純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号117 『きりん』 サバンナの喧騒の中、キリンははかなしかった。 この世のすべてがかなしいと思った。そのかなしみを、悲しいとすべきか哀しいとすべきか、ただかなしみのままにしておくか、カナシミと詩のごとくしてみるか迷うのであった。 キリンはかなしかったので、自分の首の長さすらも忌まわしく、その四角い胴体が信じられないほど憎たらしく、派手な体の模様ときたら言語道断であり、先端だけにぼさぼさと毛の生えた惨めな尾は許されないほどずうずうしくも恥知らずだと思った。キリンは自分の滑稽な姿を一生懸命になって想像し、それをこれ異常ないほど嫌悪し、自殺したくなった。この自殺という思いつきはずいぶん前からキリンの頭にあったものである。キリンはよく死の情景を思い描いた。自分のいなくなった世界は悲哀に満たされ、静かだった。自分はこれが、この静謐が欲しいのだとキリンは思った。 キリンはひとに好かれなかった。キリンはわざとのようにそのように行動したし、そうしなくても結果はあまり変わらなかっただろう。キリンの首は何しろ長すぎた。体も黄色かった。角ときたら悪い冗談そのものであった。しかし、そんなことは何の問題でもなかったのである。 キリンは自らのかなしみと嘆きを吟味した。愚かなる直情型のシマウマやのろまなバッファローや頭の軽いトムソンガゼルと同じ土地で、同じ舞台の上で生きなければならないとは、これはなんとしたことだろう。キリンは苛立ちのあまり、彼らの前で芝居がかったような振る舞いをして見せた。彼らは野暮にもその演技をそのまま受け取ったらしかった。 キリンは勿論自分の思想を持っていた。キリンにとっては美こそが基準だった。美しくないもの、つまりは牛どもの反芻、蝿のたかる羽音、死臭なぞはまさしく悪であった。キリンは自分を散々に痛めつけた。キリンは何も自傷行為に安らぎを見出していたのではない。キリンはあくまで自分を夢想していたのである。 ある日、キリンは木に話しかけることを覚えた。木は決して言葉を発さなかったし、反応も皆無だったが、とりあえず生きているものには違いないのだし、聞こえてはいるのだろうし、キリンの内的必然性は十分に高まっていたので、キリンにとってそれは正当な行為であった。 「すべて終わらせる」ある夕暮れにキリンは言った。「花を見るたび、自分はひとりだと、気づかされる。孤独。たった一人、闇の中に横たわっている。永遠に」運の悪いことに、その選ばれし木は来る日も来る日もこうした世迷言を聞かされ続けたのであった。 キリンはまた尾の毛をすべて抜いてしまった。キリンは禿げた尻尾を強調するように振りながら、一心に草を食む、俗なバイコーンの群れの前を渡った。その日木はこう聞かされた。「今日、尾の毛を抜いた。自分の足すらも切ってしまいたい。何もかも無意味で」木はできることなら殺してやりたいと思った。 キリンはこの、木に語るという行いが大変気に入った。微かな鎹であろうと何か報われているような気になるからであった。 キリンを殺すことができる肉食動物はライオンだけである。その他の有象無象はキリンの長く強い足の蹴りひとつですべからくなぎ倒されてしまう。このあたりにはガゼルやほかの草食動物がたくさんいて、ライオンの数はそれほど多くなかったから、彼らはわざわざ危険を冒してキリンに挑んではこなかった。キリン狩りは彼らにとっても命懸けである。そういうわけで、キリンには自分のことを考える暇がたっぷりあった。キリンはますます悲劇の中へ沈んでいった。アウラは偏って研ぎ澄まされた。それはほぼ狂気にすら近くなっていった。「死んでしまいたくて」いつものごとく、キリンは木に語りかけた。「すべてが、嫌で。太陽が上らなければ何も見えないのに。夜通し目を覚まして、夜明けを見た」不運な木ははやくくたばれと百回目くらいに考えた。 キリンが底知れぬ頽廃の内に虚ろな両目を濁らせはじめたとき、乾燥した大地の片隅とも中心とも言うべき場所で、小さな火が燃え始めた。乾季の真っ只中であった。ぱちぱちと景気よくはぜながら火は周りのもの全てを飲み込んでいった。鳥の巣では卵が茹り、地を這う虫たちはみな死に絶えた。木々もただ燃料となったに過ぎなかった。ときおり吹く風はわざとのように炎を勢いづかせた。 キリンは眠っていたので火事に気がつかなかった。誰も友人のいないキリンは、いつも独り言の聞き手にしていた木の燃える温度が皮膚を焦がしてやっと自分もまた細胞のひとかけらまで消し炭にされようとしているのに気づいたのであった。いや、そのとき、夜更かしのあとに眠ったばかりの寝ぼけたキリンに分かったのは、焼かれ始めた体の痛みだけだった。キリンは跳ね起きると、何も考えず、突き動かされるようにして走り出した。 火傷をいたるところに負ったが、その傷の感触も全てが地を蹴る強さにかわった。熱風が肺を焼き、大量の煤が目と鼻を容赦なく塞いだ。キリンは死に物狂いで疾走していた。後から振り返ってもそのときのことは思い出せないほどで、どのくらい走ったのかも分からなかった。 喉は粘膜が乾ききってずきずきと痛み、関節ががたがたになってキリンはとうとう地に臥し気を失った。すでに自分がどこにいるのか分からなくなっていた。ただ水のことだけを考えていた。死にたくなかった。 キリンは目を覚ました。まだ死んでいなかった。水のことしか考えられなかった。緑の消えた灼熱の大地がひづめを躓かせた。キリンはそのときキリンであることをやめていた。キリンはただ水を求める存在としてだけ、ただ水を求めていた。もうまともには歩けなかったが足は前へ進んでいた。 幾日か幾夜が過ぎた。キリンは薄れゆく意識の中で水を求めていた。それのみが生だった。 そしてついにキリンは奇跡的にも持ちこたえ、水場にたどりついた。そこにはほかの動物もいたかもしれない。もはやそんなことは何も分からなかった。惨めな泥水が、その一滴が、喉を通ったときにキリンは今度はただ水を飲むものとしてだけ存在し、生きていた。キリンは美のためにではなく、生きるために生きていた。それは生き永らえるためですらなかった。すでにキリンの中に''自分''はいなかった。全身が弛緩した。薄汚れてはいるもののしなやかな四肢ががくりと折れた。ほんの一瞬のことだった。キリンはふっつりと終わった。 周りでは生き残った動物たちがまだ水を飲んでいた。白い鳥の群れも舞い降りた。そのうちにライオンもハイエナもやってくることだろう。彼らは労せずしてキリンの肉を食うことができる。サバンナはまだ騒がしい。
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