『風死す炎昼に馬鹿が笑う』 伊吹 理緒著  自宅を出ると――風が死んでいた。 「……」  あと数日もすれば九月に入るというのに燦々と差す太陽は未だ衰えを見せず、今日も今日とて精一杯に振り絞った熱い陽光を地に落としていた。 「……風死すか」  しかしたとえ生きていたとしても直向きな太陽の情熱は彼女をも焦がし、きっと熱いダンスでこの列島ホールを焼いていた事だろう。 「……」  右腕の時計が十三時一分と刻んでいる。  自宅を出てからまだ一分程しか経っていないのに既に私の項と額の表面には汗が粒を作りだし、着流している着物の中が体温と太陽熱により蒸されていた。  私は遅滞な速度で、自宅近くにある墓地の細いわき道を歩く。  歩く度、ざっ、ざっ、と、雪駄が乾いた音を経て加熱されたアスファルトの地面に擦れた。 「……」  ざっ、ざっ。 「ざっざっ」  それは少年の口で擬音となる。 「ざっざっ。……風情だね」  風情だろうか。いや、風情なのだろう。ああ、風情だ。そう思うなら。 「……少年、そんな所で寝転がっていては、道行く人の迷惑だぞ?」  暑さに茹だって気付かなかったが、私はいつの間にかわき道を抜けて墓地の本道に出ていた。本道と言っても然程幅のある道ではないのでその中心に大の字で寝転がられると迷惑至極。 「迷惑かな? ここ、あまり人来ないけど」  確かに人通りは少ない。この本道は私の居る側の墓地とその向かいの墓地に挟まれている。陰気、と言えば罰当たり者だと何処かの爺さん婆さんに叱咤されるであろうが……仕方ない、誰も好き好んで墓地に挟まれた細道など通りたくは無いのだ。 「人なら此処にいる」  好んでこの道を使う者。 「あ、そうか」  故に迷惑至極。 「少年、君は何故ここで寝転ぶ?」 「寝転がっているわけじゃない」 「寝転がっているではないか」  気持ち良さそうに真青な天を仰いで。 「倒れているのだ」  こちらを見もしない。 「同じだろう」  違いが有るとすればそこに自分の意志が有るか否か。しかしどちらにせよ道を塞がれた他者からすれば同じ事。 「塞いでないよ、僕の左右には十分な幅がある、二輪や歩行者は通れるだろう?」 「しかし車は通れん」  只でさえ車が通るには心許無い細道だ。二台がすれ違うのにも徐行或いは一時停止しなければならない場所の真ん中を占領するなど言語道断。 「それで良いんだ。これは八つ当たりだから」 「八つ当たり? 車に対してか?」 「ああ」  どこからか蝉の鳴き声が聞こえる。 「君は車が憎いのか?」 「別に憎くは無い。ただ駄々をこねてるだけだ」 「駄々? 八つ当たりではないのか? 意味がわからんな……何があった?」 「車に轢かれた」  蝉は、その命の声を静かに止めた。 「それで倒れているのか。救急車を呼ぼうか?」  見た所外傷は無さそうだ。血も流れてはいないし、四肢も定められた位置を確りと守っている。だが交通事故の場合、外の傷より内の傷の方が怖い。内臓を痛めてるかも知れないし、もしかしたら頭を打ってるかも知れない。素人目に判断出来ない事は専門家に頼むべきだろう。 「いや、いいよ。どこも痛くないし」 「今は痛くなくても後々どこかが痛み出すかも知れないぞ?」  むち打ちなどは症状が遅れて出て来る事が多い。むち打ち程度ならまだ良いが、頭を打っているなら脳内出血している可能性だって有る。 「ううん、大丈夫だと思うけどね。頭も打ってないし、そんなに強い衝撃じゃなかったから」 「強情だな」 「いや、我侭なのだ」 「同じだろう」 「ちょっと違う」  私の額から一滴の雫が地に落ちた。……暑い。 「それで、轢いた奴はどこへ行った? 逃げられたか?」 「うん」  だろうな。そうでなければ少年がここに一人倒れているわけが無い。助けを呼びに行っているのかも知れないが、被害者が、逃げられた、と云う認識をしているのならそうなのだろう。 「それで腹が立って駄々をこねているわけか」 「うん」  私は少年の横にしゃがみ込み、顔を覗いた。 「……何だよ、おっさんは野次馬か?」  少年はそこで漸く私を見た。 「騒いでもいないし、野次も飛ばして無い」 「じゃあ僕に興味があるのか?」 「誤解されるような言い方だな。別に興味など無いよ、ただ車に轢かれて駄々をこねている少年の表情が気になっただけだ」 「興味があるんじゃないか」 「好奇心だ」 「同じだろう」 「ちょっと違う」  どこかの蝉は再唱する。 「少年、君は何歳だ? 少年だと思っていたが、近くで見ると少し大人びた顔をしているな」 「九月の一日で十七歳だ」 「……少年ではなく青年だったか。これは失礼」 「別にいいよ」  十七歳。高校二年生。夏休みも終わりの頃に轢き逃げに合うとは何とも気の毒な事だな。 「うん? 九月一日? もう直ぐではないか」 「ああ、あと四日」  つくづく気の毒な事だ。これでもし身体に異変が出たら祝いどころではない。 「……やはり救急車を呼ぼう。きちんと検査してもらって無事に誕生日を迎えろ」  一年に一回の大切な記念日だ。どこぞの人でなしが崩して良いものじゃない。 「だからなんとも無いから大丈夫だって。問題なく迎えられるよ」 「本当に強情な奴だな」 「違う、我侭なのだ」 「わかったわかった。同じ事を繰り返すな」 「おっさんが悪い」  何故私が悪者にされなければならないのかわからないが、少年――もとい青年に病院に行く意思が無いのなら仕方ない。本当は無理強いしてでも連れて行くべきだろうが、私はこの青年を御す事は出来ない、と、そんな気がする。 「おっさんはいくつなんだ?」  青年はいつの間にか、また天を仰いでいた。 「歳か? 私は三十から二つ数えたところだ」 「三十二歳か。僕の倍だな。やっぱりおっさんだ」 「ああ、おっさんだ」 「そのおっさんは今何をしているんだ?」 「私は小説家を生業としている」 「……生業の話しじゃないよ。おっさんは今ここで何をしているかって聞いたんだ。おっさんの生業なんか興味ない」  憎たらしい奴め。それならそうと言え、わかり難い。 「買い出しの途中だ。娘に頼まれてな」  そう言って私は青年の頭が向いている道の先、目的地の方向に目配せした。したが、青年は相変わらず天を仰いだまま。 「娘がいるのか。いくつだ?」 「七歳だ」 「そうか」 「そうだ」  可愛い盛り、と誰しもが言う。毎回毎回会う度会う度繰り返し繰り返し。長い盛りだ。いつもこき使われている父としては憎たらしいだけである。 「何買って来いって?」 「プリンだ」 「……プッチンか?」 「……プッチンだ」  七歳の小娘に顎で使われる哀れな父。