純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号304 『憂心』  七月の長期休暇に入った大学は閑散としていた。隆が教員室から出るとイスラムのお祈りの時間を告げるアザーンが耳の鼓膜を強く叩いた。一緒に勉強していた学生が隆の後ろを付いて部屋から出てくると、隆は錠を閉めた。  学生は中華系の女の子でシティと言った。キリシタンの子だった。中国人によく見られる丸い頬を持った子だった。目の小ささは自分でもよく自虐を込めて言っていた。ただそれは横長の切れ目でなく、小さくても木の実のようにくりりとしていて、丸い頬は赤ん坊のような印象を隆に与えた。 「そういえば僕、今朝変な夢を見たんだ」 「夢?」 「僕が学生になってて、一年生の子達と海へ遊びに行く夢」 「先生、学生みたいだから」  キャンバスにアザーンが響く中、歩きながらシティは笑っていた。そしてまた、思いついたように隆に訊いた。 「先生は仏教の歌を歌えるの?」 「お経のこと? うん、うたえる。ずっとしてないけどまだ覚えてる。でも、お経をうたえる日本人はあまり多くないと思う。シティは覚えてるの?」  シティは元々仏教徒だった。しかし、高校生の時に、親の反対を押し切って改宗した。 「覚えてないよ。歌わなかったから。私は真面目じゃないから。先生は真面目だね」 「僕も真面目じゃないよ。小学生の時、怖い先生に怒られたくなかったから、仏壇に一生懸命お祈りしてただけ」  そう言うとシティは笑っていた。  最大のイスラム国家であるインドネシア。隆のいるスマトラ島は古くから大陸の文化がマレー半島より流れ込んでくる場所であり、都市には今も多くの文化が共存している。キリスト教もその一つで、他の土地よりもキリシタンが多く、ムスリムとキリシタンが共存している。仏教徒もいるが、そのほとんどは中華系だった。  人々は中華系の人を中国人と言う。バタック人、ジャワ人、マラユ人と呼ぶのと同じように中国人と呼ぶ。ただ日本語の「中国人」は中国本土に住んでいる人のことを示すため、隆は日本語では「中華系」と言うように教えた。  この日までの一か月、隆はシティと二人で週末に迎えた日本への留学試験対策の勉強をしていた。インドネシアから日本へ行ける学生はほとんどいない。日本に行けるインドネシア人がまず少ない。  隆はここに来てアジアにおける日本を知ったが、それは同時に、アジアにおける日本、中国、韓国という東アジアの三国の見え様を知ることでもあった。中国、韓国から見ればライバルである日本。他の東南アジアの国々から見れば、その三国は坂の上の雲とも言える。地図では上に位置する三国の並びが大きく棚引いていて、どこの国も上の世界へ行くことを目指している。  アジアだけでなく、世界的に大きく経済を握っている中華系だが、中華系というだけで時にマジョリティの人種に一種嫌悪感を抱かれるのは日本だけのことではない。ここインドネシアでも中華系の人達は苛めの対象になることがある。隆のいる街でも中華系が経済を強く握っているため昔からよく反感を買われる。日本人と同じ北部モンゴロイドの白い肌は目立ち、女性は暴漢を受けることがある。  シティは一種、変わり種だった。隆が派遣された大学は国立の大学だった。普通、裕福な家庭の多い中華系は私立の大学に進む。国立の大学で中華系の姿を見掛けることは少ない。国立には国の支援で日本人教師が派遣されることがある。彼女は日本人教師が来るからという理由だけで国立大学に進んだ。改宗といい、あまり自信を持たない割にはそういった違いを諸共しない彼女の性格がよく分かる。  留学試験の勉強中、シティは街で開催されている日本祭に隆と行きたいと言った。他の先生達や学生達と会わない彼女との勉強の日々は隆にとっても気持ちのいい時間だった。隆もその日本祭にはまだ行っていなかった。試験が終わった翌日、二人は約束していた通り日本祭に出掛けた。彼女が家の車を運転して隆の下宿にまで迎えに来た。 「試験はどうだった?」 「うーん、分からない。どうかな、ダメかもしれない」 「大丈夫だよ、努力したから。あとは心配しないで結果を待つだけ」 「神様は私を選ばないかなぁ」  普段、大学に来る時は白い服の多い彼女だったが、この日は黒のティーシャツとジーンズを穿いていた。インドネシアに来てからは見なくなったサイズの大きい黒のティーシャツから伸びる白い腕がとても綺麗で、ハンドルを右左に忙しく回す彼女の腕を、隆は暫く助手席から眺めていた。  会場となっている広場はインドネシア語で「独立」を意味するムルデカ広場で、公園の中央にはステージが建てられており、その周りをテントが円く並べられていた。ステージでは日本武道のデモンストレーションが行なわれており、テントではそれぞれ日本の地方文化を紹介していた。  こういう機会がないとなかなか外国人の目から見る日本文化を知ることはできない。つい外国人の視線に同化して、隆が「おもしろいなぁ」とつぶやけば、シティが「先生、本当に日本人なの?」と笑った。  帰りも隆は彼女の車で下宿に戻った。顔を洗い、机の前に腰掛けパソコンを開くと急に疲労感に襲われた。耐えられず隆はそのままベッドの上で大の字になった。 「よくこんな僕が、海外の異文化の中で生活しているよ」  隆はふとそんな言葉を天井へ吐いた。  僕は今、多民族、多宗教国家にいる。宗教は、人が自分達を救うために作ったものだ。人を救うための宗教だが、それが違うだけで人は結婚することができない。神を信じていない僕は何を信じているのだろう。「縁」だろうか。大勢の人なんていらない。すれ違っていくだけの人なら、一々気を揉まなくていいじゃないか。本当に大切な人、一緒に旅ができる人、隣にいるだけで落ち着く人、早くそんな人が、一人欲しい。  隆の心はまだ四年前の学生時代と変わらずに日本の実家近くにある公園の林の中を走っていた。日本を出てから夜空を見上げて一人歩いていると時々思うことがあった。一人インドネシアにまで来たんだ。異文化の中で生活しているんだ。一人で歩くにしても、日本で歩いていた頃より格好がつくかな、と。しかしどこにいたとしても孤独の中にかっこよさは存在しない。  孤独を深めた大学院、研究生の日々に比べてインドネシアに来てからの数カ月は時間の経過が短くも長くも感じられ、充実していると言える。ただ忙しさから昔のように考えることを忘れていただけで、根本的解決にはなっていない。今の隆の正面には学生達がいるけれど、日本から付いてきた孤独が常に背後から覗いている。日本に帰ったら昔に戻る自分が想像できる。  暫くそのまま横になっているとズボンのポケットの中でケータイが鳴った。物憂く取り出してみるとシティからSMSが届いていた。彼女も家に着いた頃だった。 「先生、さっき車で私の白い服を見ましたか。なくしちゃったみたい」  白い服と言われてシティがどの服のことを言っているのか隆はすぐに分かった。それ程彼女のことをよく見ていた。ベッドの上で仰向けになりながら返信のSMSを打った。 「白い服? きょうは黒い服を着ていただけでしょ?」 「いいえ、お気に入りの白い服を持っていました。あーあ、なくしちゃったみたい。彼氏が買った服なのに。とても悲しい」  シティのSMSの顔文字が泣いている。隆はなんとか思い出そうとした。きょうのシティは確かに黒いティーシャツの姿だった。白い服は見なかった。持って行っていたとしても車からは出していないはずだ。  隆はもう一度返信のSMSを送った。 「公園に行った時、白い服は持っていなかったよ。大丈夫きっとどこかにある。だから、悲しまないで」 ★下点け★二〇一一年九月三〇日  「蝉」「ミチクサ」「焦燥」「階段」「偏頗」と、連作を続けて参りましたが本作「憂心」を以って最後となります。一年間、お付き合い頂き誠に有り難うございました。 ★下点け★しろくま
この文章の著作権は、執筆者である しろくま さんに帰属します。無断転載等を禁じます。