歩ずつ歩くたびに、ぐぐ、ぐぐ、と雪が軋むような音を立てた。踏み固められる雪が出すその音は、空気を伝って耳から入ってくるのか、体の中を伝って響いてくるのか、彼にはわからなかった。  他人にも聞こえるのだろうか。それとも自分にしか聞こえないのだろうか。しかしどちらにしても足音が存在していることは確かだろう。彼は思った。  彼は一通り散歩をして自宅に帰ったが、朝食はまだ食べず、頃合を見てまた出かけた。  カフェでゆっくりと朝食を食べ、街をぶらぶらと歩きながら必要なものを買い揃え、いつもより高級なレストランで昼食を取った。午後はバスでもっと栄えている街に行き、あちこちで買い物をした。彼はいい気分だった。少し疲れていたので帰りはタクシーを呼んだ。  自宅の前でなく、CDショップの前で彼はタクシーを降りた。そこでモーツァルトのディヴェルティメントで名盤と言われているCDを買った。ちょうどその曲のような気分だったのだ。帰ったらすぐに聴こうと彼は思った。  店を出ると日が翳り始めていた。空には陰影のはっきりとした雲が浮かび、その端に西日の朱色が染みていた。彼は夕焼けを期待した。  自宅までの距離はそれほど遠くなく、普段は全く苦もなく歩いていたのだが、疲れていたために遠く感じられた。彼はタクシーを店の前で待たせておけば良かったかも知れないと若干の後悔をした。夕焼けはこれからでなくもう終わるころで、空が赤く色づくことはなく、次第に暗さを増してゆくばかりであった。風も冷たくなってきた。  彼が家のすぐ近くの角を曲がると、少し前にあの少女がいた。彼と同じ方向へ歩いていて、少女のすぐ前には主人である男がいた。少女は大きな手提げの布袋を持っていた。非常に重たそうで、彼女の力では無理があるだろうと彼は思った。少女はその重さのために体を傾けて不規則なリズムで歩き、足に障害をもった人間か、もしくは足枷を引きずる囚人のようだった。手提げ袋の紐がきつく手に食い込み、何度も左右を持ち替えているがその手は両方とも赤くなっていた。それに対し男は手ぶらだった。  家に着くと男はさっさと中に入っていった。少女は大きく重い荷物のために、何やら手こずってしまっていた。  その時だった。少女は入り口のどこかにぶつけたのか引っ掛けたのかしたようだった。荷物を置き、自分の手を抱えながら痛がった。 「大丈夫か?」  と彼は言おうとしたが、声に出せずにいた。すると中から「何ぐずぐずしてるんだ!」と罵声が飛んできた。 「はい、すみません」  彼女はそう言い、そんなことをしたら痛いはずだが、怪我をしたであろう指を一番内側にして力いっぱいに荷物を持ち上げ、怪我したことを主人に隠すようにして中へ入っていった。  彼は少女が怪我をして痛がり、うずくまりかけたその場所を見た。乱れた白雪に赤い点が散っていた。そしてその中に爪を見つけた。それは白く、半分は血で赤かった。おそらく彼女のものであろうそれは小さく、彼は小指の爪だろうと思った。  彼は少女を哀れんだ。彼女には選択肢がないのだ。ああするしかない。要求に応え、再び要求を得る。彼女の生活ではそれがすべての問題なのだ。ただ生きるために。彼女にとってそれは当たり前で、何の感情も抱いていないだろう。だからこそ彼はそこに悲しみを感じるのだった。  彼は赤く汚れた雪の上に綺麗な雪をかぶせ、爪を遠くに投げ捨てた。      A4  彼は帰宅すると荷物を乱雑に置いたまま、買ってきたCDを聴き始めた。しかし気持ちに馴染まなかった。聴いてみれば確かに名演なのだが、浮ついているように感じた。モーツァルトを聴くような気分ではなくなっていたのだ。彼は音楽をとめた。  彼は何かしっかりとしたものを聴きたかった。ならばバッハの受難曲でも聴こうかとも思ったが、気が滅入ってしまいそうな気がしてやめた。  結局、日々の習慣となっている『フーガの技法』を聴くことにした。彼はこの曲を聴き始めると、何だか上から押し付けられるような感じがして嫌な気持ちになった。しかし、体には良く馴染んでいたのですぐに落ち着いた。そして溜まった疲労によりいつしか寝入っていた。      C3  扉の前にいても何も起こらない。もしかすると自分で何かしなければならないのか。  彼はそう考えてみたものの、何もする気にはならなかった。目の前の大きな扉は自分が何かしたところでびくともしないだろう。彼は思った。  しかし戻ることも出来なかった。彼は不可逆な道の上にいたのだ。      A5  彼はただじっとしているということが出来なくなっていた。それは決断の宿命を背負わされたあの時からだった。  今までは何もせずにただ思索を巡らす、それだけで過ごすことが出来た。だから彼には暇を持て余すということがなかった。  しかし今は何かを考えるとすれば例の選択についてだった。意図しなくてもそうなってしまっていた。それは彼にとって重荷だった。逃れたかった。そのためには常に何かをしていなければならなかった。そうして彼はこの一週間、小説や音楽など、何らかの作品に接し続けていた。『フーガの技法』を除いて。  だが向き合ってしまう時間は一日の間に何度もあり、そのつど彼を悩ませた。そしてその圧力は次第に強くなって彼に迫っていった。  その日もやはり同じで、小説を読み終えた彼は大きく伸びをした。気だるい夕方だった。室内には熱を持った湿気がこもり、一度気がついてみれば不快で、彼は換気をしようと窓辺に寄っていった。  窓の外は薄暗く、小雪がささやかに舞っていた。その向こうにはあの家があった。そして二階には少女の部屋があった。  少女は窓に背を向けて立っていた。白いブラウスを着ていた。彼は窓を開けるのを躊躇した。  はらり、とブラウスが落ちた。彼女の背中は青白く、遠くからでも静脈が透けて見える気がした。下着は付けていなかった。  すると彼のいる三階からでは見えない、二階の彼女の部屋の奥から、あの男が寄ってきた。彼女はじっと固まったまま動かなかった。  男はすぐに彼女へ顔をうずめたので、彼は男がどんな顔でそんなことをしているのかを知ることは出来なかった。きっといつもより醜いのだろう。彼は男を憎く思っていた。  男は彼女の細い肩を両手で掴み、ベッドの方へと引っ張っていった。彼女はこわばったまま、ぎこちなく歩かされてベッドに近づいた。  ベッドのすぐそばに来ると男は彼女を押して寝かせた。背中よりもさらに白い小さな乳房は右ばかりが赤くなっていた。彼女はそれでもまだ硬直を続けていた。男は硬直した体にこびりつくように抱きついた。  人形だ、あいつは人形とやっている!  彼はそう思うと男に対する底知れぬ拒絶を感じた。なんて気持ち悪い奴だろう。  彼女の下腹部まで下品な手が這い、下半身の肌も露わにしようとしたとき、男の顔が卑しくにやついているのを彼は見た。獣の本能的な様子ではない。極めて文明的で、都会的で、人間的な醜い顔だ。彼はすぐさま自室のカーテンを閉めた。部屋の中は相変わらず不快な空気で満ちていた。  彼は暖炉の火を消し、気を紛らすために音楽でも聴いて寝てしまいたかった。そうなると思い浮かぶのは『フーガの技法』だった。  彼は『フーガの技法』を流し、ソファーにゆったりと座った。音楽に集中した。一週間ぶりに聴くその旋律は、期待通りに彼をいざなっていった。      C4  彼は苛立ち、扉の前でとうとう叫んだ。 「どうして俺なんだ!」  何の答えも返ってこない。 「一体どうなるんだ!」  依然として何もない。 「俺はどうすればいいんだ!」  彼の前には沈黙だけが用意されていた。それが何のためか、彼は考えなかった。      B3  雪は降っていないが、いつも以上に寒い日だった。アパートから出た彼は繰り返し時計を見ていた。五時まではまだ少し時間があった。  失敗はしない、必ず遭遇するだろう。彼は確信を持って歩道を早足で歩き出した。  しばらく歩くと、ある一本の道に出た。そこで彼は出来るだけゆっくりと歩いた。  少女は買い物をして、必ず五時までに帰ってくる。この道を通って。それは少女の習慣で毎日変わらずに続いていることなのだが、彼は頭の中で何度も確認した。  すると少女が前方から歩いてきた。手には小ぶりな手提げ袋を持っていた。あの握った手の中にも血の染みがあるのだろうか。彼は思った。そして彼は今更になって何と言おうか考えた。  しかし、そうこうしているうちに少女とすれ違ってしまった。 「ちょっと」  思わず彼は呼び止めた。 「なんでしょうか?」  その口調から、彼が向かいの住人だと知っているように感じた。と同時に、以前言葉を交わしたときよりも若干の余裕を携えているようにも感じた。化粧もしている。しかし瞳には無垢な疑問の色を浮かべていて、純朴さは失われていないのだと彼は思った。 「向かいの家で働いている子だよね」 「はい」  そう言うと彼女は安心したような笑顔を見せた。  彼はどう告げるべきか迷っていた。後に続く言葉を足せずにいた。 「なんでしょうか?」  彼女は再び聞いた。だが今度は彼の顔色を伺う様子だった。おそらく自然に出てきた言葉ではなかった。経験がそうさせた。彼もそれに気づいた。 「いや」  とだけ言葉を置いた。そしてまた黙ってしまった。  すると彼女の目に怯えの色が見え始めた。何かまずいことをしてしまったのかもしれない。そんな不安を彼女に抱かせてしまったことに彼は気がついた。そして咄嗟に一番言いたかったことを言った。 「うちに来ないか」  彼女は丸い目をして彼を見つめた。 「どういうことです?」  彼はその問いにはっとした。口に出た願望は答えではなかった。答えは彼自身でも出していなかった。家政婦が欲しかったのか。いや違う。妻として迎えたかったのか。それも違う。しかし彼は決めるべきだった。 「つらくはないのか」 「なにがです?」 「あの家は」  彼女は不思議がる様子だった。 「良くしてもらってますよ?」  彼はその言葉で彼女の立場と、それまでの生活に改めて気づかされた。彼女は自分の立場に何の疑問も抱かず、今までの経験からはむしろ恵まれていると判断しているのだろう。つくづく嫌な世界だ。しかし彼女はこの世界よりどこまでも小さく、無きに等しい。かろうじて存在していることが幸福だなんて馬鹿らしい。終わるのは世界でいい。彼はそう思った。 「そうか、ならいいんだ。時間をとって悪かった」  そう言って彼は少女の返事も待たずに背を向けて歩き出した。顔が熱かった。 「もつよ」  後ろで小さくその言葉が聞こえた。どこかで知っている声だった。彼は気になり、歩きながら振り返った。するとあの男がいて、手には手提げ袋があった。少女の手は自由だった。  そして少女の顔を見て足が止まった。彼は決めた。  彼は再び前を向き歩き出した。寒さは依然として変わらず、首を引っ込めたくなるほど風は冷たかったが、彼は我慢して歩こうと思った。  我々しか知らないが、その時の彼は笑っていた。      C5  進むのも逃げるのもこの道では同じことだ、重要なのは決断することである。彼は扉の前で思った。その言葉は誓いにも似た響きで彼を奮い立たせた。  扉は少しだけ開いていた。それでも彼にとっては十分な幅だった。  彼は足を前に出した。何もない雪に足跡をつけた。それだけで息が上がった。  もう片方の足も前に出した。体の底から汗が出た。  彼は一歩、また一歩と進んだ。そのたびに鼓動の高鳴りが強くなっていく。  あと一歩、というところまで来た彼の鼓動はどこまでも速くなっていった。最後の一歩を踏み出そうとすると、あらゆる感覚が破裂しそうなほど拡がった。そして超える。
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