純文学小説投稿サイト 『L.H.O.O.Q.』 内田 傾 著
純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号002 『L.H.O.O.Q.』        1  去年の今頃、きれいな女の人と桜を見にでかけた。  僕らはその場では梶井についてはひとことも話さなかった。けれども僕は、樹木の根方のほうばかり眺めて歩いていたし、彼女のほうでも、どうやら僕と同じことを考え、行動しているように思われた。それはあたりに溢れる人々の幸福を、無闇に凝視しないための実際的な目的のために是非とも必要なことであったが、同時にそれだけのためと言い切れる種類のものでもなかった。ふいに酒宴を楽しむ人間の不用意で真赤な、怖ろしい視線にカチ合うようなことも、また間々あった。  僕らは伏し目勝ちに歩き続け、こころを決めずには桜の花を見上げる気持ちにはなれなかった。したがって僕は、しぜん踏みしだかれて穢れた花弁を見つめる進み行きともなった。僕はそれを間違いなくきれいだと感じ、それをなんとかして彼女に伝えたいと希望した。けれども僕の中には、彼女にその気持ちを言い出すためのきっかけが見つからなかったし、語りだす際に必要な最適の言葉をも持たなかった。そうやって逡巡していると、ふいに「勇気」などという忘れかけていた言葉が、一瞬、頭を過ぎったが、結局、僕は口を開かなかった。  万が一にも彼女が自分自身を踏みしだかれた花弁と重ねて、あの出来事に思い至るとすれば、それは彼女の責任ではなく、僕の責任だと思われた。おそらく彼女にとっての言葉は、一段と強いもので「踏み躙られた」と変わるのではないか。僕はそれを怖れた。  僕はまた、こういった何気ない言葉にいちいち丁寧に躓いて、戸惑いを覚えて虚空を手繰り寄せることこそが、彼女に対しての、また関係というものに対しての、重大な罪なのだと意識されたのだった。  僕は彼女に日常の会話をせがんだ。つま先を見つめながら歩く彼女は、こころなしか、花弁を踏むことを避けているようだった。彼女の言葉は、彼女の生活についての細々としたことであって、またそこで拾ったとても小さな彼女の感動のことなどについてだった。彼女の夫のことや、あの出来事については、慎重に言葉を選んで、近づかないようにしているらしかった。  僕は彼女の生活についての入り組んだ細部に耳を傾けながらも、しぜん自身の意識がある文章に流れ出してしまい、せき止め得ないそれを、とどめておくことができないのを感じた。  ――サドは作品を結晶させない。数多くの彼の著作は理解の道具なのだ。ルネは「レヴォリューション」という言葉は〔革命ではなく〕天文学者たちの意味〔公転〕に解さなければならないことを確認していた。シャールにとって人間は、固定した天体ではない。人間は動き、自分自身と等しいものではないのだ。という、西永良成の言葉だった。           2  繁華街で電車をおり、彼女と食事をともにした。彼女が時間を気にするようすだったので、僕は身内から突然訳のわからない感情が溢れ出し、そのため食事に誘ったのだった。彼女は力なく頷いた。  海鮮居酒屋は、値の張らない旨い魚を出すということで、このあたりでは繁盛している店であった。しかし商いがはじまったばかりということもあってか、いつも馴染みの客が大勢押し寄せ大盛況な店内は、しんと閑散としていた。卓上には、あん肝、生牡蠣、タラの白子、アジの刺身などが並んだ。殻つきの生牡蠣の薬味、紅葉おろしと青ねぎが、酔いで滲んだ眼に鮮やかに映った。しかしどれも季節を過ぎたものなのだった。  笑いの種子が、ここにあると思われた。芽を出し花を咲かせる頃には、僕らはもう年寄りになっているはずだった。せっかく咲いた花を、愛でる心は既に枯れているだろうと思われた。笑いをこらえて、神妙な顔を無理に拵えて生きていく僕らは、物語の脇役だった。吹きだしてまう権利など僕らにはなかった。  彼女は食事を終えると、内側から突き崩されるれるように、疲れた表情をみせ、眠り込んでしまった。  青白い頬や長い睫の儚さが、彼女の全てを表しているようだった。僕はそれを愛しく感じると同時に、暴力的に破壊してしまいたいのだった。  あの出来事に、また、再度、知らず知らず引き寄せられていった。三ヶ月前のあの日、彼女はこういったのだった。  ――子供ができたみたいなんです。そして、私は夫とはそういった行為は何年もしていませんので、間違いなくあなたの子供です。こういったことの責任は全て私にありますが――しかし、どうしていいものか分かりませんので、あなたにお話したほうが良いと思いました。私はどうやらガタガタになっているようです。夫の話をあなたにするのは初めてですが、私は本心を言うと、あの人と生きていくことはもう出来ません。そう思います。あなたと一緒にこの子供を育てて生きたいと思っています。しかし、――しかし、あなたはまだ若い方ですし、将来のことも、生活のこともあります。とにかく一度しっかりお話しなければならないと思いました。  僕は彼女を揺り起こした。驚いて眼を開いた彼女は、「あなた?」と問いかけて、僕を見つめた。僕はその問いかけの向かう先が、彼女の夫なのか、ぼく自身なのか判断がつかなかった。  僕らは彼女の最寄の駅まで電車に乗って行き、プラットフォームで別れた。彼女は夢の中の続きのような声で、「また連絡します」と言った。けれども、それから連絡は、もう、なかった。        3  今日、絵葉書が届いた。満開のソメイヨシノがゆるい風に花弁を散らしている絵葉書だった。彼女と連絡が取れなくなって、ちょうど一年がたっていた。繊細な文字で、これだけが記してあった。急いで消印を調べると、昨日、十四日、京都府京田辺市となっていた。      「15 / Apr / 2010       誕生日おめでとう。       風の強い日、古い街への旅先にて       さくら、もう終わりましたね。                 L.H.O.O.Q.より」  L.H.O.O.Q. というのは、たしか ” Elle a chaud au cul ” の単なる駄洒落だった。フランス語で「彼女はお尻が熱い」。ようするに、欲情しているとかそのような意味をあらわす。  エルアシェオオキュ  欲情とは遠く離れた場所で、 L.H.O.O.Q. になぜか欲情を掻き立てられて、僕はその絵葉書を幾度も裏返しては、また裏返した。  僕は彼女の些細な意地悪と僕自身の厭な臭いのする欲情が、堪らなく、憎らしかった。  そして、僕はパソコンの前に背をしっかり伸ばして坐り、この文章を書き始める。                                             <了>
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