純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号016 『彼の部屋の蚊帳の内側、大学ノートのメモの外側』  彼はカンボジアのプノンペンという街で一日四ドルの部屋に 長期滞在していた。もうかれこれ一月ばかりも経過しているだ ろうか。  一日に彼がなすのは、散歩をすること、ビールを飲むこと、 本を読むこと、ただそれだけに尽きている。それは仕事を持た ない一日の使い方に、彼自身がいまだよく慣れていないのだと いうことをわたしに教えた。彼のこころは手持ち無沙汰と解放 感をたえず行き来しているようだ。  プノンペンの街自体は、彼が想像していたよりも、ずいぶん 過ごしやすい場所らしい。バンコクにいた時分の彼と比べてみ ると、幾分気持ちが落ちついているようにも思われる。  わたしはその原因を探してみたが、おそらくゲストハウスに 備え付けられている蚊帳がその要因だろうと思われた。彼は口 を開けば蚊帳は良い蚊帳は良いとうるさく、それ以外に彼のこ ころの平安の原因をわたしは思いつけない。  薄汚い煙草の焦げ痕だらけの蚊帳は、子どもの時分しばしば 訪れた母方の田舎を彼に思い出させるらしい。彼の話す言葉は いつも不明瞭で、わたしは意味をよく掴みかねたが、彼の言葉 を使えば「柔らかい感じ」または「懐かしさに近い感じ」を穴 だらけの蚊帳は彼に与えるのだそうだ。  人間のこころとは妙なものだ。おそろしく汚く狭い部屋であ り、寝台には南京虫までいるというのに、ただ蚊帳があるとい うその理由だけで、一つところに居ついてしまうのだから。  従業員のソックンの話では、このゲストハウスはイチノセタ イゾーという写真家が長期滞在していた場所だとのこと。内戦 中アンコールワットで消息を絶った男だ。わたしは因果なもの だと思い、彼を見つめるが、彼は別になんでもないように「へ え、はじめて聞きました。可哀相に近い感じだけど、やりたい こと出来てる感じですね」とだけいう。    彼は先ほどもゲストハウスから歩いて十分ほどの距離にある、 トンレサップ川の畔で小説を読んでいた。今日、川岸の木陰で 開いた本は中島敦の『光と風と夢』という熱帯を舞台にした物 語。東南アジア特有の強い陽射しを浴びる彼の首筋を汗がとめ どなく流れた。ときたまフッと川の方から涼しい風が吹いて、 ひとりでにページがめくれたりするのをみると、小説の題名が 「今」「ここ」にとても似つかわしく感じられた。わたしは彼 に気づかれないよう先にゲストハウスに戻ることにする。  蚊帳を張った湿った寝台の上には、ちびた鉛筆と大学ノート、 幾十冊かの書物が乱雑に散らばっていた。  さて、とわたしは黄色のサングラスをかけているため、小便 色にみえる蚊帳をめくって、ノートの一冊をおもむろに取り上 げる。黄色くみえる紙には、こう書かれている。  ――汗がとめどなく流れます。外へでて狭い部屋に戻ると、 内部がことのほかひっそりと暗く感じられるのは毎日のことで す。それはぼくにアンコールワットの遺跡を思い出させます。  強烈な陽射しは人間の持つ欲求として、確かな暗闇を同時的 に求めさせてしまうものかもしれません。ぼくは遺跡の重い時 代を背負った確かな石の冷たさを、今、掌にしっかりと記憶し ています。 ………  以下ノートのメモ、2002年7月3日付けの文章においては、筆 跡著しく乱れ、判読不能のため一部伏字にて転載。  また、同月12日付けのものについては、筆跡にまったく乱れ は見られず、同一人物の手によるものだとはとても思えない。  筆者は上記二点の明記を肝要だと判断す。 ……… 03 jul 2002 夕刻二十分間のスコール  カラマーゾフは、淫蕩な快楽<sladostrastie>、 快感<sladost'>、享楽<naslazhdenie>、それら全てにおい て甘い物<sladokoe>という言葉に繋がって■■ことを意識 して再読すること。  残虐な■殺から神の不在までは一直線に「甘い物」すなわち 「スイーツ」で繋がっている。  ①イワンがリーザについ■述べたことを脳髄に明記すること!  イワンはこういったのだ。 「まだ十六にもならないだろうに、もう自分を差し出してきや がる!」  文字通り吐き捨てるような言葉の裏側には、自身への軽蔑が ある。ペドフィ■アックな欲望を秘める自身への恐怖の裏返し。 「私」というものは、「いつでも」外側にあるものなのだ!  ②残虐な幼児殺しを行うトルコ人の描写をふたたび記憶に刻 み付けること!  ――トルコ人たちが震える母親が抱く赤ん坊をあやして笑わ せる。赤ん坊がきゃっきゃっと笑いながらピストルに手を伸ば した瞬間になってようやく、トルコ人は淫蕩な貪るような微笑 を泛べ、容赦■く幼児の顔を吹き飛ばすのだ。木っ端微塵に吹 き飛ぶ幼児の頭部。  このプノンペンには、再読の際注意すべきカラマーゾフの全 てがある。最後の一滴まで啜りあげ、舐めあげる貪欲な快楽の 不快。  ①プノンペン北地区、および63ストリート、■1ストリートの 幼児売春■の実態と悲■。  北地区までライトバンをつかったバスを走らせていた日本人 の男は、けっして悪い人間ではなかった。むしろ良い人間だと いえた。しかし彼はペドフィリアだ。 「わたしが二十歳ぐらいの女を見たとするでしょう。それは、 おそらくあなたにとっては、ちょうどおばあちゃんを見たのと 同じ気分だろうと思います。まったく性的な昂揚をもたらしま せん」  ②キリングフィールドと呼ばれる虐殺現場に行った際、陰険 な眼つきをしたガイドの男の言葉および表情。  男は一本の樹木をぼくに指し示した。幹の一部、腰の高さに 歪んだ金属の板がめり込むよ■に留められている。 「この金属に、赤ん坊の頭を打ちつけて、処分しました」  彼は薄ら笑いを泛べて満足そうに『処分』という言葉を使っ た! 薄ら笑いを泛べながらだ! 舌なめずりでもしそうな淫 乱なようすで! 12 jul 2002 夕刻二十分余りのスコール  アンコールワット遺跡群は、外国人旅行者に人気があり観光 客が多い。するとその観光客を目当てに、現地の人が商売をす るようになるのは当然の成り行きだ。  絵葉書や民芸品を売り歩く子どもたち、簡易な食べ物や冷た い飲み物を売る頼りない屋台、バイクを使ってタクシー業をす る人やもぐりの観光ガイドなど。  彼らの中には英語や日本語を巧みに操り、法外な値段をふっ かける人たちが多い。それは確かなのだが、逆にまったく素朴 な人たちもたくさんいるのだ。そのため旅行者は彼らに対して 無下にも邪険にも出来ない。 <A 二人称、仮定法現在>  たとえば、あなたが遺跡の中をうろうろと歩いていると、し ばしば「ハロー」と声をかけられるはずだ。  振り向くとその声の持ち主は、屈託ない笑顔をした子どもだ ったとしよう。 「ハロー、どこからきたの?」「いつまで居る?」などと問わ れるままに、あなたは一つずつ丁寧に答えていく。そして、あ なた自身も慣れない英語を使って、彼の名前を尋ねたり、年齢 を尋ねたりするだろう。つっかえたり、勘違いしあったりしな がら、そのたびごとに二人はキラキラと笑いあうだろう。なぜ なら、上手く会話の繋がらないもどかしさすら、二人にとって は、楽しい出来事の一つだからだ。間違いを共有し併せ持つ感 覚や、それをゆるしあうことは、普段なかなか出来ない貴重な 体験だと感じられる。「わたしたちは同じだ」という感覚があ なたを幸せな気持ちにさせるはずだ。  そのうちに彼は遺跡にまつわる話を始めてくれるかもしれな い。あなたはなんて親切な子どもだろうと感じ、こんな風に現 地の子どもたちと知り合える機会こそが、旅の楽しみなのだ、 そう思い胸の内から沸々と嬉しい気持ちが込み上げ湧き上がっ てくるのを感じるだろう。  しかし子どもに手を引かれ、その掌が赤茶色のラテライトの 土に汚れていることに気づいて初めて、あなたは彼の服装のみ すぼらしさに、思わずはッとしてしまうのだ。そして、あなた 自身さえも気づかないこころの奥底で、彼に優越する気持ちと、 そんなことを感じてしまう自身への罪悪感とが綯い交ぜになっ た妙な気分がわだかまりはじめる。何かおかしい。あなたはそ う思うだろう。  日本人であるあなたは、貧しさを目撃することに実は慣れて はいないのだ。テレビの画面越しに眺めてきた幾千の貧しさの すべては、実感を伴って迫ってくるものではなかったのだ。そ の事実をあなたに悟らせるまで、そう時間は掛からない。なぜ なら、架空のものだった貧しさは、いま現実にあなたの手をし っかりと握っているからだ。 「チッケン ファイト」  彼があなたを見上げていう。指差す先を見ると、『闘鶏のレ リーフ』が刻まれている。  あなたは先ほどまでの笑顔が作れない。最前まであった確か な親密感が遠ざかってしまっていることに気づく。けれども彼 は屈託なくあなたに笑いかけ続ける。  さて、あなたは二重になった回廊を彼に手を引かれて廻り終 えた。そこで、はにかみながら彼はこういうだろう。実に明瞭 な発音で、これまでになく流暢な抑揚をつけて、こう言葉を投 げかけてくるだろう。 「ぼくは、学校に行きたい。けれども、学校に行くお金がない。 ガイド料として少しばかりのお金をもらえないだろうか」  あなたはとてもがっかりするかもしれない。あなたを喜ばせ たその笑顔も、その言葉のやり取りも、全ては商売なのだとい うことにこそ、がっかりしてしまうだろう。  しかし、しかしだ。ここが一番肝心なところなのだが、あな たは実はほっとしてもいるのだ。安堵しているのだ。あなたが 貧しさに対面した際、そこで抱いた罪悪感ないし疚しさが、明 確に正当化され、より確実な位置で「私たちは同じだ」と認識 することが出来るからだ。  あなたは、がっかりした顔を少しは演技するかもしれない。 本当の友達になれたはずなのにとでもいわんばかりの顔を無理 に拵えるかもしれない。幾ばくかの金を少年に手渡すとき、彼 の掌はあなたにとって美しいものだろうか?  次の遺跡でも、あなたは別の少年に「ハロー」と声をかけら れるはずだ。そのとき、いったいあなたはどうするだろう。  完全に彼を無視するか、あるいはそっけなく眼もまともにあ わせずにハローと低い声で呟くのじゃないだろうか。  その瞬間あなたのこころに聞こえる自身の声は、あなたにこ う叫ぶだろう。  ――わたしは賢くなった! もうだまされない!  しかし、あなたは本当に「賢く」なったのだろうか? <B 一人称、仮定法過去>  シュムリアップ2日目の朝、アンコールワットの近くの屋台 で食事を取っていると、一人の少女が例によって土産物を売ろ うと近づいてきた。ぼくはにっこり笑いながら彼女が土産物を すすめる前に声をかけた。 「こんにちは、絵葉書はいらないよー」  すると彼女は屈託無くけらけらと笑い、 「いらないじゃない!!」  と、片言の日本語で答え、絵葉書を取り出そうとする。 「ほんとにいらないよー」 「いらないじゃない! 一ドル!」  それを何十回となく繰り返すうちに、何だか変におかしくな って、気付くと二人、げらげら笑っていた。ぼくが名前を尋ね ると、 「私、名前、いらないじゃない、です」  と答える。 「そっか、いらないじゃないちゃんか、じゃあぼくは、いらな いって名前なんだ?」  そんなやり取りをしてまた笑う。  結局、ぼくは絵葉書を買わなかったのだが――もちろん一ド ルが惜しかったわけではなく、そのやり取りの中で買ってしま うと、なぜか全てが壊れてしまいそうだったから――、食事も 終わり、そろそろ行くよと立ち上がると、また名前を尋ねられ た。  ぼくは笑いながら、自分を指差し 「ぼく、名前、いらない、です」  彼女の話し方を真似てカタコトの日本語で答えた。  それを聞くと彼女は大きく首を振って、 「私、名前、リー、です。あなた、名前、何?」  ああ、そういう事かと本当の名前を言うと、にっこり笑って ぼくの名前をなんども繰り返す。  そして彼女の鞄の中から売り物の腕輪を取り出し、ぼくの手 首にはめてくれた。プレゼントね、また話しをしようねと言い ながら。ぼくは必ず来る約束をして、バイバイまたね! と手 を振って別れた。  しかし、気になってその日の夕方も、次の日も探したが結局、 リーは見つからなかった。 今、ペンを握る右手にはリーのプレゼントしてくれた、竹でで きた腕輪が涼しげにはまっている。 ………  わたしは、この部屋に誰かが忍び込んでいることを彼に知ら せるために、オペラグラスと、黄色いサングラス、煙草の吸殻 を放置する。  おそらく彼はこういうのだ。 「なんだかよく分からない感じなんですけど、ちょっと怖い感 じです」
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