純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号138 『愛の神殿 超掌編集』    真珠色の口紅  緋色は似合ったためしがない。  いつもいつも身にそぐわぬものばかり選んで、だからこんな結婚をしてしまったのだ。  蘭子は緋色の口紅をぬぐった。白に近い真珠色に塗り直す。  これが私の喪服の色だ。  蘭子は、ついに電話した。 「あの、もしもし? ……わたくし夫を殺しました……」    エンデュミオンの夢  ダイアナは少年の薔薇色に透けた頬に顔を寄せた。女神は少年がどんな夢を見ているか知らなかった。  アポロが馭す太陽の戦車が西の海に沈んだ後、少年は夢の海から滑り込んで、アポロと藻の中で官能のままに戯れるのだった。  そして時にはニンフの群れとも……。    妖かしの声  ここを開けてはなりませぬと申しつけたのに、貴方様はお入りなさいましたね。   闇の中から女の小さな声が聞こえた。  もう二度とここから出られませぬぞ……。  若侍は手燭のあかりをかざしたが開かずの間には誰もいなかった。    若侍は城を出て城下のわが屋敷に戻った。  お帰りなさいまし。  若い妻が式台に手をついて出迎えたが、その声はさっき開かずの間で聞えた女の声と同じだった。    主人公 薫  物語が「夢の浮橋」の帖まで進む頃には、薫の困惑はもはや堪えがたいところまで来ていた。 「紫式部殿、この物語、あまりにも私に厳しすぎません?」 「あら、ごめん遊ばしませね。それでは、片恋ならぬ相愛の恋人を差し上げましょう。この物語の中からおひと方お選び下さいまし。亡くなられた方でもかまいません。薫さまが仏門にお入りになればおよろしいのですから」  薫はもちろん、ひとりを選ぶ事などできなかった。 「どうしても、おできにならない……。ああそうですか。では不幸な物語はこれまで、と致しましょうね」  式部はさらさらと一語書き足した後、筆を置いた。  たちまち薫の姿は消えうせた。 「でもわたくし、そんな薫さまがお愛しゅうございました。もしかして……。すべての人を恋人になさるご器量をお持ちの源氏の君よりも……」    真夜中の城  城は今真夜中。  マリー=オルタンス姫はろうそく台を持つと、侍女に気づかれぬよう、そっと部屋を抜け出し、石の階段を尖塔へと上って行った。  今日は一年にただ一度の恋人の騎士との逢瀬の日。毎年の公式行事のようになっていて、真っ暗な塔の階段も怖くはない。  尖塔の部屋には、まだ幼な顔の残る少年騎士が姫を待っていた。彼はこちらを振り返ってにっこりした。 「姫様! おいでなさいまし。五十度★たび★の逢瀬となりましたね」  薔薇色のドレスの姫は、 「もうすぐ貴方様のところへ参りますわ。一の姫として、すべき事はすべて果たしましたゆえ。その時にはきっと、十六歳のわたくしに戻って……」  ゆるやかに編んだ白髪を持ち上げほほ笑んだ。    鬼を喰らう女  一条中納言公忠★きんただ★は、恋人高階橙子★たかしなとうこ★のもとに通う道すがら、橋の上で月を見上げて泣いている鬼に出会った。 「何を悲しむ」 「美しい男を喰らいたいのじゃ」 「私でよいのなら喰え」  中納言になった鬼は、橙子に会った。 「いっそう美しゅうなられましたこと」  笑った橙子の眼が青い鬼火のように妖しくゆれた。    姫か殿か鬼か 「私の夢の中に入っておいでにならないで。鬼か公忠★きんただ★様か知りませぬが、橙★とう★子はおいしくいただきましたの」 「月をながめて泣く鬼を見てから、我が身に妖かしがとりつきました。いったい自分は鬼なのかしら」 「もう、ようございます、お帰りなさいまし」  橙子はずっとひとりごとをつぶやいていたのだった。    月を見上げる源中納言  月は金を淡く掃いたようで、その身体の半分は蒼空の中に溶け込んでいた。  月を見上げてもの思いにふける源中納言雅懐卿がたたずむ、そのかたわらには、崩れかけた古い塚があった。  いにしえに、中納言某★なにがし★が、鬼になった恋人の姫君に喰われたという言い伝えがある屋敷跡であった。  姫はその後朽ち果てるようになくなったと伝えられている。  風がそよいだ。「私は橙子……」「私は鬼……」「私は公忠……」  過去の亡霊がこだました。しかし源中納言には聞こえなかった。  長い戦乱に都はほとんどが灰燼に帰し、鬼の話など意味もなかった。  生き延びた者はみな現世の修羅をくぐって来たのだ。  都を離れようか……。月を見上げる源中納言のもの思いも、そのことだけであった。    愛の神殿  女は自分の肌につけた香水の香りを、相手の男の肌によって知ったのだった。冷たく、みずみずしく、熱く。  女はいつも、シャワーの後の熱い肌に香水をほんのひとしずくつける。それは愛の儀式、祈りのようなものだ。  男はもう、戻って来なかった。それでも女は、廃墟になった古い神殿に青い月の光が降りそそぐように、思い出の香りをそそぎつづけた。  つむじ風のような勢いで、男が暗い部屋の中に飛び込んで来た。  それでは自分は、勝ったのだ。あの美しい女狐に。  青い月光のようなシャリマーの香りが、女の肌から立ちのぼって来た。  愛の神殿に時はない。だから本当は、廃墟になることはない。  生きている間はただ一瞬の燃え上がりで、せつなに消えてしまう恋。  廃墟になるのは現★うつ★し世の心と身体だけ。  この神殿に住む人々は 愛の幽霊たち、まぼろしの恋人たち。  二度とこの世ではめぐり会うことのない人たち。  かつてこの世にあった愛のすべて。  今宵も愛の神殿では、恋人たちがふたりの秘密をささやきあっている。
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