純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号111 『『ばか』と『ぶあいそ』』  紅茶にマドレーヌを浮かべていつもの朝食をとる。ボーンチャイナの白いティーカップはプラス一個。ざぶうん、ざぶん、と時間が巻き戻り、私の『ばか』がおはようを言いにあの海からやってくるから。だからプラス一個。  「ご機嫌いかが」今日の海はエメラルドグリーンに銀色のうろこを遊ばせている。。いいお天気だから、デザートにキスしてね。「ばか」のキスはほんのわずかな塩味とメンソールの煙草の匂いがしたっけ。  『ばか』に初めてあったのは、いつだっけ。  昨日のようでもあり、100年前のようでもある。    ◇  いつも違う女の子を連れて私の働くブルーヘブンに夜な夜なやってくる。 女たらしのばか。大嫌い。 前の彼氏もそうだった。一晩思い切り飲んで忘れた。『この人ではなかったんだ』と思って声も仕草も名前さえ忘れてやった。  男はみんな嫌い。軽い男は大嫌い。けれど『この人』って思える人にいつか巡りあえるんじゃないかって、心のどこかでは思ってる。  私のこと、 「なんでいつも無愛想なの」  って聞いてきた。  あんたのことが嫌いなんだよ。ばか。  笑ってなんかやるもんか。    私の持ち時間の多くは絵を描くことに費やされる。それもばかのひとつ覚えみたいに海と空ばっかり。おかげでパレットはほぼ青い。  もちろん青といっても一色じゃない。微妙なグラデーションは日々変わる。いや、時間でも変わる。空によって変わる。潮風によって変わる。そして私の涙によって変わる。涙が多ければ、深いインディゴブルーに。  大磯の海の近くにある養護施設『カメリア・ホーム』で育ったせいか、海は私にとってふるさとになっているのかもしれない。その色、匂い、音…すべてが好き。でもこんな私が泳げないなんて、なんだか永遠に理解不能な恋人同士みたいじゃない?  だからこそ、楽しい。時々絵を描くこと以外にこれから先『一番』に巡りあわなかったらどうしようというくらいに。でも若さならまだありあまるくらいにあるし。楽しいことを最優先させるのが私の信条。今のところ一番は絵を描くこと。  絵を描く合間に、食べるためにブルーヘブンで働き、生きるためにマックのハンバーガーをかじる。たまには健康を気遣ってピーコックでトマトを買い求め、丸かじりする。美容院は半年に一回。だから劇的に髪を切ることになる。 「あれえ、リンちゃん、また失恋したの」  って必ず聞く常連さんがいたっけ。えっと名前は…。誰だっけ?   そんな時ブルーヘブンのマスターはちらっと私の髪を見てその短さを確かめるようだけど、別段何も言わない。バーのマスターにしては無口だ。けど、そんなところ嫌いじゃない。  めんどうだけれど、客商売なのでいちおう化粧もしたりする。海を書くのとは違って、顔に描くときは手順も色も決まったものしか使わない。だからいつも同じ顔。マスターからディオールのピンクのリップスティックをもらったことがあるけど、(ちょっとは化粧らしい化粧をしろって意味だったのかな…何しろ無口なんで訳は言わなかった)あれはだめ。ジャンキーなものは嫌いじゃないけど、あの匂いは我慢できなかった。あの匂いも食べてると思うとぞっとした。だから今でもキスミーの色つきリップしかつけないんだ。  そして眠りに落ちるまでのほんのひとときの読書。本を読む時間はあの頃に比べればわずかになったし、その意味も優先順位も変わってきたのだ。今は安眠剤代わりとなりつつある。最近の安眠剤はプルーストである。  あの頃は放課後の大半は図書室で過ごしていた。施設育ちの子供にはお決まりのいじめのようなものがあったし、友達がいないひとりぼっちの小学生が過ごす場所として図書館はパラダイスだった。  シャーロック・ホームズ、アン・シャーリー、マリー・アントワネット…そこに行けば友達には事欠かなかった。それもとびきり個性的な! あそこでは『ぶあいそ』の仮面を脱ぐことができたっけ。  鵠沼海岸の波はサーファーにとっては、ちょうどいいらしい。ちょうどいいとは「失敗しても十中八九命を落とす危険がないこと。サメがいないこと」だって常連さんが教えてくれた。あの常連さん、名前は…誰だっけ?  もっとも最近はウインドサーファー達の方が数は増えた。どちらにしても彼らにとってここはパラダイスってこと。ビックウェンズディはめったにないが(台風の時以外は)そこそこの波が来る。今日も波乗りバカたちで海はにぎわっている。ユーミンの歌でいえば『カラスの群れ』といったところか。  いつものように砂浜に下りる階段に腰掛けて絵を描いていると、またあの『ばか』に遭遇した。 「今日は無愛想じゃないんだね」だって。  私のこと、見てた? 変なやつ。  意外だった。サーフィンしている時のあの『ばか』はちょっといい男だった。波との真剣勝負を心の底から楽しんでいるみたいだった。遊びを楽しむ人はいっぱいいるけれど、真剣勝負を楽しむ人はそうはいない。  夕日に照らされたその『ばか』に恋した瞬間だった。  帰り際、ポカリスエットを飲みながら『ばか』が言った。 「笑った方がかわいいよ」  髪の毛から滴り落ちた透明のしずくが一滴、画用紙に落ちてにじんでいった。  ばかの身体はムスクの香りがした。  人魚は尾っぽがとれて人間になったんだっけ。生まれ変わるのは、痛みを伴う悦びであったのかもしれない。「ぶあいそ」の仮面、脱いでしまおうか。  あはは、またころんでる。  なんで?  段差もないのに。  ばかだね。  海でこけたところ  一度も見たことないのに、  陸ではころんでばっかり。  器用なのか、不器用なのか、  わかんない人だね。  それじゃあカラスじゃなくてペンギンじゃん。  私の笑った顔が見たいから?  なんだ、わざとか。  そんなこと、しなくたって  いつだって笑ってやるのに…バカ。  今夜、『ばか』は台風情報に首ったけ。  もう一度抱いてほしかったのに。  ちょっとは私のこともかまってよ。  しょうがないか、そんな波乗りばかにほれてしまったんだから。  台風が来る! といってウキウキしてる。  ビッグウェイブよ、来いー! だって。  うん? これなんだろ…。パスポートだ。  ねえどっかいくの?  ハワイ?  何しに?  ばかみたい。  死に場所だって。  そんな冗談いうとパスポート燃やすよ。  ばかが寝てる間に  油性マジックでサーフボードに  大きく『ばか』って書いてやった。  じゃあね。  鍵はいつものとこに置いとくよ。  どうせもうすぐ海に行くんでしょ。  一人でとぼとぼ帰った。  雷が鳴ってる。  やれやれびっしょりぬれねずみだよ。  ハクシュン。  風邪ひいたかな。  それきり、『ばか』に会うことはなかった。  今でも海を漂ってるんだろう。代わりに背中に『ばか』って記名したサーフボードだけが帰ってきた。  記憶の中の現実なのか、現実の中の記憶なのか、    ◇  ねえ、教えてよ、ばかあの子なんでいつもあんなにぶあいそなんだろ。  結構可愛いのに。  笑ったらきっとおれの好みだ。  うん。笑わせてみたい。    あれ、あの子、ブルーヘブンの『ぶあいそ』だ。  へえ、絵なんて描いてる。  だけど今日は『ぶあいそ』じゃないぞ。  なんか楽しそうだ。  鵠沼の海を眺めては、ほほえんでいる。  おれが恋に落ちた瞬間。  ぶあいそのキスは絵の具の味がしたような。  そんな奇妙な味のキスに夢中になった。  ジャンキー過ぎるか。  いてっ  また転んだ。  病気が進行してきたのが分かる。  筋肉が動くうちにハワイのチケットとらなくちゃ。  必要なのは片道切符。  『ぶあいそ』も連れていきたいけど、無理。  だからホントのことを話した。 「死に場所に決めたんだ、ハワイを」  冗談いうなって怒ったっけ。  本気でパスポートに火をつけようとするし。  怒った顔も、好きだよ。  でも一番好きなのは笑った顔だよ、『ぶいあそ』  人生には勝ち負けがあるのだろうか。  長く生きた方が勝ちならば、おれは惨敗だ。  でもそんな人生にはもう興味がなくなった。  最後に、『ぶあいそ』  おまえに逢えたことだけが、おれにとっての人生だ。  『ぶあいそ』が好きなプルーストはよくわかんないけど、  あっちに行ったら読んでみようか。  台風4号が上陸するって、ラジオが叫んだ。  夜が明けたら  ビッグウェイブに挑戦だ。   ◇ 「風呂の中で本なんか読むんじゃねえよ、だれかさんみたいに、よれよれじゃん、あーあ、かわいそうに」  って、よく言ってたね。  本なんか読まないくせに妙に本を大事にしてたっけ、『ばか』は。  1Kの狭いアパートのこの風呂に、無理矢理一緒に入ってくるから、ゆっくりと浸かることもできなかったっけ。  ばかが買ってきて、置いたままのシーブリーズ。私、これを使うとスースーし過ぎるんだよ。  くしゃみが出て、風邪ひきそうになるんだよ。まだいっぱい余ってるのに、使う人がいないくなっちゃった。どうすんの? ばか。  窓に人差し指で  ばかって大きく書いてみた。  ツー。  すぐに水滴が垂れてきて  なんだか泣いてるみたいだ。  もう一度  あの時みたいに  後ろから抱きしめてよ。  仕方ないから  自分で自分の肩を抱いてみた。  涙がこぼれそうになって  あわててお湯の中にもぐる。  ぶくぶく……ぶく…  このままこうしていたら  ばかのとこへいけるのかな。  けれど、身体は酸素を求めて悲鳴をあげた。  私は人魚には、なれない。  あの日から何度繰り返してきたんだろう、こんな意味もないこと。そして、いつまで繰り返したら、私の心はさみしさから解放されるのか。  教えてよ、ばか。  どんなに、落ち込んでいても、おなかすくんだな。今晩は何を食べようか。最後にばかに作ってあげたのは・・・  オムライスだ! あの時、ケチャップでハートマークを書こうかとも思ったけど、ガラじゃないかと思い直して、結局書けなかった。  もし書いてたら、ばかはどんな顔しただろう。  そういえば、好きって言ったことも一度もなかったっけ。好きだって言われたことも。 『ばか』のこと、こんなに好きだなんて思わなかったんだもの。  後悔という言葉が時のはざまからこぼれ落ちる夜、窓から見えたのは、寄るべない月か。  いつまでも働かないわけにはいかない。ブルーヘブンのマスターは有給扱いにしておくから、しばらくは休んでいいよって言ってくれるけど。生きていくには働かなくては。今月の家賃だって払えなくなる。私はしがないアルバイト。  電話をかけて 「明日から出勤します」  と、伝えた。 「だいじょうぶ? 無理しないでいいよ」  そんな言葉が返ってきて、予期せぬ涙が湧いてきた。  砂漠に雨が降るようにすっと心にしみこんでほんのちっちゃなオアシスができたんだ。 『ありがとう、マスター』 「心のリハビリだと思って頑張ります」  そう言って電話を切った。もう泣かないよ。見守っていてね、ばか。  ブルーへブンは相変わらず混んでいた。マスターの趣味でアメリカの70年代を意識したインテリア。たった2週間休んでいただけなのに妙に懐かしく感じるのはなぜだろう。 「リンちゃん久し振りィ。会いたかったよー」  軽いノリで手を振る常連さん。えっと名前は…誰だっけ?  前の私だったら、適当なこと言ってるよ…って思ったかもね。今夜は素直に嬉しかった。  忙しいことは幸せだった。この店のあちこちにある『ばか』の思い出をほんの一瞬だけでも忘れられることができたから。    季節が静かに移ろっていた。そのせいか風邪でもひいたのかと思った。でもあんまり微熱が続くから、仕方なく病院にいったら… 「オメデタデスネ」って言われた。  おめでた…って赤ちゃんのこと! 『ばか』の赤ちゃんが私の中にいる。ばかの命はつながっていたんだ。  ほほをあたたかいものが伝わってきた。悲しい涙なんかじゃないよ。  ありがとう。  ばかからの最初で最後の贈り物。私、絶対に大事にするからね。これからのことを考えて私はマスターだけ、妊娠したこと、子供をこれから産んで育てていくことを伝えた。 アルバイトに産休なんてないけれど、迷惑をかけることもあるだろうけれど、これからもブルーヘブンで働かせてほしいと。  そうか、と言ってしばらく黙り込んだマスター。長い沈黙のあとにやっと口を開いた。 「驚かないで聞いてほしいんだけど…」  ってなんだろう。  何か深刻な話だろうか…。 「おれも一緒にその子を育てる事は できないだろうか」  って…。どういうこと?結婚?  私と結婚するっていうの?それは愛の告白? 「男女の愛ではないんだ、だっておれは女は愛せないから…」  って、ちょっとびっくりした。  でも私への気持ちはLOVEじゃないけど、ずっとLIKEだよって言ってくれた。  優しい人だね。ねえ、『ばか』、私甘えてもいいのかな、マスターに。  私は真剣な表情で答えを待っているマスターにこう言った。  「I like you 」  ありがとう…。 「おれは男しか愛せないけど子供は育ててみたいと思ってたんだ、だから、おれの方こそありがとう」  って、マスターの言葉が心にしみる。  いろんな愛の形があっていいんだよね。私、これからは笑って生きていくから。  この子のために  マスターのために  自分のために  そして  愛しい『ばか』のために。 『ぶあいそ』の仮面はもう捨てよう。      ◇  今日も私とこの子の朝ごはんは、紅茶とマドレーヌ。  わあ、台風のあとの海はきれいだねえ。  せっかくだからテラスで食べようか。  ほら、あなたのパパがおはようを言いにくるよ、もうすぐ…。  マスターには白いご飯とみそしると焼きしゃけ。  朝からよく甘いモンなんか食えるなあ、だって。ふふふ。天使も笑ってる。  きらきらと海が光ってるよ。  オフショアの風は気持ちいいねえ。  一番は私の天使。2番はマスター。『ばか』は永久欠番。  それが今の私の順番。                 おわり
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