純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号110
『望み』
高校進学が決まった。放課後、担任から合格通知を受け取り、仲間と教室で抑えられぬ歓喜の声を上げた。他の者など見えていなかった。
共一は浮かれ過ぎていた。今更あの時をどうこう言おうと、全てが過ぎ去ったことなのだが。
一、「春の陽気」
あの帰り道、僕は心のままに自転車を走らせていた。午後三時十五分の汽車に間に合えば、一時間早く家に着く。しかしそれが理由で必死にペダルを漕いでいたのではない。単に己の心と身体に歯止めを聞かせず手放しにしていただけなのだ。
青空だった。白い雲がきめ細かく溶け込んでいて美しかった。頬に当たる陽射しも、微かに花の香りのする風も全てが心地よかった。
裏道を抜けて国道沿いを走らせる頃、前方に一人で歩く制服姿の女子が見えた。ひと際小柄で、右肩が少し傾いている。
授業の一環で、科の違うクラスと合同で調べ物をした日、図書室で彼女がひとり分厚い本を開いて黙々とノートに書き写しているのが目に止まり、騒がしく雑談しているクラスメイトをかき分け、ひんやりする彼女の隣の椅子に陣取った。彼女のノートには自己流だが綺麗な印象を受ける鉛筆の字。
「綺麗な字だね」
率直な感想を伝えると、何事かと顔を上げた彼女の顔立ちが意外にも整っていたことに初めて気付いた時から、僕は彼女を憎からず想っていた。
僕はいつものように手を上げて、彼女に呼びかける。
「きみえちゃーん!」
彼女はやや立ち止り振り返る。驚いた顔をしていたが、遠くにいる僕を見とめると、にっこり微笑んでくれた。だがすぐに踵を返してまたゆっくり歩き出してしまう。
照れているんだろう。そう僕は思っていたから、反対車線の歩道を歩く彼女の横に行くべく、いつものようにハンドルを右に傾けた。
「ガッ」
その一瞬、堅い音がした。
「ガシャッ」
前輪が境界柱にぶつかって、車輪が巻き込まれ破壊される音だった。
突然のことだったが、頭が覚め、そして未だ見ぬ先を悟った。
自転車がコンクリートに叩きつけられる音より先に、車道へ飛び出した僕は、強い衝撃によって意識が遠く引き剥がされた。
前方の彼女は気付かずにいて、背中だけがゆっくりゆれていた。
二、「レギオンとの出会い」
鐘の音がする…。やけに乾いた音が、遠くから聞こえてくる。頭に染み渡り、己に何か訴え掛けてくる様で、酷く落ち着かない。
僕はそっと眼を開けた。
「カーン」
突如、頭の中で鐘が打ち鳴らされた。余韻は一瞬で消え失せたが、吃驚して小さく咳き込んだ。
「カチ」
ライターに火を点す、何者かの手元が見えた。その者の姿ははっきりとせず、凄まじい闇に包まれている。闇の中からは、ざわめき声のような「がなり声」、テレビの砂嵐のような音が音量を一定とせず途切れ途切れ聞こえる。
あまりの恐ろしさに、共一は大口を開けてそれを凝視した。
「誰…?」
うわ言のように、共一が一言発すると、闇と「がなり声」は中心部へ吸い込まれ、やがてそこにひとりの人物が露わになった。
「我が名はレギオン、大勢であるが故に」
そう名乗り、咥えた煙草を近付ける男。その手は少しも荒れておらず、皺もシミも薄く生活感を感じさせない。性別さえ定かではない端正な、汚れを知らない無垢さを覗かせる風貌だ。
窓からは白いレースのカーテン越しに、春の陽が温かそうに差し込んでいる。そこで初めて此処が自宅という事に気付いた。
「あっ」
一時考えている間に、レギオンと名乗る男が煙の出ている煙草を僕の手の甲に押し当てていた。手を引っ込めようとしたが、レギオンは非情にも手を離してくれない。
「ああああやめて!」
子供のように叫び暴れたが、レギオンの細い腕はびくともしない。起こる筈のない不条理さに、堪らず涙が込み上げてきた。
「痛みもなく、悲しみも知らない。あなたが望むのは、我の名を呼び共に生きること」
レギオンはそう言うと、乱雑に共一の手を握り、勢いよく自分の胸の方へ押し当てた。
共一は自分の指が握り潰されるのを眼にしたが、痛みはなかった。操り人形の様に手足を宙に浮かせレギオンの胸に顔を叩きつけた。
何かうめいた共一の言葉を待たず、レギオンは握っていた手をそのまま、次は自分の頭上へと引き上げた。
共一は強制的にレギオンの瞳を覗いた。色々な色にキラキラと移り変わり、まるで大勢の霊魂が蠢いているようだ。優しいようでもあり、恐ろしくもあるその瞳は酷く落ち着かせなくさせた。
共一は恐怖に泣き叫ぶ寸前、堅く眼を閉じて深く唱えた。
「悪霊退散、悪霊退散…」
それを聞いたレギオンは、打って変って限りなく優しい口調で言った。
「わたしは悪霊などではありません。私はあなたにとって最後の救いの使者なのですよ。あなたがせんとすることに手を貸しましょう。あなたがありたいように致しましょう。あなたの憂いは全てこの私が摘み取りましょう」
しかし、レギオンは優しい言葉とは裏腹に、手から共一を離してはくれない。堪らず共一は懇願した。
「僕の手を離してください」
レギオンはちょっと共一の顔を覗き込み、それから共一の手を離した。
「なんでも聞き届けますよ」
共一は握り潰された右手を左手で包みながら考えていた。
三、「あの日へ」
「偉大なる僕の守護天使よ、願わくば僕をあの日へ戻しておくれ」
笑みを貼りつかせたまま、レギオンは共一を注視する。
自分の望みを叶えるというレギオンの唯一の問いかけに、共一は他に選択肢を持たなかった。
「あの日とは?」
レギオンが聞く。
「あの日、僕が望んで止まないあの日だよ」
そう答えた共一の手振りを注意深く観察していたレギオンは、頬に手を当てて座り込んだ。背後からは闇が噴き出して、コンコンコンという重い鼓動の様な音が徐々に聞こえて来る。
「うるさい、まだ、そう、なんとか」
などと、レギオンはひとりでぶつぶつ言っている。しかし、程なくして立ち上がり、背後の闇を煩くさせたまま僕の正面まで来てこう言った。
「なにもないあなたの、それが望んで止まない望みなら、私がそこまで送りましょう」
共一はひとつ頷いた。
すると足元より風の切る音が幾つも聞こえてきて、何事かと下を見る間もなく白い風が噴出し、それは突風となって共一の身体を天高く飛ばした。
四、「最後の望みとは」
薄い窓ガラスを春の突風が揺らした。遮られて悲しげに鳴く最後の吐息が、共一の頬を撫でた。
「席に着いて」
人の声に共一は自然と顔を上げた。目前には黒板を背後に初老の担任が穏やかな笑みを向けていた。眠っていたのか、共一は口もとの不快感を手で拭いながら辺りを見渡す。すぐ左隣の女子がじと目でこちらを見てきた。
完璧に「あの日」の教室だった。
「思い出した…僕はこの日帰り道で…」
呟いた共一を、左隣の女子が腹立たしげに睨んだ。
順番に別室へ呼ばれ、担任から合格通知を受け取った。掌の上の小さなカードをじっと見詰め、合格のワープロ文字を何度も辿ったが、何とも複雑な気分になった。
帰り支度をし、駐輪場へ向かう。風の切る音が行方も知らず舞い上がる先を見上げると、薄い雲を幾重にも重ねて輝く空があった。
共一は勢いよく自転車に跨った。裏通りの坂道で加速をつけて住宅街を一気に下る。よく吠える犬も、小さい子供が飛び出してくる家の前も、あっという間に過ぎ去る。
程なくして国道沿いに出た。スピードを緩めず、なおペダルを漕ぎ続ける。
望むのはただひとつ…。
前方にあの人が現れ、共一はいっそう急いだ。息せききって喉から言葉が出てこない。気ばかり焦ってなかなか距離が縮まらない。悔しさと悲しさを織り交ぜた感情が押し寄せてきた時、そっと彼女が後ろを振り向いた。
彼女の顔が斜め横を見上げ、そこを通り過ぎ、後ろに眼を向けたその一瞬、共一の顔を見とめた。
END