純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号034 『政治学徒たち』  地方のS県からはるばる東京にやってきた六人のS大生たちは、初めて目の当たりにするM大学の巨躯に圧倒され、一斉に感嘆の溜め息を漏らして大気に彼らの口臭を散らした。正門を抜けてすぐのところにある噴水は繊細な水の絵画を空に描き、周りに置かれた花壇の花は水滴を吸って色とりどりの光彩を放ち、どこからか響いてくる訓練の行き届いた吹奏楽が構内に華やかな音色をそそぎ、小綺麗な服装と理知的な顔立ちをした学生たちがベンチに座って弁当を食べたり、議論をしたり、声をあげて笑ったりしている。あちこちに生えた建物の群れはどれ一つとして同じ形をしたものはないが、やはりそのどれもがふんだんに金をかけられているらしく、過度な装飾と細工の衣服を着込んで誇らしげに胸を張って聳えている。噴水の奥の一際大きな煉瓦造りの学舎はその体躯の半分近くを蔓に覆われているが、それがある計算のもとに行われた芸術的な意匠であることは疑いなく、この大学の持つ伝統と権威とを来訪者に視覚的に知らしめる機能を果たしている。  笹野教授が相変わらずの早歩きで奥へ進んでいくため、S大生たちは息つく暇もなく彼の後を追った。初秋の透明な陽射しが彼らの皮膚を温めていた。まだ夏季休業中であるため、大学の規模の割に歩いている学生の数は少ない。彼らは鳥のように首を忙しなく上下左右にふりたてながら、綺麗に舗装された幅広のメインストリートを一団となって歩いた。 「政経学部棟はどこだったかな」  笹野教授がキャンパスマップの前で立ち止まったので、勢い学生たちもキャンパスマップを覗き込んだ。数瞬の後、彼らの口からまた一斉に溜め息が吐き出された。「ちょっと何これ」「すごい」「広いな」キャンパスマップの示すM大学は、彼らの学び舎たるS大学がゆうに三つか四つは入りそうなほど広大な敷地を持っていた。しかもどうやら構内にはバスまで走っている様子なのだ。建物の数や規模、美しさなどは鼻から比べ物にならず、彼らはその壮々たる威容に白痴のように口を開けてただ感服せざるを得ないのだった。  目的の政経学部棟には十分ほどで着いた。建物の中に足を踏み入れた彼らを迎えたのは、涼しげな水の音だった。彼らは辺りを見回し、壁際の溝を走る小川の存在に気づいた。小川の水面は照明を浴びて乳白色に輝き、その周囲を観葉植物が覆っていた。歩行者が誤って落ちないよう、溝の側には黒い柵が巡らされていた。彼らはほとんど呆れに近い感情を抱きながら、笹野教授の後をついて歩いた。太陽を象った巨大な抽象画が描かれた壁の側を通った。よく磨かれた床は清潔に光り、埃も染みもないのだった。 笹野教授が事務室に入った。丸眼鏡をかけた男の職員がそれに気づき、奥から小走りでやってきた。 「合同ゼミを予定していたS大学政治学部の笹野ゼミのものですが」 「ああ、S大学の」  職員は机の引き出しから取り出した書類をめくった。 「冨士田教授から伝言がありまして、九四番教室に来てくださいとのことです。九四番教室は九階にありますので。もう少し奥にエレベータがありますよ」  彼らはエレベータに乗りこみ、九階に移動した。壁に貼られた地図に群がり教室の位置を確認する彼らを、コピー機の前で紙を刷っていた二人のM大生が不思議そうに眺めた。教室に向かう途中に学生休憩室というのがあった。彼らが好奇心に駆られて中を覗くと、ソファやテーブルに加えて大型のテレビまでが設えてあるのだった。「すげえ」「いいな」他に誰もいないことを確認した男たちが先を争ってソファに群がった。尻の深くもぐる良いソファだ。笹野教授が急かして、男たちはまた争うように休憩室を出た。ある部屋の前で笹野教授は立ち止まり、その扉をノックした。どうぞ、と中から応答があり、彼らは連なって教室の中に足を踏み入れた。 「やあどうも。おひさしぶりです、笹野先輩」  よく肥満した髭面の男が笑顔を振りまきながら彼らに近づき、笹野教授の手を握った。教室にいるのは彼一人だった。彼と並ぶと小柄で痩せた笹野教授はまるで裕福な大人に手を引かれる孤児のようだ。九四番教室はこの階ではもっとも小さな教室だが、それでもゆうに百人は収容できる広さがあった。窓の外では大地から突起した高層ビルが軍隊のように整然と立ち並んでいた。 「冨士田君、また一段と太ったんじゃないの」 「いやあ、日本は食べ物がうまくて」  冨士田教授は滋養に満ちた腹を震わせながら豪快に笑った。彼は笹野教授の大学時代の後輩で、西欧のスラム街について研究している人物だった。 「君のところの学生はまだ来てないのかい」  笹野教授に尋ねられて、冨士田教授は困ったように顎鬚を撫でた。 「いやあ、さっきまで皆いたんですけどね。こんなに早く皆さんが来るとは思わなかったから、外にご飯食べに行っちゃったんですよ。皆さんはもうお昼は食べましたか」  S大生たちは首を横に振った。彼らは朝の早い時間にコンビニのパンで朝食をとったきりだった。 「合同ゼミまでまだ時間がありますから、皆さんも食べてきたらどうですか。もう少し北にいけば食堂がありますから。自慢じゃないですけど、うちの食堂はなかなか立派でね。安いし味も悪くないから一般の方にも人気があるんですよ。いまは夏休みだから、多分空いてると思いますよ」 「君たち、行ってきなよ。僕は少し冨士田君と打ち合わせするから」  笹野教授にも勧められ、S大生たちは教室を出た。エレベータで地上に降り、冨士田教授の教えてくれた方角に行くと、三階建ての円柱状の建物が見えた。『○○キャンパス 第二食堂』という看板がかかっていたので、彼らは頷き合ってその建物に向かった。  食堂の内部は広く、天井に並ぶ橙色の照明が食事をとる学生たちに柔らかな光を投げかけていた。彼らは食券の販売機の前に立ち、メニューの表を見あげた。メニューの数もS大学の倍はあった。「多いなあ」「チーズとマッシュルームのリゾットだって」「ラーメンや丼物ばかりのうちとは違うね」「フェットチーネってなんや」「麺の太いスパゲティよ、たしか」「値段もうちと同じくらいね」彼らは思い思いの食券を買い、受け取り口の前に並んだ。活気に満ちた厨房の中で、清潔なコック服に身を包んだ若い男たちが無駄のない動作で料理を作ったり、盛り付けたりしていた。学生たちはほとんど待たされることなく料理を受け取ることができた。しかもコック服の男たちは料理を手渡すとき、学生一人一人に「ありがとう」と笑顔さえ向けてくれるのだった。S大生たちは感動した。この食堂では染みだらけの白衣を纏った年増たちの横柄な態度や緩慢な動作にいちいち神経を引っかかれずに済むのだ。  先に料理を受け取った者から席についた。黒を基調とした光沢のあるテーブルが落ち着いた空間を演出していた。椅子も折りたたみ式の堅いパイプ椅子ではなく、背もたれの高い上等なものだった。彼らの側で光を透かすベージュのカーテンが風に揉まれてゆらめいていた。女二人が皆のぶんの水をとりにいったので、男たちはその間料理に手をつけずに待っていた。 「いいなあ、畜生」テーブルの一番奥に座った男が小さくつぶやいた。彼は生まれも育ちも東北の山奥で、大学といえば田舎のS大学くらいしか見たことがなかった。東京のような都会に出てきたのも無論のことこれが初めてで、途中の電車ではヤモリのように窓にへばりついて天高く聳えるビルの群れを見あげていた。「こんなところで大学生活を送れたら楽しいだろうな」隣に座っていた男もそれに応じた。彼もS大学のみすぼらしさにはほとほと嫌気が差していたのだ。小中学校の校舎のような味気ない建物を無造作にいくつか並べたたけのS大学は、ほとんどの教室にまだエアコンさえついていなかった。施設の老朽化が問題になっているが、資金難でとても改修する余裕がない。むやみやたらな経費削減は教員不足、器材不足、景観の悪化、図書館の蔵書数低下などといった弊害をもたらし、経費とともに学生たちの学習意欲までもが削減されつつある。「見れ、このでかいトンカツ。うちのやつの倍くらいあるが。野菜もたっぷり入っとる。同じ値段とはとても思えんわ」別の男が自分のカツカレーを指差したので、周囲の男たちは彼の皿を覗き込み、一斉に鼻をひくひくと痙攣させた。舟形の容器の上で、丸々と太った豚カツが白飯の大部分を覆い隠していた。液体の中に沈むぶつ切りにされたじゃが芋、鶏肉、人参なども立派に存在感があり、彼らはますます空腹を掻きたてられるとともに、このような栄養たっぷりのカレーを日常的に食べられるM大生の恵まれた食環境に嫉妬を抱かずにはおれないのだった。S大学のカレーはといえば、肉はおろか野菜もほとんど入っていない貧相なもので、味も薄いため、必ず最後には白飯だけが残ってしまう。たまらず百円追加してカツカレーにしても、衣ばかりの痩せ細った豚カツが数枚あばら骨のように置かれるだけで、食欲旺盛な学生たちの腹と心を満足させるには到底足りない。堅い椅子に座り、傷だらけのテーブルの前でぬるく水っぽいカレーを口に運んでいると、彼らはまるで自分がソマリアあたりの難民食でも食わされているような気がして、段々と寒々しい気持ちになるのだった。 「格差だ。ここに明確な格差が存在している」ゼミ長を務める男が芝居がかった口調で言った。「東京とS県が同じ国だなんて、いったい誰が想像できる? こんな地下鉄が数分おきにびゅんびゅん走るところと比べたら、僕たちのS県なんて日本の第三世界も同じじゃないか。遊ぶ場所はない、大型店もない、チャンネルは少ない、交通機関は貧弱、賃金水準は低い、大学は狭い、もはやS県は構造的な暴力を受けているといっても過言じゃないぞ。従属論的にいえばS県はCenterにおけるPeripheryであり、その経済構造はCenterの必要性によって完全に規定されてしまっているんだ。S県の経済余剰は収奪されている。この街は子羊のような地方都市を搾取して絶えず醜い物質的膨張を続けているんだ。地方都市がいつまで経っても低開発性から抜け出すことができないのはそのためだ。この鼻持ちならない国内植民地主義を僕たちは断固として粉砕しなければならない。そう思わないか、皆」 「そうだ、その通りだ!」 「革命による首都との関係の遮断が必要だ!」 「低開発性が発展していく!」  男たちの間で爆笑が起こった。彼らは笹野教授の講義で貧困と発展の関係性について学んだばかりだった。覚えたての学術用語を弄ぶことは、彼らの知的官能に快い刺激を与えるのだった。さらにこうした経済格差や貧困の問題は、今日のM大学とのディベートにおける主要なテーマの一つでもあった。 「うるさいわねえ」「何の話してるの」水を取りにいった女たちがテーブルに戻ってきた。彼女たちはコップを配り終えると、各々の席について興味深げな視線を男たちに向けた。「S県が田舎なのは東京のせいだって話してるんだよ」ゼミ長が答えた。「ああ、従属論ね。今日のテーマの。どうしよう、あたし課題図書ほとんど読めてないんだけど。皆は?」他のS大生たちは互いに恥ずかしげな笑みを交わしあった。「わたしもまだ半分しか読めてないの」「俺もあと一章残ってる」「ていうか、たった一週間であんな分厚い本読めるかよ」「みんなディベートの資料作りで手一杯だったしね」「俺、昨日徹夜したけどムリだった」「あ、俺も徹夜」「あたしも二時間しか寝てない」「朝から眠くて仕方ねえや」「ねえ、食べようよ」  いただきます、と唱和してS大生たちは一斉に箸やスプーンを動かした。いくつもの舌鼓が重なり音楽を奏でた。専門店の味には敵わないが、どの料理も田舎学生たちの栄養失調の舌を満足させるには十分な味を備えていた。「うまいな」「これなら毎日食堂でもいいな」「安いしメニューも多いしね」「いいなあ、ここ」S大生たちは夢中で料理を頬張り、濡れた咀嚼と嚥下の音を立てた。中には今日までに読んでこなければならないはずの課題図書を取り出し、飯を食いながら読み始める者もいた。「今日ディベートするM大生ってどんな奴らかな」「さあ。やっぱり頭良いんじゃない。偏差値高いし」「夜はコンパだべ」「可愛い女の子おるかな」「いるんじゃないの。東京だし」「メアド聞かなきゃ」「あんたらってそんな話ばっかりしてるよね。死ねば」  S大生たちは身も心も充足し、心持ち膨らんだ腹を擦り擦り食堂をでた。合同ゼミの開始時間が迫っていた。九四番教室に戻った彼らは、先ほどまでの快活な気分を瞬く間に萎ませた。十人ほどのM大生たちがコの字に並べられた机の前に行儀よく座り、彼らの方に視線を向けていたのだ。S大生たちが中に入っていくと、雑談する者もいなくなり、教室は奇妙な静けさに包まれた。S大生たちはホワイトボードの前で冨士田教授と並んで座っている笹野教授を縋るように見つめた。 「君たちも早く席に着きなさい」  笹野教授に言われ、彼らは空いていた席に並んで腰をおろした。M大生たちは相変わらず値踏みするような視線を彼らに注ぎ続けていた。S大生たちは生贄に捧げられる奴隷の不安にも似た圧迫を胸に感じ、顔をうつ伏せながらノートや筆記用具の準備をした。 「じゃあ皆揃ったことだし、少し早いけど始めようか」  冨士田教授が手を叩き、雑談をしていた者たちも残らず彼に注意を向けた。 「先ほども紹介しましたが、わたしがM大学の冨士田、こちらがS大学の笹野先生です。今日はS大学政治学部の方々がS県からわざわざこのM大学に来てくださいました。まずはそのことにお礼を言いたいと思います。皆さん何日もかけて今日の合同ゼミの準備をしてこられたことでしょうから、一人一人が知恵を絞り、意見を出し合って、今日の議論を意義あるものにしていきましょう。わたしと笹野教授は基本的に議論に口は挟みません。司会もうちの学生にやってもらいます。皆さんには用意してこられたであろう課題図書の要約とそれに関する問題提起を順番に発表していただき、その問題提起に沿って皆さんが各々の意見を戦わせる、という形で議論を進行していきたいと思います。と、その前に互いの名前が分からないと何かと不便でしょうから、簡単に自己紹介をしてもらいましょうかね。あとこれに名前を書いてテープで胸に貼ってください」  小さく切った紙とテープが回され、学生たちは紙に自分の名前を書いて胸の辺りに貼り付けた。M大生から自己紹介が始まり、何人かが冗談を言って笑いがさざめいた。S大生の番になったときにはいくらか緊張もほぐれ、彼らは皆問題なく自己紹介を終わらせることができた。 「ええと、本日司会を勤めさせていただくM大学の井上です。よろしくお願いします」赤いフレームの眼鏡をかけた細身の男が小さくお辞儀をした。「それじゃあ早速ディベートを始めたいと思います。まずは第一章の要約からですね。担当のS大学の方、よろしくお願いします」 「はい」返事をしたのはS大学のゼミ長だった。彼は昨晩ネットカフェの個室に閉じこもり、徹夜で作り上げた要約と問題提起の資料を配った。全員に行き渡ったことを確認して、彼は発表を始めた。「本著によれぱ、近年問題となっている世界的な食糧危機は食料輸出国やアグリビジネスの責によるところが大きい。彼らは食料の価格を吊り上げるために穀物の生産量を操作し、他の国に圧力をかけ……」彼の発表は声だけは大きかったが、その内容は資料をただ棒読みするだけの野暮ったいもので、M大生たちの顔付きは次第に失望と倦怠を象りはじめた。続いて問題提起が行われた。議論をする上ではむしろこちらの方が重要なのだが、彼の発表の様子は相変わらずだった。「食料輸出国やアグリビジネスにこれほど傲慢な行動を取らせるようになった原因は、自由主義経済にあると考えられる。自由主義経済の下では、国や企業は各々の利益の最大化を目指して行動するため、必ずしも平等や人権といった概念とは両立しない。……こうした問題は、第三世界内の貧困や格差につながり、過激な民族主義や原理主義の台頭を許したり、テロや犯罪ネットワークの温床となったりして、九・一一テロのように、先進国自身の首を絞める結果ともなりかねない。……先進国は自国の安定のためにも、このような負の構造の是正に主体的に取り組むべきである。……先進国は現在の世界的な経済自由化の流れを止め、たとえば社会民主主義のような政治的・経済的平等を希求する政策へとベクトルを転換し、第三世界の産業を尊重し、ヒモの付いていない援助を心がけ、アグリビジネスの活動をある程度規制していくことが必要である……」  ゼミ長は言葉を切り、顔を上げた。緊張のために彼の顔は幾分青ざめていた。司会者が小さく咳払いをした。 「ありがとうございました。では先ほどの要約や問題提起について何か質問がある方はおられますか」  ぱらぱらと手が挙がり、司会者がM大学の茶髪の男を当てた。男は勢いよくしゃべり始めた。 「アグリビジネスの活動をある程度規制する必要があるとおっしゃられたが、それは具体的にどのような規制であるのか。また、規制対象となる企業の基準は何か。現実においてすでにアグリビジネスが第三世界の国々に浸透し、現地の生産構造や雇用形態に組み込まれている以上、アグリビジネスの活動をただちに規制することはそれらの国々にも重大な影響をもたらすと考えられるが、その点についてはどうお考えなのか。この三点について教えてもらえますか」  教室に沈黙が落ちた。ゼミ長は資料に目を落としたまま硬直していた。彼の脳細胞はかつてないほどに目まぐるしく立ち働いていたが、彼の頭蓋の中身を隅から隅まで点検してみても、彼が今必要としている知識を探り当てることはできなかった。「その、この部分はなんといいますか、抽象論でして、具体的な内容というのは、その、考えてなかったです」 「あ、そうですか。じゃあ、いいです」  茶髪の男は後頭部を撫でながら拍子抜けしたように言った。またすぐに別のM大生の手が挙がった。 「この問題提起の資料には少々抽象的な部分が多いような気がします。先ほどのアグリビジネスの規制についてもそうだし、社会民主主義的な政策についての具体的な記述もない。こういう学術的な議論の場おいては、こうした曖昧な部分は極力なくさなければ有益な議論はできないと思いますよ」  ゼミ長は少しの間まごついていたが、やがて項垂れて「すみません」と言葉を落とした。 「何か他に意見はありますか」  M大生の女が手を挙げた。 「第三世界の貧困や貿易構造の不均衡を放置することは先進国自身にも危険を及ぼすから、先進国はそれらの克服に力を貸すべきであるという主張ですよね。確かにそうした負の構造は取り払われるべきだけど、動機の面でちょっと問題があるように思います。これっていわゆるリスク回避論ですよね。自国に対するリスクを回避するために、先進国はその問題に介入すべきである、というような。確かにこれは聞こえがいいし、分かりやすいし、人々の心を揺り動かす力を持っているけれど、イラクに対するアメリカの破廉恥な先制攻撃を許したのはまさにその議論なのではないでしょうか。リスクを回避するためという理屈は、ともすれば先進国にとって危険性のある国や民族を滅ぼしたり、絶滅させたりというような非道な手段をも肯定しかねません。別に先進国がわざわざ貧困国に手を貸さずとも、武力で敵になり得る勢力を消滅させてしまえば、彼らにとってのリスクは回避されるのですから。何か別の動機が必要であると思います」  リスク回避論というのをゼミ長は聞いたことがなかったが、その内容に対しては反論できると彼は考えた。「しかし、そのような非道は国際社会が許さないでしょう。経済的にも貧困国を援助するより遥かに費用が嵩むでしょうし、攻撃の過程ですでに大きなリスクが発生してしまいます。そもそも絶滅なんて物理的に難しいでしょうし。アメリカだって今テロに苦しんでいるじゃないですか」 「議論がずれてる」  女が困ったように周囲を見回した。ほとんどのM大生が彼女に同調して頷いていた。白けた雰囲気が流れた。いったい何がずれているというのか。彼は混乱し、助勢を求めて視線をさ迷わせた。しかしS大生たちは一様に何かに祈りを捧げるようにして俯き、決して彼と目を合わせようとしないのだった。結局よく分からないまま、彼はこの件については引き下がった。しかしそれでもまだ彼には解せなかった。 「第三世界の貧困を救う動機と言いますけど、人道的な理由では不十分なのでしょうか」 「人道などというものに莫大な損失を先進国に強いる力はありませんよ」女は淀みなく答えた。  もはや彼には議論に参加する気力は残されていなかった。M大生たちがどのような動機が相応しいかについて声高に議論を始めたが、彼は気の弱い被告人のように背中を丸めてただそれを聞くだけだった。彼は衆人監視の中で輪姦されてしまった。他のS大生たちも最初のうちは議論に参加し、一言二言意見を述べることもあったが、そのほとんどは的外れの指摘であったり、意味を持たない議論への追従であったりして、彼らがイニシアティブをとることはただの一度もなかった。そのうち彼らは一人、また一人と眠りの中へ逃避を始めた。酷いときには三人同時に目を瞑っていることもあり、笹野教授や冨士田教授も渋い顔をしていた。議題が変わり、問題提起者が変わっても、S大生たちは相変わらず眠るか、傍観していた。M大生たちにとって、彼らは物言わぬ観葉植物だった。結局議論の後半はM大生だけが発展途上国の飢餓や貧困の克服について熱い議論を戦わせていた。教え子たちの知的貧困をまざまざと見せ付けられた笹野教授は、腕を組んだまま無表情に窓の外を眺めていた。  S大生とM大生、合わせて一六名は、笹野教授と冨士田教授を先頭に、大学近くのビル街を歩いていた。道は仕事を終えた人間たちで込み入っていた。陽はすでに暮れて、夥しい電飾の光が建物と建物の間で氾濫していた。 「少し遠いけど、いい店があるんですよ」  案内する冨士田教授の声は弾んでいた。彼は肉の詰まった巨体を揺さぶりながら、人ごみを掻き分けるようにアスファルトを踏んで行った。学生たちは離れ離れにならないよう、小さく固まって彼の後をついて歩いた。M大生たちは教室にいた時とはうって変わって、友好的な態度でS大生たちと接した。遠方から自分たちの街へやってきた者を案内し、楽しませる義務があると彼らは考えたのだった。政治学徒たる自負をへし折られてしまったS大生たちはしばらく屈託したように言葉少なだったが、彼らの注意は次第に見なれない街の景色の方に吸い寄せられていった。  東京は全く巨大で人工的な街だった。背の高いビルは連綿と続いていつ果てるとも知れず、アスファルトでしっかりと防御された地面には雑草が芽を出す隙間すらなかった。闇は容易に街に入り込むことができず、遥か頭上で指を咥えてたゆたっているばかりだ、あらゆる種類の店が光を放ち、音楽を奏でていた。ショーウィンドゥにはブランド物の服やバッグが飾られ、開け放たれたゲームセンターからは電子音の奔流がこぼれ出し、三階建てのマクドナルドには仕事帰りの会社員や下校中の高校生が次々と吸い込まれていった。金さえ積めばあらゆる欲望が満たされる街だった。田舎のS県とは何もかもが違っていた。  首都の驚異はS大生の心をいつまでも沈殿させてはおかなかった。彼らの口からはしきりに感嘆が漏れ、目は爛々と燃えて方々の店に視線を飛ばした。若者たちはすぐに打ち解け、各々の故郷や大学の話をして親睦を深め合った。「S県って新幹線が通ってないんだ」「まあね。田舎だから。電車も一時間に一本あるかないかだよ。自動改札だってないし」「自動改札ないの? 切符とかどうするの?」「駅員さんに手渡して、処理してもらうのよ」「駅員がいない駅も結構あるけどね」「それって駅じゃないじゃん」「いやいや、駅だよ。ちゃんと電車止まるし。切符は車掌さんに渡せばいいし」「へえ。田舎に行った事ないから知らなかった」「この辺にうまいラーメン屋ってないん? 明日の自由行動で何食おうか迷っとるんだけど」「おう、あるある。○○駅の西口出たところにあるラーメン屋がうまいんや」  冨士田教授は急に方向を変え、ビルの狭間の細い路地に入った。先ほどまで歩いていたところとは一転して、街灯が少なく、人通りもほとんどない寂しげなところだった。M大生の一人がここは目的の居酒屋に行く近道なのだとS大生に教えた。しばらく進んだところで、学生たちは風に乗って漂ってくる仄かな異臭に気づいた。魚介が腐敗したときにたてるような臭いだ。何だろうと彼らが訝しんでいると、道の中央を歩いていた冨士田教授が不意に何かを避けるように端に寄った。学生たちもすぐにその理由に気づいた。電柱の陰に初老の男がいたのだ。男は路上にダンボールを敷き、涅槃の格好で寝そべっていた。頭に巻いた手ぬぐいからは白く染まった蓬髪がこぼれ落ち、髭の繁みからは亀裂のような半開きの赤い口が覗き、ジャンパーとジーンズは元の色が分からないほどに汚れ、痩せ衰えた手足は不潔と不摂生によって黒ずんだ枯れ木のようだった。男は暗がりの中から無表情に彼らを見上げていた。垢の臭いに息が詰まりそうになりながら、彼らは早足に男の脇を通り抜けた。男と十分距離が開いてから、おもむろに彼らは話し始めた。「臭え」「死ぬかと思った」「あたし、ホームレスって初めて見た」「変なもの見せてごめんね。この辺は結構多いのよ」「S県にはいないの?」「いないこともないけど、少ないよ」「あいつら、年々増えてきよる」「公園なんかうじゃうじゃいるね。夜は怖くて歩けないよ」「そういえばこの前R大生がホームレスに刺されたって」「危ないなあ。そんなん野放しにしてていいのかよ」  路地を抜けると、再び彼らは喧騒に呑み込まれた。そこは飲み屋街だった。居酒屋やカラオケ店がいくつも立ち並び、酒気を帯びた男たちが店から店へと練り歩いていた。あちこちで流れる音楽は混ざり合い、きらびやかな一つの騒音となって学生たちの鼓膜を揺らした。店の看板を掲げた呼び込みがあちこちにいて、一人でも客を捕まえようと躍起になっていた。ギターを持った老人が道端に座り込んでフォークソングを歌い、歩行者に無視されていた。若い男女が声を張り上げて募金を呼びかけ、気の大きくなった酔っ払いが次々と募金箱に金を押し込んでいた。教授と学生たちはそうした人々の間をすりぬけながら、一軒の店の前にたどり着いた。そこは一見するとただの中華料理店だったが、アルコールも比較的安い値段で扱っていた。店に入ると、チャイナドレスを着た女の店員が彼らを出迎えた。彼らは二階に案内され、大きな席と小さな席に分かれて座った。油や香辛料の匂いが彼らの空っぽの胃を握り締めた。広い店だが席はほとんど客で埋まり、賑やかな笑いが弾けていた。壁には火を噴く龍が描かれていた。 「食べ放題、飲み放題で二時間だから。皆、何でも注文しなさい」  冨士田教授が言い、学生たちはメニューの冊子を奪い合った。さすがにただの居酒屋と違って、料理は豊富、かつ本格的だった。水を持ってやってきた店員に、飢えた彼らは一斉に犬のように吼えたてた。店員は額に汗を浮かべながら、学生たちの注文をいちいち復唱し、手帳に酒や料理の名前を書き付けていた。酒を頼んだ学生の中には未成年の者もいたが、教授たちは気づかないふりをしていた。雑談をしながら彼らが少し待つと、もうもうと湯気を撒き散らしながら皿が運ばれてきた。純白のテーブルクロスはたちまち色とりどりの酒と料理で埋め尽くされた。艶々と濡れた料理たちは芳醇な匂いを噴き上げ、学生たちの食欲をかき混ぜた。酒が全員に行き渡ったのを確認して、笹野教授が立ち上がった。 「本日は我々のために貴重な時間を割いていただき、どうもありがとう。他大学の方々と議論する機会は滅多にないので、うちの学生たちにも良い経験になったんじゃないかと思います。M大学の方々はよく勉強されていて、わたしも感心しました。これから旅館に帰ってすぐにでもうちの学生どもをしごいてやりたいところですが、とりあえず今は、S大生もM大生も、たらふく食って、飲んで、今日の疲れを癒し、明日以降に向けて英気を養ってもらいたいと思います。皆さん、楽しくやりましょう。乾杯!」  乾杯、と声がはじけ、グラスが打ち鳴らされた。喋り疲れて乾上った彼らの口腔に、よく冷えた液体がなみなみと注ぎこまれた。続いて料理に無数の箸が伸びた。学生たちは腹を空かせたスラムの子供のように餃子を齧り、炒飯を掻き込み、酢豚を食い、麺を口の中で踊らせ、麻婆豆腐の辛さに驚き、エビチリの弾力ある歯応えにはしゃいだ。不思議な名前のカクテルがいくつもあり、S大生たちはその一つ一つを啜っては嬉しそうに味の評価をした。空いたグラスと皿は次々と下げられ、酒と料理が追加注文された。白いテーブルクロスが顔を覗かせる余裕はなかった。携帯のアドレス交換があちこちで起こっていた。チャイナドレスたちが忙しなく一階と二階とを往復していた。S大生とM大生は古くから友人同士であったかのように言葉を交わし、肩をたたき、笑いあった。「いやあ、この前のパリ暴動は凄かったぞお」冨士田教授が紅潮した頬をぷるぷると震わせながら話しはじめた。「移民の青年たちはフランス社会の偏見と差別に憎悪を募らせていたんだろうなあ。彼らが蜂起したとき、パリの空は真っ赤に燃えたよ。僕はわざわざフランスまで暴動の様子を見にいったんだ。車は松明と一緒さ。移民たちはシュプレヒコールをあげ、車両に火を放ちながら行進するんだ。最初は数十人の集団だったのに、移民たちはあちこちから雲霞のごとく湧いて、すぐに数千人の大群衆になった。警官隊がやってくると、彼らは車をバリケードにして戦うんだ。石や火炎瓶、ゴム弾や催涙ガスが飛び交い、空を覆った。僕も敷石をはがしてめちゃくちゃに投げた。なんだかお祭りをしている気分だったよ。でも前方のバリケードが突破された後は無我夢中で逃げた。あちこちに血を流したアルジェリア人やらモロッコ人やらが転がってて……」  別の席では笹野教授が膝を組み、M大生たち相手に演説をぶっていた。「諸悪の根源はWTOだよ。やつらときたら、ほとんど先進国の御用聞きじゃないか。規制緩和、関税撤廃、自由貿易、自由競争。どれも得をするのは先進国ばかりだ。アメリカみたいな大国と自由競争を強いられて、アフリカや南アジアの貧困国が勝てるわけがないんだ。彼らにはむしろ保護が必要なんだよ。国家予算がトヨタの一年間の収益よりも少ない国だってたくさんあるんだぞ。結局彼らは競争に敗れて、国内産業はズタボロになり、モノカルチャー経済を押し付けられ、食料物資を先進国からの輸入に頼らざるを得なくなるんだ。これじゃ経済格差は広がるばかりだ」M大生たちは頷きながら聞いていた。  小さい方のテーブルでは数人のS大生とM大生がいかにしてホームレスを減らすかという議論をしていた。合同ゼミのときは沈黙していたS大生も、こういう酒の場では自分の意見をうまく舌にのせることができるのだった。「日本中のホームレスを集めて農業をさせればいいんだ。そうすれば食料自給率も上がって一石二鳥だ」「そりゃ面白いけど、農業というのはうまくないよ。ただでさえ農家の人たちは苦しいのに、これ以上食料の価格が下がったら彼らは廃業するしかないじゃんか」「良いことを思いついた。ホームレスが収穫した食料は全部貧しい国の人たちに援助すればいいんだ。食糧不足は解決するぞ」「焼け石に水だよ。いったい飢餓人口がどれだけいると思ってるんだ」「お、この角煮の饅頭はうまいよ。食ってみ」「ホームレスの人たちが働くのを嫌がったらどうするのよ」「そのときは殺しちゃえばいいんだ。やつらは治安を悪化させるんだから」「過激だなあ。確かにいなくなってくれたほうが有難いけどね」「どこかのR大生みたいに刺されちゃたまんないや」「あ、これ本当にうまいな」  酔いと立ち込める熱気で、彼らは次第に汗をかき始めた。冨士田教授が泡立つ麦色の液体を一気に飲み干し、周囲の学生たちが歓声をあげた。笹野教授もそれを見て負けじとジョッキを呷った。冨士田教授の肥満した腹は次々と流し込まれる酒によって臨界に達しようとしていた。ほとんど鯨飲といってよかった。笹野教授が噎せて酒を吐き出し、周囲で笑いが爆竹のように爆ぜた。学生の一人がジョッキを倒し、飛沫を浴びた女が悲鳴が上げた。料理の大部分がビール漬けになり、アルコール臭い湯気が昇った。笹野教授が店員を大声で呼び、料理を下げるよう命じた。冨士田教授が新たに五目蕎麦と叉焼と北京ダックと胡麻団子を注文した。学生たちも唾を飛ばしながら酒の名前を叫んだ。狂乱の宴が繰り広げられていた。酒は無数の食道を流れ、胃を洗い、血管を巡った。議論はもはや怒号だった。飲みすぎた学生が口に手を当ててトイレへ走った。テーブルに突っ伏して鼾をかく者があった。空っぽの皿はうず高く詰まれて塔を作ったが、テーブルにはまだ食べきれないほどの料理が残っていた。学生がグラスを落として割り、床に酒の川が流れた。チャイナドレスが新たな料理を盆にのせて階段を上がってきた。団体客がやってきて店はますます喧しくなった。彼らはグラスを振りかざし、麻薬にも似た恍惚の中で唱和した。 「平和万歳!」 「東京万歳!」 「先進国の横暴を許すな!」 「アフリカの子供たちを救え!」                           了
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