純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号036 『ミチクサ』  隆はこんなことを考えていた。三十歳になった時に振り返ってみて、二十二歳で会社に勤め始めることの利点と、二年後の二十四歳の時に勤め始めるのとでは、どれだけの違いを感じるのだろうかと。遠い所から見る視点で、今の分岐点と、これから自分の進む道を考えようと努めていた。  目の付く所はどこも不景気、就職難という言葉が飛び交っていて、それらの対義語を思い出そうとしてもなかなか思い出せないような時代だった。誰のせい、誰が悪いとも思わないけれど、隆は運命の大きな歯車の力で、今の自分が頭の上から重い空気に圧迫されているのを感じていた。ネットの就職情報サイトでは、一人でも多くの就活生を職に就かせようと勇気付ける言葉や雰囲気が強烈だった。  同級生達は着実に就職活動を進めていた。隆も少しは会社を探して四社の面接を受けた。隆なりに会社を選んで申し込んだ面接だったが、そのうち三社は、面接に行ってみてここでは働きたくないと思うような、隆にとって不合格の会社だった。  結局、内定を手に入れられないまま、隆は就職活動の時期を逃した。惨めで、ばつの悪さは誰よりも本人が一番自覚していた。色々悩みながら考えた結果、さっきの「三十歳の視点」から隆は二月に大学院を受験することを決めて、そして合格した。  隆の専門は日本語教育だった。学部三年生の時、中国南京へ行って日本語教育の短期研修も受けていた。ただ、その時は将来日本語教育の分野に進もうとは思っていなかったので、大して勉強はしていなかった。しかし、日本語自体には興味があったので、大学院ではこちらに重きを置いて、二年間研究しようと考えていた。  同じ研究科に入った大学院生は、社会人だった人や留学生が多かった。社会人だった人達は、多くは中学校や高校で英語の教師をしていた人達だった。留学生は中国人が多く、彼らは大学院に来る前に日本語学校に通ってきているので、ストレートで上がってきた隆よりも幾つか歳上だった。  学部から上がってきたのは隆だけだった。大学に入学した時、百何十人といた同じ学部の同級生達は皆どこへ行ってしまったのだろうと思った。もちろん、皆どこかの企業に就職して社会人になっていたのだった。今まで幼稚園、小学校、中学校、高校、そして大学と、同じ時に入学し、同じ時に卒業してきた人達が、自分よりも先に社会へ出て行ってしまったことに寂しく感じた。もう同年代の皆と、一緒に教室で勉強したり、修学旅行へ行ったり、運動会で盛り上がるようなことはできなくなってしまった。皆先に行ってしまった。一人、置いてけぼりを食らってしまった。  隆の大学院生活は、思ったよりも落ち着いていた。研究テーマも比較的早くに決まった。アルバイトも大学四年生の時に辞めてからはもうしていなかった。本を読んで、レポート書く。ここ数年の中でも特にのんびりした日々だった。就職活動も暫くの間忘れて、今の自分の勉強に集中できていた。  隆には彼女がいた。名前はSといった。Sは保育士で、短大を卒業してから働いていた。二週間に一回、休日になると二人で映画を観に行った。観に行く映画は決まって洋画だった。映画館へは車を持っていたSが車を出した。 「A子に子供が出来たんだって」 「そうなんだ。まだ若いのに早いよね」  Sは車中、しきりに仕事が忙しい忙しいと言った。実際保育園の仕事は忙しくて、大変そうだった。隆は今の自分の境遇と、Sの境遇を比べずにはいられなかった。そして居た堪れなくなると、つい隆は「映画なんて観に行かないで、休みはのんびりしていればいいよ」と言って、そんなことを言ってしまった自分と、言わせたSに対して嫌な気持ちになっていた。しかし、Sは「いいの」と答えるだけだった。  観に行った洋画は、楽しいものもあれば詰まらないものもあった。詰まらないものを観た時は、二週間のうちの一回をそれに費やしたことに苛立ちを覚えた。Sが「忙しい忙しい」と言うのを聞く中で観に行ったものだったから尚更だった。ただその苛立ちが、詰まらない映画に対してなのか、忙しいとばかり言うSに対してなのか、バイトもせずに未だ学生をしている自分に対してなのかは解らなかった。ただ、それらが複雑に絡み合っていたのは確かだった。  大学院に入って一年と少しの月日が過ぎた。その頃になると、日本語学の研究は今や隆にとって楽しいものとなり、確かにやりがいを感じていた。大学院生の就職活動を始める時期は曖昧で、ややもすれば時期を逃してしまいがちだった。隆もついに就職活動をしないまま、博士課程の受験を決めていた。 「自分は就職活動もせずに博士課程の進学を考えているが、それは消極的に自分の道を決めているのではないのだろうか。自分に、本当にその道に進む覚悟はあるのだろうか」と、隆本人が一番気にしていた。そして、そんな自分が嫌いだった。ちょっと突付けば崩れるような、やわな意思で選んだように思えてしまい、悪い癖なのか、この時期になるとまた色々と考え始めていた。  旅をするなら一人がいい。一人なら気楽だ。道に迷っても、ああ間違えたと呟いて引き返せばいい。食事だって、見つからなかったら食べなければいい。一人なら、どこで寝てもいい。  でも、誰かと一緒に居たらそうはいかない。その人の食べる物を見つけなくてはならない。自分はいいからなんて言ってられない。野宿なんてさせられない。道に迷ったらごめんと言わなくてはならない。人生が旅だとは言うけれど、旅だったら、やはり一人で行くべきだ。  隆の九月の誕生日の夜に、Sを誘って近所の丘の上の公園へ行った。丘の頂上の少し湿った芝生の上に、二人で腰掛けた。町の光と、空には幾つか星が瞬いていた。「大事な話がある」そう言って、隆は話を切り出した。 「俺、来年博士課程に進もうと思うんだ」 「そうなんだ」と隣に座るSは答えた。 「俺の周りには、三十歳でまだ結婚していない人なんてざらにいる。三十五歳で結婚していない人や、四十になっても結婚していない人だっている。でも俺だって、母さんが若い時に俺を産んでくれたこともあって、自分の子供には若い父親でありたいという気持ちを持っているし、早く結婚したいとも思っているんだ。だけど、博士課程に進もうというのは誰の為でもない。Sの為、家族の為、子供の為を思って選んだ道じゃない。自分の為に選んだことなんだ。だから……」  Sは黙って聞いていた。 「Sの周りには、俺達と同い歳くらいでもう結婚してる人や、子供を持っている人も少なくないだろ。俺はいいけど、俺と居たら、そんなSが可哀そうだ」 「それが隆の選んだ道なら、私は構わないよ」 「簡単に答えを出さないでくれよ。しっかり考えてくれよ」 「私と一緒に居たくないの」 「そんなこと言ってるんじゃない。ただ、Sこそ自分の為に、自分の道を選ばなくちゃ」 「選んでるつもり」 「人より待つことになるんだよ」 「いいよ」 「…………」 「今はどう考えていても、将来どうなるかは解らないしね。タカちゃん、お誕生日おめでとう」  この時隆は「良くないよ」とSに言いたかった。それがSの優しさなら、隆は「要らない」と言いたかった。また隆は「これからも一緒なら、もう『忙しい忙しい』とは言わないでくれ」とも言いたかった。だけど、そのうちどれをも口にすることはできなかった。  隆は座ったまま、ただただ暗闇の中に光る星を眺めていた。自分の弱さへの申し訳なさと、肯定されたという決して身を委ねてはならない安堵の両方を感じていた。 二〇一〇年八月三十日《底付け》
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