純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号118
『ナルシス・ルージュ』
覚えたての歌を唄っているようであった。不確かな旋律と歌詞、それでも唄うことが楽しくて仕様がない、そんな風に。
僕は拙いメイクの総仕上げとして、淡い色のルージュを引いた。鏡の中の自分が妖しさを伴い、微笑していた。
*
十三の誕生日を迎える直前の春休み、中学校に上がるまでの束の間の時間を楽しんでいた。大人とは無縁な、一個の幼い精神のままに。謂うなれば、田舎の子供によく見られるような・邪気とは無関係な・疾風のごとき・快活さを以て、周囲を走り回っていたのだ。
そうすることに理由などあろうはずもない。敢えて挙げるとすれば、それは子供ということのみである。それを当然と思うに至るメソッドはなかったし、定義付ける論理すら存在していなかった。いや、要らなかったと謂った方が妥当するであろう。
しかしながら、中学の入学式を二日後に控えたその日、僕という人間に決定的な変化をもたらすことが起こった。何の約束もなしに、親しい友人の家を訪ねた折の話である。
通い慣れた門扉のインターホンを鳴らし、中からの応答を待っていた。冬の名残に温もりを持たぬ風が頬を冷たく撫で、躯を震えさせる。僕は手を擦り合せながら、時折掌を広げて未だ白く濁る息を吹き掛け立っていた。
「はい」
インターホンから聞こえたのは抑揚のない若い女の声であり、それが友人の姉のものであることは即座にわかった。
友人をして何ごとにも無関心で無気力であると評されていた彼女が、僕が遊びに行った折のみは美しいが彩を放たぬ表情を崩して微笑むというのだ。
『瑞希君いらっしゃい、ゆっくりしていってね』
そんな言葉を他に発しないばかりか半ば無視を決め込むというのに、僕の場合だけは愛想がいいのだ、と付け加えながら。
僕自身は、友人の姉の自分に対する愛想のよさに何ら感動をおぼえたわけではなかったが、愛想を傾けてくれていること自体は不快ではなかった。
それが毎度繰り返されれば、幼心に僅かな好意が生まれたとて不自然でないように思う。いつしか、その好意が淡い恋心に転じていったのだが、それは今にして思うことの叶う事柄であり、当時は自分の抱いた想いを分類する、或いは認知する術を持ち合わせていなかったのである。
けれど、彼女の発する声の羽根がごとき柔らかな感触は、それのみは受け取ることが叶った。少なくとも、僕のことを嫌とは思っていないのだと。
これが過剰に飛躍した思い込みであるにしても、彼女の声を記憶する妨げにはならなかった。僕は弾むようにしてインターホンへ向かい、声を発した。
「吉川です、淳君いますか?」
「瑞希君? 淳也は今、出掛けてるよ」
僕は友人のいないことを確認し、帰ろうと一歩踏み出そうとした。すると、僅かな雑音の中に再び柔らかな声がする。
「待って。……すぐに帰ってくると思うから、上がって待ってて。寒いでしょ?」
声は、魔力を宿しているよう感じられた。そう思うに至る経緯を思い出すことは叶わないが、“はい”とだけ答えていた。いつの間にか門扉をくぐり抜け、玄関の戸を開けていた。
居間に通されると、そこには普段の制服姿でなく、私服に着替えた彼女がいた。躯の線を強調するようなニットの緩いカーブが目を釘付けにする。
「立ってないで座って。今、コーヒー淹れるから。あっ、瑞希君は紅茶の方がいいんだっけ?」
栗色の髪が、いつもはストレートの艶やかな髪が、その日はアップにされており、
「じゃあ、紅茶で」
と謂った僕へ微笑みながらキッチンの方を向いた。
彼女のうなじの後れ毛が、子供である自分の見てはいけないものの象徴であるがごとき淫靡な光を帯びているように見えたのだった。
それより後の時間、僕は彼女のうなじにたゆたう眩いばかりの波が彼女自身を覆っているのを発見し、着目し、畏れた。そして、畏れながらにして魅せられていたのだ。これが、初めて異性を意識したことにより生じた想いであるのは明白であったが、当時の僕に理解する術はなかった。
他愛もない凡庸な会話を経て一時間を費やしたが、一向に友人の帰る気配はなかった。
すると彼女は、
「実はね、今日淳也は用で遅いの。お父さんとお母さんと一緒に出掛けてるから」
と切り出した。
その声音は、この家の敷居を跨いだ瞬間よりやや趣が変わったように感じられた。この微かな変化に、いかにして気付くことが叶ったのか、今以てわからない。しかし、彼女の眼差し、その眼差しの強さが確実に変異を来したのはその場の雰囲気から察することを得たのだった。
「瑞希君、私と面白いことしない?」
「面白いこと?」
「そう。……面白いこと、とてもね」
彼女はさらに魔力を強めて声を紡ぎ、僕は口を閉ざしたまま頷いて二階へと移動する背中を追った。ざわめきという未知なる衣で着飾ったその背中を。
この家を訪れる度に鼻を歓ばしてきた木の香も一切感じ得ぬままに、二人して彼女の部屋へ入った。
可憐な主にしては、いたくシンプルな調度品と整頓し尽くされた部屋の様子が、何か生物の生存を窺い得ない無機質さを作り出しているように思えた。
「そこに座ってくれるかな、瑞希君」
部屋の絶無を予感させる清廉さが僕を呑み込む中、優しくも強い彼女の声が差し込まれる。それは、僕の行動を統制し得る鎖がごとき不文法の理であったのだ。彼女の言葉は、その時点において抗うことを許さぬ強制力と従わざるを得ぬ拘束力とを有していた。
僕は、彼女の謂う通り大きな鏡の置かれたデスクの前に立ち、直後セットになっている椅子に座った。
「私ね、聞いてくれる?」
そう語り始めたと同時に、彼女は僕の背後より腕を回し、鏡の周囲に置かれてある化粧品を手元に移動させた。
「私ね、初めて瑞希君を見た時から綺麗な男の子だと思ってたの。男の子なのに女の子みたいで。でも、やっぱり君は男の子で。
……でね、どうしてかわからないけど、君をメイクしてみたいと思ったの。私のお願い、叶えてくれないかな? 駄目、なんていわないよね?」
部屋に入った当初の抗い難い空気とは裏腹に、彼女の瞳には哀願と呼ぶに相応しい色が浮かび、僕は彼女の願いを叶えるべきなのだ、叶えなければならない、叶える義務があるのだ、という想いの変遷が瞬時に起こるのを体感した。それが異常な行為なのだという考えなど生まれもしないまま、何度も首を縦に振っていたのだった。
化粧水が肌を潤し、下地のクリームが顔を広く覆う、リキッドファンデーションがニキビを隠し、パウダーがさらに顔面の凹凸を失わしめる、眉が引かれ、アイライナーが目を際立たせ、睫毛が持ち上げられさらに目が大きくなる、チーク、頬紅、コンシーラー……
化粧が終わりに近付き、僕は鏡に向き合う。
「思った通り。瑞希君、綺麗だよ」
息を吹き掛けるようにして耳許で囁かれた言葉が、僕を異空間の生物に変えていく。
「私、瑞希君がこれだけ綺麗になること、わかってたの」
再度の囁きが、僕の中へ何かを孕ませたよう感じた。
「瑞希君、鏡越しに私を見て」
再び宿った強制力に抗うことなく従う。
「すごく、綺麗。それに……、とっても可愛い」
鏡越しに交差する視線を外すことなど叶わぬ。
ややあって、再び彼女の方へ躯を向けられた僕は、いつの間にか右手にスティック状のものを持つ彼女を見詰めた。
「口紅を差さないとね。完成しないから」
淡いピンクのルージュが唇に差される。微かにラメを帯びたルージュが僕の唇を厚く作り変え、瑞々しさに打ち震えていた。
「二人だけの秘密だからね。こっちおいで」
立ち上がり手を引かれた僕は、ある場所へ腰を下ろした。西窓より射す弱い陽光が黄昏時の訪れを告げている。反発の少ないスプリングマットの上で彼女は僕の両頬に手を当て、桃色の揺らめく唇を合わせてくる。
熱を持った・柔らかな・弾力のある・感触が、僕という人間の存在意義を変えていく。それは新しい自分を自分が生むような、そして、それを産み落とした以後は母体である過去の自分自身が忘却の彼方へ追いやられ、人知れず滅してしまい、あまつさえ本来の自分がこうして生まれた新しい自分であったかのような心境へ導いていくのである。その過程として、僕は彼女を抱いた、いや抱かれたのだった。
*
鏡の前に立ち、こうしてルージュを引く度に、初めて自分の顔に化粧が施された日のことを思い出す。
淫靡にして無機質な彼女の部屋の空気の質感、価値に見合わぬものを排他的に除せようとするあの刺々しい雰囲気、転じてメイクをした後の相応な居心地のよさ、刷新された感覚、それに行き着く過程で感じた彼女という熱と重力、そのすべてが愛おしい。
自己愛の生誕が、僕にとりナルシスとの同化、或いは化身という事実を明示している。
今日という日も、明日より後の将来という日においても、現在の僕を形成した日の記憶を糧に生を費やすのであろう。醜く衰え、自己を否定するその日までは。
ナルシス・ルージュ(了)