純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号296 『われは――の子』  ある頃から、千代子の目にはうらみの粒が映るようになった。  眠ろうと目を閉じていると瞼に差す白黒の光の中に、別の点が混ざりこむ。ひやりと冷たく立体的な角度を持ち、塞いだ目の中で身をよじる。しばらくは不思議に思い瞳を動かして姿を追うのだけれど、しだいに目の中に意地悪いこむしをかくまっているような、いやな気になって開けてしまう。すると、こむしは命を失い、散り散りにはぐれたビーズの一玉のようになって、瞼の裏からも瞳の上からも消えてなくなる。再び目を閉じ、いやな気がして開け、閉じ、開けを繰り返しやっていると、粒は目を開けたとたんに、眦から零れてしまうのだとわかった。どこかに引っかかって残っていやしないかと、ねばる耳の中、ポリエチレンの枕の上に広がった髪を手でさぐり、ついには二本の電灯をつけて、体全部を俯けさせてさがすのだけれどみつからない。けれど電気を消し、横になって目を閉じたとたん、うらみの粒はまたそこにあるから、千代子はこれは瞼の内側、瞳の表面でしかいられないものなのだと思った。  くるくる動くうらみの粒は、初めただの粒のように見えた。しかし、枕の上や、寝間着から伸びた肌の上をさがしまわったり、零れものがたどるであろう道筋を指でなぞって心を砕くうち、これがうらみの粒であると気付いた。覗き込むと、今よりずいぶん幼い千代子、少し幼い千代子、ほんのちょっとだけ若い千代子が蠢いていた。遠縁のおばに、チューインガムを飲み込めといわれている。母の仕事が特別忙しいときたまに預けられていて、噛み終わったガムを包むティッシュを下さいといってもくれなかった。その家には、千代子と二つ四つ年齢の離れた姉妹がいて、彼女たちもティッシュを使わずに嚥下していた。  千代子はおばにできません、といった。他の食べものと違って、ガムは噛んでも噛んでもちいさくならない。なら、地面に吐いておきなさいといわれる。できません。じゃあ飲むしかない。……。おばは放っておいてくれればいいのに、千代子を監視するように見つめるので益々気詰まりになった。  毎日この歯で噛んだものを飲んでいるのに、それがチューインガムに変わるとどうしてこんなに不潔な感じがするのだろう。ねばっこいそれを間に挟んで、くちゃり、ぬちゃりと歯を咬み合わせると、こびりついている糞が根こそぎ練り込まれていく気がするからか。そもそも、ガムは飲み込むものではないと教えられてきた。母のかさついた指から、最初に口に落としてらった瞬間からそうだったのだ。第一、このねちゃねちゃが、喉に引っかかって息を止めてしまったらどうしてくれる。おなかの中にこびりつき、たいへんな病気の原因になったりしないだろうか。  それに、何故この大人はティッシュくらい恵んでくれないのだろう。別にレシートでも、チラシの切れ端でもいい。本来吐くべきものを吐いて、くるみ、くずかごに捨てたいだけだ。その大きなかばんの中にみつけきれないというのなら、自分で走っていってどこかから葉っぱ一枚、ひきちぎってくるのに。一人で遊ぶときはいつもそうしている。さがす手間もいらない。黄色い子房に、にこ毛の雌しべと雄しべが生えそろった、ちらちら白い花が今も目に見えていた。あれの葉は大きさも上等だし、はさみを細かく入れた刺々しい輪郭と同じく、舐めてもざらりでしっかりよごれものを包んでくれる。彫りもののような二重も露に、におうほど塗った唇の端を垂れ落としている目の前のひとから、千代子は何も頂戴せずにすむ。視線から逃れてむしりとる。そしておばに背を向けたまま、柔らかく刺してくる葉脈のとっかかりに舌を任せればよかった。たった一枚のちり紙が惜しいのなら、わたしはあなたから何もとりませんと見せつけてやればよかった。  千代子が目を開けると、うらみの粒は逃げるように流れでていってしまった。平たく低くなった床と、凹凸のない天井の間に暗闇が渦巻くほどに立ち込め、それがじょじょに晴れると、見慣れた夜の自室が広がるばかりになった。そっけない勉強机と空いている箇所の方が目立つ本棚。おろしたばかりの高校の制服が、自身の重みに耐えかね昼より長くなっている。  部屋の中より外の方が明るく、粗雑に引きつけた遮光カーテンの隙間から、どこから射すのかわからないぼけた明かりが紛れ込んでいた。それを目に入れながら枕をいじる。濡れてもいないしよごれてもいない枕である。千代子は横にならないままその傍に腰をすえた。そして、うらみの粒の中に閉じこまったちいさく遠い、でも赤黒く煮詰められたうらみを、目を開けたまま頭蓋の中で転がしてみた。  結局千代子はガムを飲み込んだのだ。飲み込まずにすます法はきちんとみつけていたのに、おばから顔を背け、得意げに尻を揺らしてしゃがむ自分はきっと醜悪だろうと思うのは止められなかった。おばの分厚い肉体から、手持ちの資源を惜しむ気持ちのほかが飛沫くほどに発散され、千代子の全身をこくいっこく浸していたからだ。ティッシュ一枚をどうにかしたって、彼女から一つもとっていないと、いえる立場じゃあないことを突きつけられていた。まずは時間だった。おばは自らの大部分をえぐりとられたことに怒っていた。千代子に降りかかっているのは、千代子のような子どもたちを含み、その外見と中身を作り上げてひり出して、その後から今まで、今から先、延々と与え、失い続けなければいけないことへのうらみだった。  おばは濁りの一切も過ぎない、澄んだ眼差しで千代子を見ていた。目の中に千代子と同じ、ひり出されて幾ばくもない少女がほほえんで、白っぽい顔でこちらを覗いていた。 (さあ、早く飲みこんじゃいなさい)  うなずき、喉を動かした。まずつばを飲み、熱い舌を咥内の奥へ奥へと挿し込んで、どれくらいの大きさなら楽に入ってくれるだろうか、と想像をめぐらせた。入り口ができるだけ広がるように、新しい唾液をたっぷり溢れさせて、何度も突き、ゆるんでくれるよう努力した。きつく握った手の平が汗ばみ、皺の一本一本から滲むようだった。長く口の中に置きすぎてふやけ、だらしなく伸びきってしまったガムを、歯と舌の駆使でちいさく丸めた。舌先に意識を集中させながら、これは薬なのだと思い込もうとする。薬なら噛まずに飲み込む。大きさも似ている。薬は喉に詰まったりしない。けれど、ガムは唇の間に挟んで、れろんと引っ張って伸ばすと、腐った食べもののような糸を引く。濡れた粘膜の表面に、白いこびりつきがかさぶたじみて残ってしまう。思い出すと、とてもすべすべした薬を飲み込むのと同じようにいくとは思えない。  でも、思わなくちゃいけない。おばが求めている。せめてこの瞬間、おばが千代子を望むままにしたがっているのはわかっていた。だから抗うのは醜悪だと思ったのだ。千代子がガムを飲み込まないことで、うらみは逃げ場をなくし、おばはもっと多くを失くしてしまうだろう。  ガムは舌の上で、完璧な球体に近づいていく。際のないよだれに濡らし、とろけるほど柔くなったそれを、細心の注意で整えて、押し入れるタイミングを計っていた。瞬きの数が増えていく。千代子は、この癖と、黙して考え込むたちのせいで、頭のとろい娘だとよく決め付けられた。ある程度、体の育った今でこそあからさまに嘲られる機会は減った。しかし千代子の胸の内での確信は、年々、そうかもしれない、そうなのだろうと強く、くっきりとしてくる。  千代子は何をしていても、自分だけに他の娘たちとは違う、屈託がつきまとっている気がした。突然目の中に浮いて消えなくなったうらみの粒のように、胴体から枝分かれして伸び出した手足に大きな頭、その先で更に細かく裂ける指や、突き出した耳に鼻、口元のゆるい隆起、股座から僅か零れるようにして開いた陰唇のどれにも、ちいさくてりんりん煩い銀の鈴がぬいつけられている。千代子が息をしたり、身じろぎするたびに警告の音を鳴らすのだった。黙って座っていようとするのに、よく見ろ考えろと責め苛む。千代子がふつうに立っているのは、ふつうにふつうにと縋るように念じるのと、煩い鈴の音を聞かないよう耳を塞ぐの、動き始めて止まらなくなる脳みそを、ぎりぎりと締め付けて留めることが必要だった。でも、たいてい上手くいかない。  おばが悪い人間だと決め、終ってしまうことはできなかった。いつもしているようにガムを処理することをゆるさない彼女だが、連れられていったデパートで千代子が脱糞してまったとき、彼女は実母以上の寛大さでゆるしてくれた。服がよごれるのも構わず抱え上げ、最寄の手洗い場に駆け込み千代子のふとももを、尻を洗ってくれた。ちいさな洗面台の白い縁に足をかけ、水垢の目立つ鏡に手をついた。鏡越しに見つめたおばは、赤茶けて、きついパーマのかかった長髪を両の頬から胸元まで垂らしながら、二人の子を育てた女らしい迷いない手つきで、一心に千代子の体を撫ぜた。短い爪の指で半ばかたまった黄土色を掬い、つぎつぎ排水溝へ落としていく。蒸すようだったきつい悪臭が、清められた水を使うほど淡く散っていって、むき出しの下半身が冷えれば冷えるだけ、罪悪感と恥ずかしさから浮いた涙は引いていった。おばの口数はむしろ普段より多いくらいで、しきりに大丈夫と千代子を励ました。 (大人が漏らすことだってあるよ)  片目をぎゅっと瞑って笑い、買ったばかりの新しい下着を履かせてくれた。わき腹から腰にかけてのあたりに、プラスチックの輪に括られた値札がまだ付いたままでこそばゆかったけれど、おばのクレヨンで引いたような厳しい眉のアーチが、せりあがった頬にあわせてたわんだのが救いと思った。  喉を通り抜けていったちいさな塊は、想像ほど粘つかず、窒息するほど気管を塞いだり、食道を塞いで、ものを飲んでも通さず、吐瀉物を口に溢れさすような憂き目に遭わすことはなかった。ただすんなりと流れていき、その後に、体の調子がおかしくなったり、大病にかかずられることもなかった。でも何年も経って、こうしてうらみの粒として目の裏にあらわれる。  千代子は、自分の執念深さに苦笑するほかなかった。親切なおばの顔にふいに躍りでた憎しみを、撥ね付けることが出来ず飲み込んだのに、未だにゆるせず自分のうらみとして大切に保管している。くるくると飛びまわる粒の中に、幼い千代子のあえぐ声がこもって響いていた。耳を澄ます。 (どうしてちよこにするの。ちよこだっていつか、あなたとおなじ目にあわされるのに)  それから数ヶ月、千代子は寝る前の数時間を充て、うらみの粒がはらむ内容をときほぐすのに熱中した。みてくれはどれも似て見えるのに、じっくり読むとどれも中身が違う。ぱっと見渡したときに感じたのと違わず、子どもの頃のものが多くて、最近のことは少なかった。  それは千代子自身の記憶をさぐってみても同じだ。昔の思い出ほど景色も記憶も輪郭が濃く鮮明で、泣く声喚く声も、ひとかけらも漏らすものかと大きく強く埋め込まれている。気に入るように尽くしてきた先生がちょっとも千代子を信じてくださらなかったこと。逃げる足をそのまま抱えて悪いことをした男の手。ただ遊んで欲しかっただけなのに、噛み付いてきたから驚いて叩き潰してしまったスライスハム色のねずみ。眺め続けて発見したのは、大きくなればなるほど、うらまずにすむのかもしれないという嬉しい仮説だった。  うらみの粒の数は、それから一つ、二つは増えたけれど、子どものときほど多く、真に迫ってくることはなかった。だんだん粒を見ることにも飽き、目を閉じてもぽこぽこと動き回るそれらに気をとられることなく眠りにつくようになった。そうしているうちに、千代子の胸にはもう一つ嬉しい仮説が花開いた。いつしか周囲のひとびとが千代子を足りない娘のように見ることを忘れてしまったように、千代子自身も千代子が足りない娘であることを忘れることは出来ないだろうか? 煩い鈴の音を、最早目にも入らなくなったうらみの粒のように景色に溶け込ませて、千代子はただの女になるのだ。己の口にした言葉が子どもにどんな辛苦を与えるのかついぞ気付かない。熱に浮かされたように子どもを生んで、搾り取られて痩せ細る。立ち止らない。余計なことは考えない。  千代子の役目は、また新しく生まれてくる、幼い足りない娘に担ってもらえばいいと思った。その娘もたくさんのうらみの粒をこしらえていく。その数はどんどん減っていく。そして、いつの日かみんながそれを忘れてしまう。  畳間に立ち尽している母親の、丁度瑞々しさが失われていく過程にある喉もとには、首飾り染みて見慣れた粒が光っていた。千代子は講義のない午前中、見るともなしに流していた通販番組が繰り返した文句を思い出す。『永遠の輝き。年齢を問わない上質のジュエル』。  久々に帰郷して、訪れた祖父母の家は、初夏だというのにまだ置かれたままのこたつが目立つ。籐の椅子に山盛り積まれたよもぎのにおいが充満していた。開け放たれたサッシと、破れて口を開けたままの網戸から、やぶ蚊と草いきれが無遠慮にもぐりこんでくる。千代子の生まれた土地の初夏はほとんど夏との区別がない。蝉も鳴くし若葉は大人びて黒々としてくる。ただ暦の上で初めのだけなのだ。 (大おばさんがさ、かながお母さんの面倒をぜんぜんみてないっていうわけ)  千代子は塗られたニスで表面をてからせている椅子の背に背を合わせるようにもたれて、こたつ布団を噛んだままの食卓に、折りたたみの手鏡を立てた。鏡面が仰け反りすぎ、羽目板の天井が映っている。少しずつ角度をずらしていって、顔が映るように調節する。ある角度に達すれば、曝け出された自分が瞬きしいしいこちらを覗いているのが見れた。これじゃいけないと千代子は思った。  すぐさまポーチから化粧下地を取り出して、手の甲に伸ばす。日に焼けて黄色くなった若い皮膚よりずっと初々しい肌色が広がり、それを指で掬って顔に馴染ませていく。暑さでゆるみ、小鼻や頬で口を開けた大量の毛穴は、目を凝らせば凝らすほどおぞましい姿を晒して、盛んに指を動かしながらまるで花崗岩のようだ思う。触れるとざらざらしていて、閉じ込めたよごれは、どれだけ夢中になって引っ掻いても出てこない。  もっと色鮮やかなファンデーションを手にとって伸ばし、含まれている女臭い香料に鼻をひくつかせながら、嗅ぐともなしによもぎの青さを嗅いでいた。よもぎはしばらく乾燥させた後、地酒に漬けられて祖父が信奉している『なんにでも効く薬』となる。彼の健康の秘訣はそれなのだと、昔から散々聞かされていた。風邪のとき薄めて飲まされたり、虫に刺されるたびに小瓶に詰めたそれを渡された。肌の調子が今以上に芳しくなかった高校生の頃、だめもとで塗り込んでみたこともあったがアルコールに負けて醜くかぶれた。  祖父は、大きな体をちぢめるようにして、畳間と客間の境にある短い廊下の板張りの上へ座っている。床を飲み込むような長いこたつ布団でも、毛羽立った畳の上でもない僅かなスペースだった。母の絞れば水の垂れるような声とは対照的に、相槌を打つ祖父の声はひび割れ、老人らしくしゃがれている。千代子は自分の顔をねめつけて、目を上げられなかった。少し前まで祖父の声は朗々として響きすぎるほど大きかった。ご近所に誤解されて、通報されはしないかが唯一の懸念だった。胸騒ぎの種類がいつの間にか、すっかり様変わりしていることに気が付いた。 (前の食事会も、本当は姉さんの家でやるつもりだったけど、上地は汚いから止めておいたって。そういわれると思ったから掃除しておいたんだけど? あっさよ、あんな言い方ある?) (あれは離れて住んでるからわからんわけさ。昔からああよ) (明美に聞いたら、あれもずっとそういわれているっていってた。もう慣れたって、はいはいって大人しくうなずいておけばいいって)  千代子は何も聞こえていないように黙って顔つくりに集中する。あぐらを組んだ足にい絡み付いてくるアクリル毛布をどかし、いっそうそ知らぬ顔をする。睫毛を折り曲げ上に向けて、ブラシになすりつけた黒い液で丈夫に固めた。すると睫毛と睫毛の間のピンク色の粘膜が露になるので、それも油性マジックに似た黒のペンを握り締め、塗り潰す。ちょいちょいと器用に埋め尽くして、正しい色合いが浸み込むまで押し付けて動かさない。鳥の羽ばたきほど戦慄いていた眼差しが一点に落ち着き、腫れぼったかった目の周りに華やかさが充填されて、比例するように視界は上手い具合にぼやけていった。早鐘を打つ心臓がじょじょに穏やかな鼓動を刻みだす。 (あの子と慶子おばさんが、仁志おじさんのせいでどんだけでーじしてるから。よくそんなことを、恥ずかしげもなくいえるさ。ゾッとするよ) (我慢するしかないよ。いまさら、何いっても直らん。昔からああだのに)  再び俯けていた目を上げて、くだんの喉もとに視線をやったとき、見えたのは細い皺が幾重に走る、優しげな母の肌だけだった。寄って色が濃くなった箇所が目立って、薄い染みとはっきりとしたほくろばかりが散る。しかし母も祖父も、そこにいる千代子がわからないように話し続けている。汗一つかかずにこたつに入っている祖母も。時々むずがる子どものように、 (なんね、なんの話をしてる?) (煩い、うるさいよ! ふらーたあや、しゃべるな、しゃべるな!)  と祖母が騒ぐのに、母と祖父は、湿気た声と干からびた喉で言葉を交わすばかりで取り合わない。  自分以外のうらみの粒が見えるようになった。近しい人物ほど見えやすいようである。友人のは見えなかった。恋人のも見えなかった。けど、母は見える。祖母は見えない。従姉妹やおばは、ひとによって見えたり見えなかったりするようだ。男のは、そもそも見る機能が備わっていないような気もする。  大方、喉もとでくるくると回ったり、ぬらっと光るのが目に付いて、ああ、あるなと思った。ただし、瞼の裏のもののように中身まで覗くことは出来ない。風合いの古さ新しさで、昔のものか、最近のものか、多少見分けがつく程度だ。  これにはがっかりさせられた。大人になるとうらみがなくなるかもと夢見た千代子だったのに、周囲の女たちの粒飾りを眺めていると、どうもそうはいかないようなのだ。生まれたてのように清廉な粒が、夥しい数、彼女たちを取り巻いていて、以来イクラや鱈子などの魚卵系が苦手になってしまった。目を塞ぐほど、肌を塞ぐほどに化粧をすると、薄れて消えることに気が付いて少しはましになったけれど、大学卒業の後、地元に戻るという約束を守る気がなくなってしまった。あの地は苦しい。息が詰まる。誰彼も悪い人間ではないように見えるのに、ああして一塊になっていると少しずつ悪くなり、壊れてもいくようだ。 (わたしはまだ、にげおおせられる)  と千代子は思う。母やおばたちが崩れていくのをみつけておいて、見ないふりを貫くのだ。それは、いつか望んだ忘れることにほかならないのではないか。幼い千代子はくくりつけられた鈴の音が煩くて、おばのうらみを自分のうらみとして、飲まずにはいれなかった。けど、もう、飲まない。失うのなら失うがいい。壊れるのなら壊れればいい。千代子だって、いつ捕まってしまうのかわからないのだ。絡め取られて、たくさんの粒をぶら下げ、ひとをうらんで、うらまれもする。  脳みそに疵がいってしまった祖母を姿を思い浮かべる。千代子には祖母が、今まさにコースアウトしていくF1カーに見えた。内側では煩いほどにエンジンが稼動して、大量の燃料を燃焼させている。なのにギャラリーには止まって見えて、しかるべき道を外しながら静かにその身を焼いて、ばらばらに飛び散り、粋を結集させたはずの機体がごみくずに変わる瞬間を演じ続けている。ああなるとやはり外野の声なんか届かないのだろうか。わたしや母やおばたちのように、きっと大量に持ち合わせていたに違いないうらみの粒は、一体どこへ弾けて、なくなってしまったんだろう?  元来、千代子と千代子の母親は、お互いに深刻な話を避けるたちだ。しかしそれも、じょじょに変わってきたようである。母の仕事が休みの、土曜日に差し掛かろうとする時刻、千代子の耳は母の涙交じりの声を聞くことだけに使われるようになった。相槌は滅多に必要なく、うなずきだけですますことが多いので、ひと一人も寝転べない狭いベランダへ続くガラス戸を大きく開けたまま電話を続けられる。暮らしているアパートは壁が薄く、周囲も似たような安普請ばかりが密集する学生街だから、夜中に騒ぐとすぐ大家にいやな顔をされた。 (お母さんもそうだけど、ユミちゃんのことはもっと酷くいっているよ。  あの嫁はちっともふさ子の面倒をみない、親戚の集まりにも滅多に顔出さない。やっぱり内地嫁は冷たいサーって。それに、この間の食事会のことで、綾ちゃんたちにも怒っているみたいだわけさ。  折角大おばさんが来ているのに、ムッツリしてなつきもしないって。ちょっと頭下げただけで、すまして座っているって怒ってからさ。でから、わじわじーして慶子おばさんに八つ当たりもしたみたいだわけ。折角沖縄に帰ってきたひとがいるのに、なんでオリオンビールじゃなくて麒麟ビール買ってくるか? って。別にどっちでもいいさあ。けど、叱られたから慶子おばさんびっくりしてよ、慌ててビール買いに走ったって。もう、呆れたさ。慶子おばさんが準備であふあーでーじしてるの、見ればすぐにわかるさあ。それなのに、虐めるようなこといって。  第一、なんでユミちゃんたちが上地に顔を出さないか。ちよ、わかる? 結局自分たちが悪いんだよ。  お兄ちゃんのところは、子どもが生まれるのが遅かったさ。それで、ユミちゃん、あのひとたちに色々いわれてきつかったって。だから、二人で話し合って、上地のことはお兄ちゃんが、ユミちゃんの家のことはユミちゃんがやろうって決めたんだって。当たり前のことさ。どうして夫婦のことを、自分の家のことを、ひとにいわれないといけないわけ? 頭おかしいよ。昔から何も変わっていないわけさ。  なんでわからんのかね? 頑張ってないわけがないさ。どうして何も知らないくせに、あんな口が利けるば。  いいよ、うんうん、はいはいって聞いていればいいんでしょ? でもさあ、いやなのは変わらないよ。哀しいのは変わらないよ。  それでもはいはいって、あれたちを喜ばせないといけないの?)  のろくさと明けてくる空は、千代子が静かに目を閉じて耳を澄ますうちに群青から紫まで変わり、桃色が混じり橙も濃くなって、東向きの部屋には一日で最も強い日差しが入る。眠っていない目が跳び込んでくる光に刺されて頭までしびれたように痛くなった。硬く目を閉じる。より強い光源に曝された瞼の裏で、千代子のうらみの粒は灼き尽くされたようになりを潜めて、あんなもの本当はないんじゃないか、と思った。寝ぼけている今の方が、普段の自分よりよっぽど明晰なのかもしれないと考えたらおかしかった。  幼い頃は、夜眠れないと怖くてたまらなかった。遅くまで起きているのは悪いこの証拠だと思っていたからだ。しょっちゅう、眠くならないのがが原因で泣いていた。するといつも、寝息を立てていた母がむくりと起き上がって、千代子を励ました。 (眠くないなら起きていればいいんだよ。もっと起きていられる、嬉しいって思えばいいんだよ)  母を捨て逃げることなど出来るだろうか。しかし、千代子は今度、自分が何を飲めばいいのかわからない。帰って同じように傷つけばゆるされるだろうか? 母と同じように責められる立場になるのが飲み込むことだろうか。粒が目に見えるようになり、その数、古さ新しささえ知ることが出来るのに、なんの役にも立たない。  千代子はあまり、生まれてきてよかったと感じていない。トータルで勘定してみると、どうも赤字にしか思えないのだ。ひとに見えていないものが見えるのはともかく、それが自分と、近親者のうらみというのはどうだろう。大人になるにつれ消えてなくなるかと思った、重石のような鈴どもも未だに鳴り響いて自分を責め苛んでいる気がするし。時々聞こえなくなったかのように錯覚するのは、ただ単に耳が馬鹿になりかけているだけなのだ。  今も、止まって考えずにはいられない。会うたびに原型を失って大破していく祖母の姿とはかけ離れた、なんの熱も躍動もない、陰気な粒に囲まれた停滞である。  けど、千代子は時々考える。目を開けたまま、顔を場末のたちんぼほど濃く化粧で塗り潰して、何も見えない千代子になって思いかえすのだ。  あ、生まれたのも面白かったかもしれないと一瞬感じた瞬間。うらみの粒が目の中にまだ留まり、祖母がF1カーになってしまう以前のことだ。千代子と祖母は、二人で一緒にこたつの中でぬくんでいた。草いきれが届かない、ちゃんとした冬の日の思い出。 (あんたのお父さんをお母さんに紹介されたときは)(うん?)(苗字を聞いて、あいでーじ、宮古のひとじゃないかねえって思ったわけ。だから、「あんた、これ上地って、宮古のひとね」って聞いたの)(なんでよ。宮古だとだめだわけ?)(おばあが昔奉公していた那覇の善一おじさんがね、馬車で宮古のひとに轢き殺されかけてからよ。子どもは絶対にあれたちと結婚さすなって)(でも宮古人みんながそうとは限らないじゃん)(そう! あんたのおかあも同じこといいよったさ! 「どうして悪いって決め付ける? 宮古にもいいひともいる悪いひともいる、渡嘉敷にだっていいひとも悪いひともいる」)(そりゃでしょうよ)(離島同士だからね。本島にきてるのに、なんでわざわざ宮古にするかねと思うよ。しょうがないよ)(ふうん)(渡嘉敷では、宮古のひとの祖先は犬だって聞かされてたからね)(犬?)(けど、渡嘉敷だって罪人が住む島だと思われてたからね)(罪人!) (昔、王朝があったころ、悪いことをするとみんな渡嘉敷に流されていたというから。でも、大丈夫。罪人っていったって、泥棒とか人殺しじゃなくて、王様の政治の邪魔になったひとよ。元々はえらくて優秀だったひとが、わたしたちのご先祖様だわけ)(じゃあどうして宮古は犬なの?) (どうしてもなんも、犬は犬さ)  わたしは、犬と罪人のあいの子なのだ。そう思うことがどうして、千代子を喜ばせ、元気付けるのか千代子自身にもわからない。ただ、そうだと考えたとたん、全身にぶら下がって煩い鈴や、目に騒がしく、心をすり減らすうらみの粒もご機嫌な、別のものに変わって見える。見当外れの一点が、うらみを消してくれる。苦痛を和らげてくれる。  とらわれているものがとるに足らないものだと今より思うことが出来たなら。  開けたままの千代子の瞳に、また新しい嬉しい仮説が閃いた。
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