純文学小説投稿サイト 『聖者の夜』 マライヤ 著
純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号298 『聖者の夜』 「悉達多は王城を忍び出た後六年の間修行した。六年の間苦行した所以は、勿論王城の生活の豪奢を極めていた結果であろう。その証拠にはナザレの大工の子は、四十日の断食しかしなかったようである」                     芥川龍之介「侏儒の言葉」より。  一、自己の重要性に関する誇大な感覚。 一、限りない成功、権力、才気、美しさ、理想的な愛の空想にとらわれている。 一、共感の欠如。他人の気持ち及び欲求を認識しようとしない、またはそれに気付こうとしない。         DSM―「自己愛性パーソナリティ障害」診断項目より。  地獄の色だ。彼は卵とトマトの混濁液に打ちのめされた。 彼はレストランの厨房でアルバイトをしている。この仕事を初めて一月目、ひとり、狭い厨房を任された。営業時間が終わり、決められた手順に則って、溶き卵、刻んだトマト、トマトピューレを、どぼり、黴に汚れた排水溜めにぶちまけた。 黄色く濁った汚水の中に、刻んだトマトが、ぶつぶつと病気のように、赤く浮かんだ。トマトピューレは、生臭い膿と混じる血のようだ。浮いたトマトがぞわりと動いた。 彼の心は弱っていた。初冬の寒さが、まだ準備の出来ていない緩んだ肉体に毒のようにしみ込むと、胃の底の、生活の灰に埋もれた焦燥の火が立ち現れてくる。失敗者の炭火。若い彼にはそれが何より辛かった  例えば頬を殴られるとき、一発目よりは二発目の方が平気である。三度目には殴り返すことを考える。しかし神経の辛さは、かえって重なる感触を何層にも鋭くするものだ。弱りきった彼は、卵とトマトの強烈な印象にかなわなかった。彼は額を手のひらで覆って、回復を待った。 「………」  厨房での水仕事だから、仕事が終わる頃には、制服もその下も濡れてしまう。百貨店の中の狭い店で更衣室は無く、ホールは外に面しているので、厨房に荷物を持ち込んで、そこで着替えた。乾いた着替えのシャツが暖かい。パンツもジーンズも乾いている。ベルトの堅いのが有り難い。濡れた皮膚がこんなふうに助かって、子供のように、無邪気に嬉しかった。上には毛玉の浮いたパーカーを着て、大きな黒いジャンパーに袖を通す。中学生のときに、剣道部で買ったもので、胴の上から着られるものだから、膝まですっぽり隠れてしまう。腰の紐を搾って、ファスナーを閉じると、不思議に心強い。ナチスの、分厚いコートみたいだ。  彼は店を出た。自転車は店の裏手に止めてある。MP3プレイヤーでピアノを聴きながら(アニソンを受け付けないほど苦しいときには、ピアノ曲を選ぶのが、間違いが無い)重いペダルを踏んだ。帰り道を思うと、いつもよりずっと、遠いような気がした。  今朝よりも、寒い。銀杏並木のまだ青い葉が、ほこり臭い北風にふかれてざあと揺れた。ほこりの臭いは、椋鳥の糞の臭いだった。椋鳥の群は、空を黒々と飛んでいるはずだが、夜空でよく見えなかった。車の音をかき消すぐらいにジャアジャアとやかましい鳴き声は、イヤホンの向こうにあって、殆ど聞こえない。  そうだ、録音したラジオを聴こうか、どうせ耳には入ってこないけれど。かといって、考えることも、ありはしない。いや。 「疲れたんだね。ゆっくり休んでいいよ」 ――でも、自転車こがなきゃ、帰れないよ。 「ね、ゆっくり休んでいいよ」 ――………。  彼女はピンク色の目の細かいセーターを着ている。照明が、起毛した毛糸を白く光らせる。彼女の胸に、頬を当てたら、どのくらい柔らかいだろう。 「いいよ」  彼の安住の地である空想までが、死に物狂いで救いを求めている。彼は自転車をこいだ。  駅前を抜けて、城の堀沿いの遊歩道に入った。お堀の岸には、まばらな木々を隔ててサーチライトが設置してあり、お堀の緑色の水と、その向こうの高い石垣を照らしている。その反対側には、日本庭園の漆喰壁が街灯に照らされて、曲がりくねった道に沿って、どこまでも続いていた。  しばらくすると、道に人影が二つ見えた。こちらに手を振って、何か言った。彼はイヤホンを外して、二人の側に自転車を止めた。初老の夫婦だった。  彼が自転車を降りると、 「わたしらぁね、A町の方に住んどんやけどね」  男はいきなりそう言った。男の固そうな灰色の髭の下の、半分抜け落ちた歯の隙間から声が出た。 「友達にね、車ん乗せて貰って、ここまで来たんやけどね、途中で喧嘩して、ほんで降ろされてしもたんやわ。酷い奴でね、こっちは財布も持ってへんのに、降ろされてもて、酷い奴でほんまに、こっから歩いて帰らなあかんなってね、ほんで、F町の方からあっち、S町の方通って、ここまでずうっと、ねえ、歩いてきたんやけどね、もう足が棒んなってしもて、こんな寒いし、家内もしんどい言うて、ほんまどうしようもないんでね。ほんで、向こうのH駅から、帰れるから、悪いけど、電車賃だけでもねえ、貸してもらえへんかな」  男は言葉を止めず最後まで言い切った。 男の顔は、屋内で暮らしているというのが嘘だとわかるぐらいに、垢が黒々と沈着していて、街灯の光にぎらついていた。後ろで、無表情とも見せないぐらいに、なんとなくそこに居て彼を見ている女の頬も、垢じみて赤黒く、薄いピンク色のジャケットは、灰色にくすんでいた。 「A町までですか、だいたいいくら程ですか」 「そうやねえ、二人で千円あったら、足りるかなあ」  彼は素直にそれだけ、差し出した。 「これで、よければ」  嘘だと分かっていることに、彼は不思議な喜びを感じた。悲しい話を読んだときの、感覚に似ていた。不用心な感傷は、弱った彼の心を容易に侵食した。すっと背筋が伸びた。 (ノブレス・オブリージュ)  こんな言葉さえ浮かんだ。  彼の差し出した金を、男は慎重な目で受け取った。 「ありがとうねえ。あと、」  男は、あと、の続きは目を反らした。 「喉がカラカラで、何か、飲み物でも買えたらね。あと、パンか何か食べられたら。もう、小銭でええんでね」  彼は財布の小銭入れを開いたが、三百円ほどしか入っていなかったので、残った千円札一枚を抜いて、差し出した。男が受け取った。ビジネスマンの目だ。この鋭さすら何か彼の琴線に触れた。つまり彼はこの不思議な取引にただただ感じ入っていた。 「ほんとうに、ありがとうねえ。本当にどうしようかと思っとったとこでね。ほんまに」  彼は感極まってしまって、男の寒さで前に浮いた右手を、ぎゅっと両手で掴んだ。 「頑張ってくださいね!」  男の手は、垢に覆われてすべすべと柔らかかった。男は穏やかな唇をいっそう広げて、女は一歩前に進み出、男の隣に並んだ。笑っている。手を離すと、男が言った。 「あなたは、心の優しい人だ」  彼はゆるゆると自転車に戻る。きれいに寸劇が、終わるように思われた。 「また、お礼をしたいからねえ、」  男がまた、目を反らした。 「携帯電話の番号を、訊いてもええかな」  背中がぞっとした。芝居の幕が下りたように、急に街の音が聞こえ始めた。 「携帯電話は、持ってきていないので、番号、覚えてないんです」 「そうか、そうだわなあ。いや、ありがとう。助かりました」  彼は申し訳なさそうに頭を下げて、自転車に乗り、そそくさと逃げ出した。曲がりくねった道を、右に、左に。ホームレスの影は見えなくなった。  彼は、自転車のライトが照らす道を睨みつけた。 (ああ、ああ、あああああああああああああああああ!!!)  炭酸飲料の泡みたいに、悲鳴が重ねて頭の中で沸き起こった。ああ、ああ。 (どうしようも無かったんだ!! 俺はどうしようも無かった!!!) (なぜこんなに苦しいのか、分からない。そうだ、あのふたりに金を渡してはいけなかったのだ。しかし、渡さざるを得なかった。肩に提げたバッグの財布、残金は四百円ほどか)  彼は人一倍のケチで、しかし浪費家で、おまけに金はまるで無かった。 (しかし家に帰れば夕食がある。暖かい布団がある。あのふたりには、雨露をしのぐ屋根もない。さっきの道を少し戻れば、チェーン店の牛丼屋がある。二千円あれば、結構な贅沢が出来るはずだ。汚い服でふたり、のそりと店に入り、牛丼の大盛り、漬け物、生卵、豚汁、食券を買って店員に手渡し、暖かいお茶を何倍もお代わりして、 「ああいう、甘っちょろいんがええ狙い目や。アホには税金を取らなあかん。税務署の代わりにわしらが仕事しちゃっとるわけや」  心に降り積もった黒い雪を、アホ面の俺のお面をチリトリにしてどさりと払い、運ばれてきたごちそうを、ゆっくり味わってたらふく食えば、芯から暖かくなるだろう。それで良いのだ、美しいじゃないか。それに、自分を実際以上に軽んじることは、必ずしも良いことじゃあない。俺はケチだけれど、二千円ごときでどうこう言うような人間では無いんだ。それよりも恥が怖い。怖くて堪らない。恥。そうだ、恥だ。俺はとんでもないことをしたんだ。俺は何故あの男の手を握った) 「頑張ってくださいね!」 (あのときの俺は何者で、何をしたんだろう。彼は乞食だ。抜け目のない職業人だ。俺の愛情を、彼は半ば享受し、半ば軽蔑し、そして残りの半分で俺の財布を狙っていた。俺はというと、やはり博愛の一心では無かった。世界中の冷たいものを、みんな骨髄に注がれたような、彼らの不遇を目一杯哀れに思って、彼の手を握り、そして)  彼は、職場でのことを思い出した。 (生きることの苦しいことを、彼の手のひらに押し込めた!)  苦痛の輪郭が見えてくると、苦しみは胃からハンドルを支える肩に昇った。 (俺の手には、あの卵とトマトがへばりついていたのだ。二千円で、とんでもないものを押しつけてしまった!)  ここまで考えて、 (やはり二千円が惜しいのだ、この俗物め。ここまでの悩みは、すべて金を無くしたことに支えられているんじゃないか。お前はお前が俗物であるという事実からなんとか逃れようとして、虚構の苦しみを胃液から捻出したのだ)  こうも思った。 (ツァラトゥストラは、乞食を論じようともしなかった。ただただ、嫌悪して喚き散らした。「乞食だけはどうしようもない! 金をやるのもやらないのも不愉快だ」 若きボードレールは、乞食を殴り、殴られ、歯を折り、折られ、爪を剥がれて「これで君と僕とは同等者だ。君と僕の財布を共有する名誉を許してくれ賜え。そして僕の思想が理解できたなら、君の仲間にも同じようにするんだ」これは、にわか共産主義。気取るな! 馬鹿なら馬鹿なりに、黙って働け。いや、どちらにせよ、乞食との対面とは、あれは闘争ではないのか。俺は愚かなことをしてしまった。闘えば良かった!)  どうやって? (二人のそばで自転車を降りる。話を訊く。俺は毅然として、口を開く。 「これは、俺が自分で働いた金です。俺が働いている間、あなた方は何をしていましたか? 俺が皿を洗っている間、あなた方も皿を洗うべきだった」  愚かなことを考えたものだ。自分の出来ることが、すべての人が出来るのだと考えてはいけないのは、誰だって知っていることだ。俺は運が良かったのだ。皿を洗うのも、それを妨げるほど苦痛ではない。家から出ることすら出来ない人間もいるのに、俺は平気で街を闊歩する。うまいこと仕事を見つけて、働いて、得たお金で飯が食える。本も買える。しかし、誰もがそうではないのだ。俺が総理大臣になれないように、彼らは働けないのではないか。何をもってどの程度の快とするか、苦とするか、皆違っている。若さ、教育、資産、そういった外的な環境、更に、脳、神経、認知、そういった内的環境も、何もかも、平等ではない。俺は人に俺のようにあれと求められる筈はないだろう。大人しく、有り金差し出せ! お前は働ける人間だ)  そして大人しく、差し出した。無力な彼らへ、差し出した。持てる者にとって、平等主義とは、力が失われた未来への投資である。と、彼は思った。投資ではいけない。だから俺は人よりもより、失わなければならない! 「あなたはみんな、あげてしまうの?」 ――あげてしまうんだよ。  したり顔の横顔を妄想の少女に見られているように彼は思った。 「うそばっかり。通帳は人にあげないんだね。自転車は人にあげないんだね」 ――あげて何になるというのだ。 「もらった人が喜ぶよ」 ――俺が失う物の方がずっと多いじゃないか。俺は通帳と自転車がなければ生活が出来ないのだ。俺は何もかも白状してやる。全部やっちまって、俺には何があるのだ!  彼女はまっすぐ彼の目を見た。 「あなたに星が輝くでしょう」  ひとり恥ずかしくなってやめてしまった。彼は黙ってペダルをこいだ。自転車はギシギシいいながら進む。なんという長い帰り道だろうと思った。堀沿いの手すりはどこまでも木で出来ていて、連なる鉄の街灯の光は冷たく、アスファルトが体の下をゆっくり滑っていく。お堀の緑色が街灯に照らされて、コケむした石垣は、悪巧みのような密やかさで堀を塞いでいる。みんな昔の誰かが一から作ったものだ、そう考えると骨の髄からうんざりしてしまう。それにしても膝のだるさがどうしてこんなに悲しいのだろう。  彼はペダルをこいだ。しばらく進むと、道の先にでんと石垣が現れる。それを横切って、くの字の石垣を曲がると、お城と外堀の石垣と、せり出した木の枝に囲まれた暗い公園だ。屋根の付いたベンチにはホームレスが汚い毛布か新聞にくるまって寝ているだろう、冷えた苔の匂いがする公園の道を進み、赤い自転車は石垣の狭間からひゅるりと飛び出す。彼はやっと堀沿いの道を抜け出した。  ベニヤ板みたいに平凡な町だ。彼はまったく、何の言葉も頭に浮かべずに民家の間を走った。トタンの壁だ。すりガラスの窓だ。排水で湯気の立つ溝だ。ただ、耳たぶの冷たいことを思った。  堀沿いの道からかなり遠のいた頃、ひとつ目の信号にひっかかった。彼はクリーニング屋の脇にある、いつものコンクリートブロックに足を置いた。自転車を止めると、世間も地に足が着いたように見える。右に左に、車が通る。帰り道が遠く続いている。  信号が青に変わるのを待っている彼は普通の男である。  このあと交差点をいくつか渡ると、スーパーの横を通ることになっている。彼は立ち寄ってガムを買おうと思った。信号が青になって少し進んで、いつもの帰り道から右にそれ、また少し行くとスーパーに着く。彼は閉店間際の広い駐輪場に、自転車を止めた。  そこに、猫がいた。痩せた白黒のぶち猫が、ひっくり返ったゴミ箱を漁っていた。ひっくり返ったと言っても、転がり出たゴミは控えめなもので、通り道のじゃまにならない程度、直径七十センチほどの範囲に過ぎなかった。その横を人が通る、彼もそこを通って立ち止まった。寿司のパックがこぼれ出ていて、小さく残った酢飯が臭っている。その他に、焼き芋の皮やら、かじったたこ焼きやらが落ちていた。しかし様子のおかしいことに、猫はそれらの食べ物には向かわずに、何かのラップの端をしきりに舐めている。猫の毛並みのあちこちには、傷ついてできた凹みがあった。 (こいつは、目が見えていないのか)  いつまでも、いつまでも、小さな舌を伸ばして、ぺろり、ぺろり、なんの匂いがするのだろう、白く縮れたラップを舐めていた。 ――………。  今の彼には、乞食の二人と接したときのような、熱に浮かされたような高揚はなかった。仄かに沸いて出てきたのは、どこか犯罪的な、いたずら心のような気持ちだった。もちろんそれは、先ほどのような、心を一面に上書きするような大きなものではなくて、この青年の常に抱いている、何に対するでもない後ろめたさから、細く昇る煙のようなものだった。彼の心は暗いままである。焦燥の炭火は未だに胃を焼いている。しかし、その煙は彼の足首に少年の血を注いだようだった。  彼はスーパーに入ると、一直線に鮮魚コーナーに向かった。安くて、味付けのされていない、魚の切り身。すぐにそれを見つけて、ひとつ取ると、レジに向かった。レジに並んで、魚の切り身と、横の棚から取ったガムをレジ台に乗せて、彼は万引き犯のような気持ちで、店員の視線を気にしていた。 「百八十三円です」  彼は店から出た。  さっきから内や外を回って掃除しているおばさんに見られないように、彼はパックのラップを破った。生魚の臭いがむっとして、汁が垂れた。切り身を指でつまんで取り出し、ゆっくりとゴミ箱に近づいた。一メートル半ほど手前で足を止めて、彼は先にパックのゴミをゴミ箱に放り込んだ。店内を掃除のおばさんが通る。彼は膝の横に切り身を隠した。垂れた汁がジャンパーを汚した。猫は店に来たときと同じように、ラップを舐め続けている。  彼はこのときになってやっと、あの乞食とやりあったときと同じ種類の印象を、その場に抱いた。興奮はない。そういうことの当事者である、という自分を俯瞰で見るような意識が芽生えた。自分の立場が中年の男であることも、予備校生の青年であることも想像できた。いや、そう想像するような心持ちで、今の自分を捉えていた。 (失態をしてはいけない)  社会的な緊張が、彼によそよそしい演技をさせた。今の彼は、気まぐれな愛護者である。男らしく、ほらよと魚を放ってやるのだ。彼は森鴎外の、軍の少佐が鶏を飼う小説を思い出した。飄々として、涼しい男だ。畜生に、みじんの愛着もない。  しかし彼は慎重に、出来る限り猫を驚かせないように、魚を放った。逃げられるのが怖かった。切り身は猫の眼前に、ぱしゃりと落ちた。  猫はびくっと首を上げた。それから小さく鼻を動かしたのが、ひげを見て分かった。彼は猫を見ながら、自分の自転車のところまで後ろに歩いた。猫はまだ魚を食べない。彼はポケットからゆっくりとガムを取り出して、開けづらいな、というふうにセロファンを爪で何度かひっかいて見せた。猫に見せているわけではない。煌々と明るい店内にいる、掃除のおばさんや店員、それに今店から出てきたお婆さんに、見せたつもりだ。今、店員が自分を見たかも知れない。猫に餌をやってはいけないだろう。彼は不安の中で、猫を見守った。少佐の演技は続けているつもりである。いや、彼自身に演技の自覚は無い。彼は無意識のうちに、そのようにあるよう、追い込まれていた。歯がゆい気持ちで彼はガムを噛む。 (掃除のおばさんが今、もう一度俺を見なかったか)  そのときパクッ、と猫が切り身をくわえた。かと思うと、その重たい切り身を、痩せた体からは想像もつかなかった、強い首でぐいと振って、灰色の風のように身を翻した。塗れたラップを蹴飛ばして、赤い屋根と照明の下を飛び出し、横からの光で深い陰影のついたアスファルトを蹴り、真っ暗な路地へ飛び込んだ。灰色の塊はすぐに見えなくなった。 (あいつは目が見えたのか。それとも見えなくても、ああいうものなのか)  彼は自転車を押して歩道に出た。惚けた気持ちでしばらくそのまま歩き、何気なく、プッとまだ味のあるガムを道路に吐いてみた。彼の生まれて初めてすることだった。ぽとりと落ちた黄色いガムは、黒い地面に恐ろしく映えて見えた。くの字に折れて、よだれに濡れ光っている。彼はこのまま帰ろうと思った。 ――……。  彼はまたぎかけていた自転車を降り、急いでガムを拾い上げた。そして再び自転車に跨ると、包み紙でくるんでポケットにつっこんだ。 (俺はどうしようもなく、変わらずこうなのだな)彼はふとそう思った。  するとどうしたことだろう。彼の心に、予想もしなかった救いの徴が現れた。  彼は星粒のように胸の中にわき起こる快癒の粒が、まるで炭酸のようにさわさわと弾けるの感じた。  何がどうしたというのだろう。  彼の心は、この救いの正体も分からず戸惑いながらも、詩のようなこの流れを追っていた。その理由も分からない数多の傷の、ひとつひとつに染み込んで、胸を気球のように満たしていった、この恩寵の粒は、やがて疲れきっていた体の隅々まで、熱い血となって巡っていった。彼はその流れのひとつひとつを追うことさえできた。手が温かい、足が暖かい。頭は絹糸のように冴えている。潰れた紙袋のようだった胸の内が、どうしてここまで救われ得るのだろう。 ――そうだ、俺は若い男だったのだ!  こんな奇妙なことさえ彼は思い、自分の帰り道を見た。ここからはずっと坂道で、そこを登り終えて少し行ったところに家がある。彼はその先の空を見た。  星空だ。降るような星空が、坂の上の天幕にざあっと散りばめられている。  辺りの小さな家々が、電柱が、天動説の古い天球図の、宗教的な装飾に見えた。彼はペダルを踏んだ。自転車が動き出す。踏みごたえのあるペダルが頼もしい。このまま坂を越えて、星空に飛び込むのではないかと思った。星に囲まれて、癒えたばかり胸を気球のように膨らませて、宇宙を昇っていけるのではないか。市は足下に小さくあって、俺は俺でしかあり得なかったように、市はこのような市でしかあり得ないのだろう、そうお互いを認め合って、俺は空から市を、市は地球から俺を想うのではないだろうか。しかし星のなんと輝いて見えることだろう。宇宙のその場所に、その形、その色で、そのように燃えているのがはっきりと分かる。星は星の座標に。俺は俺の座標に。すべての星と自分が等価に思えた。ペダルをこぐ。坂を登る。それだけ星空が近づく。あと、少し。 「あなたに星が輝くでしょう」  彼の指とジャンパーは、グレープのガムと魚の臭いがする。  赤い自転車は、ぐんぐん夜道を登る。  やがて薄暗い道に小さくなった彼は、星の照らす坂の向こうへと消えていった。
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