純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号131 『僕が歩道橋の上で悟ること』  目を閉じると、またあの時の記憶が蘇る。土の匂いが混じった風、青々とした木々がざわめく音、彼女の声。そんな記憶が、今でさえも簡単に蘇ってくる。それは、水彩画のようにはっきりとしないものだけど、それが逆に美しい。あの時は何とも思わなかった出来事や、それどころか僕を落ち込ませた出来事が、今となっては輝いているように思える。なんだかありふれた表現だけど、でもやはり、これが一番ふさわしいと思う。 ***  僕は、校舎の裏口から外に出る。開きにくく重いドアは、僕が手を離すと、スロー再生しているみたいにゆっくりとしまった。僕は裏口を振り返る。どのくらい古いのだろうか、いつもそう思うぐらいボロボロになった校舎だ。僕は、凸凹になったアスファルトの地面を慎重に歩く。六月の甘くて冷ややかな風は、僕の頬をなでるように吹き付ける。いつかこの風も吹き止むのだろう。それを僕は、嬉しくとも悲しくとも思う。  土曜の昼前だ、周りに他の学生の姿はなく、体育館から聞こえる掛声やキュッキュッという靴の音が辺りに響いている。僕は校舎を横目に見ながら、体育館の方へと歩いていく。校舎の窓には僕の姿が映る。がたがたになった窓に映る僕は、歪んでいて、幽霊みたいにぼやけていた。ただ僕が期待していたのは、この窓越しに彼女の姿を見ることだった。今見えるのは、生物室の入り口とホコリをかぶった怪しげな実験道具だけだ。僕は小さくため息をつく。いつもなら、ヴィオラを弾く彼女の姿がそこにあり、目が合い、互いに小さく挨拶をするのだ。けれど、今日はいない。そして、僕は落ち着かなくなる。別に、彼女がそこに居ないことで悲しむべき明確な理由なんてないのに。  体育館の、これまた開けにくく重い扉を開けると、ムッとした汗臭い空気と外の透明な空気がすれ違った。僕は彼らに揉まれながら、上履きを脱いで、端に寄せる。そこに並んだ数十足の上履きは、どれも黒ずんでいて、踵の部分が完全に平らになっている。いくつかはひっくり返り、いくつかは左右の組み合わせが間違っていた。僕は中に入り、扉を隙間無く閉じる。隙間から風が入ってくるとバドミントン部が怒るのだ。体育館の半分を使って練習しているバドミントン部の連中を避けながら、僕は残り半分のバスケ部のコートへと歩く。今はちょうど練習が終わり、ミーティングを始めようとしているところだった。 「おい、急げ」  まさに鬼コーチというような風貌をした山下先生が、僕に向けて言った。選手は皆風呂に入った後のように、全身が汗で濡れていた。僕ともう一人のマネージャーである松本だけが、適度な汗をかいていた。松本は、彼女はまだ一年生なのだが、チームのジャージを着て腕まくりをし、顔を赤らめている。 「明日は三年生にとっては引退試合だけどな、いつも通りにやればいいんだぞ。今日の最後の感じを見ても、いい感じになってきてる。なあ、そうだろう?星の最後のシュートなんかも、良かったぞ」  我が部のエースである三年生の星は、小さく頷いた。彼はチームの中でもダントツの実力があり、部長も務めていた。 「まあとにかく、ただいつものよう勝つことだけを考えて、他のことは気にせずにな、頑張ろうな。今日はしっかり休んで、明日は六時半に駅で良いんだよな?」  コーチは僕に顔を向けて確認する。僕は頷く。 「そいじゃ、解散」  部員全員が最後の挨拶をして解散すると、僕は後片付けを始める。さっき僕が準備してきた雑巾で床を拭いたり、道具を遠征用のバッグに入れたり、何度も聞かれる試合についての質問に答えたり。だいたいの後片付けが終わると、隣のバドミントン部も練習を終え、大きく開いた二つの扉から新鮮な空気が体育館に入ってくる。汗臭さはなかなか無くならないけど、かなり涼しくなった。もう一人のマネージャーである松本と荷物を持って体育館から出ると、心地良い風に乗って、弦楽部が練習する音が聞こえてきた。音楽に疎い僕には、ヴァイオリンとヴィオラの音の違いがわからなかったから、僕はただその音がヴィオラであることを祈った。 「本田、明日って六時半に駅集合でいいんだっけ?」  星はバスケットシューズを脱ぎながら僕に聞いた。 「そうだよ。ていうか、それさっきも言ったぞ」 「ああ、ごめん、ごめん」  彼は体育館の壁に寄りかかりながら、携帯を見ていた。  僕と彼は同学年で同じ部活だったが、生きている世界はまったく違っていた。端整な顔立ちでバスケ部のエースの彼は、いつも学校中の女子から熱い視線受け、皆の中心となっていた。僕はと言えば、簡単に言うと、ぱっとしない存在だった。膝を怪我するまでは、三年生としてチームの中心メンバーだったが、今のようにマネージャーになってからは、部活に居るのか、居ないのかわからないような存在になった。  僕は別に、星が嫌いではなかった。けれど、やっぱり彼に対する嫉妬心みたいなものはあったと思う。だから、彼のちょっとした言動が、時々憎かった。彼には付き合っている人がいなかった。これを聞くと、星に恋する多くの女子生徒達は意外がった。誰もが、彼には『彼女』がいて当然だと思っていた。『彼女』がいない理由は、彼曰く、「バスケに集中したいから」だそうだ。欲しくても出来ない男子達は、僕を含め、この発言に腹が立った。  星がバスケ部を引退する日が近づくと、彼の周辺は彼の動向を気にしだした。彼が誰と付き合うことになるのか、それがもっぱらの話題だった。星はというと、彼はそのような話題には乗らなかった。だからこそ、よけいに話題は盛り上がった。  僕はその頃、彼女へ自分の想いをどう伝えようかということに悩む一方で、星という脅威を気にしていた。星と彼女に接点が無さそうだから大丈夫だろうと思う一方で、彼女も他の女子と同様に、星の魅力に魅せられてしまうのではないかと不安に思っていた。僕と彼女は同じクラスで、今は友達だ。いつの間にか僕は彼女を意識するようになり、好きになった。けれど彼女が僕をどう思っているのかは、よくわからない。いつまでも友達でいることを望んでいるのか、僕と同じ気持ちなのか。  僕は体育館の横で明日の荷物をもう一度確認していた。もう選手たちは更衣室へ着替えに行き、松本も雑巾を洗いに行った。僕が一人でいると、午後から練習を始めるバレー部の連中が体育館にやって来た。その中には友達が何人かいたが、僕らと同様に引退試合を明日に控えてぴりぴりしていたので、軽く挨拶をした。普段と違う彼らの表情を見て、僕は少し羨ましく思った。けれど、僕にもやはりやることがあり、格好のつく出番があるだろうと、自分を励ました。  バレー部員が全員体育館に入ると、午後の静寂が訪れた。風は先ほどより少し弱まった。そして、いつの間にか弦楽部の練習の音も無くなっていた。僕は体育館に寄りかかり、空を見上げる。今日の空は、雲の形も空の色も、まるで誰かが描いた絵のように、きれいに整いすぎていた。なんだかきれいすぎて気味が悪い。少し何かに欠けている方が、美しいのかもしれない、僕はそう思った。左手にしている安物の腕時計を見る、一三時〇五分。僕は立ち上がり、二つの大きなバッグを持ち上げた。  校舎に入り、外から差し込む日光だけの薄暗い廊下を歩いていると、前から誰かが来るのを感じた。足音は少し早足で、近づくとすぐに彼女だということがわかった。 「ああ、本田君」 「あれ、どうしかしたの?」  僕は、まるで彼女になんか興味が無いかのように振る舞うことにした。 「いや、別になんでもないんだけど。本田君、明日引退試合なんでしょ?」 「そうだよ。俺は試合には出ないんだけどね」 「ああ、そっか・・・。それでも、やることはあるでしょ?やれることがあるなら、それを頑張らないと」  彼女は微笑んだ。僕も微笑んだ。強く大きくなる心臓の鼓動は、僕を力ませる。なぜだか僕は、自分の想いを偽ろうとした。 「そういえば、最後の演奏会みたいのあるんでしょ?」 「あるよ。来週に」  僕は演奏会のことは知っていた。というか、少し前に彼女から聞いていた。 「そうなんだ。じゃあお互いに頑張ろうね」 「もし良かったら来てよ。私あんまり上手じゃないけど」  彼女は笑った。僕はもう何も考えられない。 「行くよ。多分行けると思う」 「本当に?うれしいな」  僕は今さら悟った。今が想いを彼女に伝えるチャンスなんだと。けれど、もう何も考えられなくなっていた。  僕らから少し離れたところにある更衣室のドアが開いた。出てきたのは、星だった。彼はすでに着替え、制服姿だった。 「ああ、星君」  彼女は振り向く。 「おう、メール見た?さっき送ったんだけど」  星はなんでもないことのように言う。 「見たよ。だから体育館に行こうとしてたんだよ。もう帰れる?」  そう答える彼女の声は弾んでいた。星と僕の目が合う。 「本田、明日の準備終わった?後は俺がやるから、お前着替えて来いよ」  僕は笑う。なぜだか良くわからないけど、心の奥深くから、笑いがこみ上げてきた。 「わかった。ありがと」  僕は星にバッグを渡すと、更衣室に向かって歩き出した。彼女は僕の方を見る。そんな彼女は、美しかった。  その後、星と彼女が付き合っているということは、皆に広まった。別に僕が言いふらしたわけではない。引退試合の後、彼らがその交際を隠さなくなったのだ。僕はときどき、彼らが並んで歩いているのを見た。そんなとき、意外にも、悔しいとか憎いといった感情は出てこなかった。むしろ、星のような人間こそが彼女にはふさわしいのだと思えた。僕は淡々と事実を受け止め、新しい方向を向くことにした。 ***  今僕は、上海にある歩道橋の上にいる。そして、高層ビルの間に沈む夕日を見ている。もうすぐ僕の目の前から姿を消そうとしている太陽は、一日の中で一番輝いていると思う。僕は鞄に入れたコンパクトカメラを取り出し、世界を黄金色に染めるその星を撮る。もちろん僕にはわかっている。写真にも残せないものがある。というよりも、写真に残さない方が良い記憶もある。それは、空気のようなもので、身体に染み込んでくるのだ。そして僕らは突然、身体の中に蓄積されたその記憶を思い出す。  あの時以来、僕は僕なりに、何か誇れるものを持とうと思い始めた。そして、大学受験に向けて猛勉強し、それなりに名の知れた大学へ行くことになった。そして、今は上海に支店を持つ会社に勤めている。三十代を前にして、それなりの収入もある。結婚したばかりの妻もいる。この前、久しぶりに会った高校の友達には、「すっかりお前は勝ち組になったな」と言われた。  しかし、今あの時のことを思い出してみると、やはり自分が彼女にふさわしい人間ではないように思える。僕には入れない世界があって、僕はそこへ行くためのボートに乗る権利すらないのだ。遠くの岸から、彼女は僕を見て、手を振っている。それを僕は、ただ見つめることしかできないのだ。  その理由は、僕にはよくわからない。  日はもう沈んだ。黄砂の混じった風が吹き付ける。辺りには人々の声や自動車のクラクションの音が満ちている。僕は歩き出す。いくら世界が変わっても、僕は僕でしかないのだ。そのことが、なんだか悲しく思えた。
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