純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号295 『忘れ道』 「中学卒業したら、漫才師になるから」  武雄が玄関に新聞を取りに来た時、家を出ようとしていた息子が言った。 「え?」  と武雄は突飛な事に頭が廻らなかったが、息子は何も続けずに出て行った。玄関の閉まる音で武雄は、はっとした。  武雄はやたら息子の顔が頭について、仕事が手に付かなかった。  芸人になるなんて、馬鹿げている。しかも、中学卒業と同時なんて、今の時代じゃ自殺行為にも等しい。そんな事はあいつにだってわかってるはずだ。だとしたら、なんであんな事を言ったのだろう。いや、まさか本気なのだろうか。  玄関の暗がりにいた息子の顔は、黒く塗り潰されていた。  昼休みは工場を出て、近くのコンビニへ昼食を買いにいくところを、相模川を越えた先のパチンコ屋へ行く事にした。気分転換だった。  白い緩やかなアーチを武雄は自転車で登った。空は青く爽快で、斜張橋の斜めに延びたケーブルと白い柱が鮮明だった。左に広がる平塚の町は機能的だった。湘南平を一番手前に、遠くへ連なる山々は奥深い。それらをまとめるように富士が大きく構え、右隣には丹沢が負けじと聳えている。山に抱かれた自然な広がりに、武雄は心を打たれた。 「なんで、俺気づかなかったんだろう」  と向こう岸へ下りながら、武雄は首を傾げた。武雄はパチンコ屋への道にいつもこの橋を通っていた。橋から見る景色に感動したのは今日が初めてだったのだ。  大通りを右に折れて、少しいったところのパチンコ屋で三十分ほど、回した。黒い穴は、銀の玉を無限に吸い込んでいった。  夜に帰宅した家の台所には嫁だけだった。トイレへ用をたしに行くと、玄関横にある息子の部屋は閉め切っていた。引き戸は白い光に縁取られていた。  武雄が台所のテーブルにつくと、嫁は箸を止めて、武雄の分を並べ始めた。しかし、視線は後ろの液晶テレビに向いていた。嫁はそれから目を離さなかった。芸人の馬鹿笑いが聞こえてきて、武雄は、あぁと心で嘆息した。  食事を並べ終えると、今度は椀を片手に見入っていた。時折、でかでかと出る大きなテロップに嫁は笑っていた。全く興味が湧かない話題で無理矢理盛り上がっているように武雄は見えた。だから、返ってテロップが白々しい。芸人の馬鹿笑いが、盛り場に見かける飲み会の集団のようだった。  武雄は、ここ数年ですっかりテレビ嫌いになっていた。もはや騒音を撒き散らすだけの箱に見えている武雄にとっては、どうか消してもらいたい気分だった。しかし、くだらんテレビはやめろ、と前に言ってみたところ、あなたの方がつまらないし、くだらないとまくしたてられて、話にならなかった。  こんなテレビを面白がっている嫁がわからない。そして、こんな業界を目指そうと思う息子の気持ちは余計にわからなかった。 「あ、早苗」  武雄は今思い出したような素振りをして、嫁に呼びかけだ。しかし、嫁はテレビに見入ったままだった。少し間があってから、 「はい」  とテレビから目を離さずに応えた。武雄は物怖じしたが、 「今日、銀河大橋通ったんだ。富士が綺麗に見えてさ、良い風景だったよ。何度も通ったのに、なんで今まで気づかなかったんだろうな」  嫁を振り向かせる程の魅力が自分の話にないのはわかっていた。果たして嫁もテレビを見たまま、 「ふぅん」  と相槌を打っただけだった。 「そういえば、拓哉が芸人になるとか言ってるの知ってるか?」 「芸人じゃなくて漫才師でしょ」  嫁は溜息交じりにつっこんだ。 「そんなの半年位前から、知ってるわよ」 「え?俺は今朝言われたんだぞ?」 「ふぅん」 「で、どう思う?」 「どうって?」  と嫁は面倒臭そうだった。 「本気なのかどうかとか」 「本気で考えているわけないじゃない。高校も出ないで」 「だよな」 「あの子はかまってほしいだけなのよ」 「なるほどな」  テレビでは、見知らぬ芸人が一発芸をやっていた。どっと笑う演出と一緒に嫁も笑った。やはりなにが面白いのかわからない、と武雄は首を傾げた。だんだん嫁がテレビの合図で笑う練習をしているように見えてきた。不意にぞっとして武雄は寝室へ逃げ込んだ。  翌日の仕事場で武雄は散々だった。  ある作業で溶液を使用するのだが、使い終わった溶液は一斗缶に入れて廃棄物置き場へ置いておく。武雄がこの仕事に就いた初め頃に教わった事で、基本中の基本だった。受け持ちが変わって久しくやっていなかったものの、その記憶に間違いはなかった。ところが、武雄を目の敵にする上司にそれを咎められた。なんでも、使用済の溶液は廃棄物置き場へ置いてから、使用済と張り紙をしなければならないらしい。もちろん、武雄はそんな話を耳にした覚えがなかったから、いつからルールが変わったのですかと尋ねたが、ずっと昔からだ。君が入社する前からな、と返ってきた。 「もう指導する立場なのにね」  と嫌味も付け加えた。それでも武雄は納得がいかず、上司の嫌がらせではないかと勘繰って、同僚に聞いてみたものの、異口同音、上司のやり方なのだった。武雄が間違えているのに気づいた者もいたが、そもそも廃棄物置き場に置いている時点で使用済とわかるのだからと、気にしていなかったようだ。これまで注意されたことがなかったから、現場の誰もがそう感じていたのだろう。いずれにしたって些細な勘違いに過ぎない。しかし、ベテランと呼ばれる域にいる武雄にとって、それは屈辱だった。まして、後輩に厳しく指導してきただけに立つ瀬がない。厳しく指導された後輩達は、武雄の失敗に対して同情的だったが、それでも勘違いと見なされる事自体が気に食わなかった。  なにをするにもくさくさして、会社が終わると、仲の良い同僚をつれて馴染みのスナックに入った。  武雄は仕事終わりのビールを一杯目に、 「本当に張り紙なんてするんだったか?」  と同僚に何度目かの質問だった。 「張る張る。昔から変わってないから」 「本当に?」 「本当だって!嘘ついたって得にもならんだろ?」  と同僚は苦笑した。 「あら、武ちゃんどうしたの?」  カウンターの向こうでつまみを準備しながら、ママが愛称で呼んだ。 「こいつ、仕事でミスしたんですよ」 「ミスしたの?めずらしい」  ママは目を可愛らしく丸めて、武雄を見た。武雄は顰め面をして黙っていた。 「ま、全てを知っていても、その全てが正確とは限らないってことだな」  同僚はここぞとばかりに意地が悪い。  武雄はそっぽを向いてビールを押し込むように呷った。流し込んだところで悔しさも流れるわけではなかったが、ふと物忘れが始まったのではないかと思った。 「俺も歳なのかね。勘違いじゃなくて、物忘れかも知れないな」 「ボケちゃった?」  とママは調子を合わせた。 「うん」 「でも、もう起こっちゃったことなんだし。あんまり考え込まない方がいいよ」 「うんうん」  同僚もビールを飲みながら頷いた。 「おまえ、渡辺か?」  武雄は同僚に驚いたように言った。 「渡辺ですよ!ボケちゃった?」 「いやぁ、妙に優しいなと思って」 「僕はいつだって優しいでしょう!」  三人の輪に和やかな風が流れた。店の扉が開いて、大きな買い物袋を両手にママの息子が入ってきた。ママの息子は昼間、ライン製造のバイトをして、夜は手伝いでボーイのような事をしているのだった。 「おかえり」  とママが母親らしい慣れた声で言った。息子は呟くにも満たない、ただ口を動かして返事をした。大きな袋を台に置いて、中のものを冷蔵庫へせかせかと入れ始めた。それが終わると、新聞の包み紙を取り出して広げた。中は小さな薔薇の束だった。カウンター隅の花瓶の古い花とそれを慣れた手つきで入れ替えた。  客が来ているのに、愛想の一つもない。武雄はもう見慣れたものだったが、変わった奴だと、鼻で笑ってグラスを空けた。 「ママ。ウイスキーくれる?」 「はいはい」  ママはカウンターから顔をあげて、棚からキープボトルを下ろした。 「グラスは2つ?」 「うん」 「あ、ご馳走様です!」  と同僚はわざとらしい快活さで言った。 「いいから、どんどん飲みなさい」  武雄は陰気から逃れるように太っ腹に振舞った。しかし、それでも悔しさは拭いきれず、胸の内を虫が這い回っているようだった。 「しかし、本当に物忘れがひどくなったかも知れないなぁ」 「仕事のことで?」  ママはグラスに氷を入れながら言った。 「仕事だけじゃなくて、いろいろとね」 「え?どんな?」 「あのね、昨日うちの息子が妙なことを言ったんですよ」 「息子さんって中学生だっけ?」 「そうそう」 「ヘぇ、なんて言ったの?」  と同僚はビールを置いて顔を向けた。 「中学卒業したら、芸人になる」 「芸人?」  ママは目を丸くして武雄に確認するようだった。 「ああ!今、人気あるからねぇ」  と同僚は声をあげた。 「でね、息子のことは息子で驚いたんだけど、その話をうちのに話したら、半年前から知ってたって言われてね。俺は昨日初めて聞いたのよ。でも、半年前から言ってたってことは、俺はどこかで一度聞いてて忘れてたんじゃないかなって思えてね」  ママは、ええ、と疑わしい顔をして、 「それはいくらなんでもないでしょ。だって、息子の進路でしょう?」 「そう?」 「だいたいそんな面白い話だったら、ここに来て、得意げに話すでしょう?」  と、同僚は武雄を指差して笑った。 「まあ、そうだわ」 「はい、どうぞ」  とママはウイスキーの水割りを出した。同僚はビールを一気に片付けて、グラスを返却した。  武雄はウイスキーをちびちびと飲みながら、琥珀色の液面をじっと見つめた。取り留めのないなにかを頭から取り出そうとしていた。武雄はまだなにかを忘れているような気がしていたのだ。 「それで、許すんですか?」  同僚の声はウイスキーと武雄に割り込むようだった。 「なにを?」 「芸人になるって息子さんが言っていたんでしょう?」 「いや、あれはね。本気じゃないね。きっと、かまってほしいんだな」 「思春期の子は複雑だからねぇ」  とママは顰め面をして頷いた。 「はぁ…。しかし、それにしちゃ唐突過ぎやしませんか?」 「そんなもんだろう」 「中学卒業したらだっけ?」 「そうそう」 「それはいくらなんでも、無理な話よねぇ」 「高校くらいは卒業しないと、今はまずいですよ」  同僚も難しい顔をした。 「だから、あいつは知ってて言ってるんだな。本気なら、芸人の世界が厳しいこともわかっていると思うし、現実問題どう生活していくかも考えてるはずだろう」 「確かに」 「ま、変わったことを言って、自分に酔っているだけなんだな」 「なるほど」 「で、息子さんはピン芸人を目指すんですか?」 「ん?」  と全員が声をあげた。ピン芸人ですか、と唐突に尋ねてきたのは、ママの息子だった。  ピン芸人と言われて、武雄はしまったという顔をした。 「そうだ!漫才師を目指しているんだった。また忘れてたよ」 「漫才師?今なら、ジャルジャルですか?」  漫才師と聞いて、ママの息子は更に質問した。 「さあ…。俺は漫才師になるって聞いただけだから」  武雄は苦笑いしながら首を傾げた。息子が目指しているのは漫才師で、それは嫁にも訂正されていた。 「それじゃあ、ボケか、ツッコミかもわからない?」  とママの息子は武雄が飲み干したビールのグラスを手に取って、言った。 「ああ…、まだその辺は聞いてないなぁ」 「本当に冗談かどうか、息子さんと一度話し合った方が良いんじゃないですか?」  ママの息子は流しの蛇口をひねって、グラスを洗い始めた。 「そういえば、あんたも音楽で食っていくとか言ってたねぇ!中学だっけ?」  はっと思い出したようにママが言った。 「高一だよ」 「そうそう!高校中退して、音楽始めるって言い出して、大変だったのよ!私と旦那で、高校だけはって説得して、ねぇ」 「思春期の子は、ロマンを求めますからね!」 「まだ社会に出てないから、大それたことを本気で考えちゃうのよ」  とママは惜しい顔をして息子を見た。息子は、グラスの汚れに集中していた。ここでグラスを洗っているという事は、夢は破れたのだろう。  彼の姿は成れの果てを見ているようで、妙な哀愁が漂った。しかし、武雄はと言うと、そんな雰囲気からは外れて、やはり記憶をたどっていた。何かまだ忘れている気がした。しかし、忘れている事があるのかどうかすら、忘れている以上、考えるだけ無駄なようにも思えた。  武雄はふぅと息をついて、考えるのを諦めた。存在するかもわからない記憶に振り回される自分が滑稽で、ウイスキーの表面に笑いかけた。しかし、いつの間にか顔も老けたもんだ、と見つめていると、刹那電光のように記憶がほどばしって、 「ああ!」  と武雄は声をあげて立ち上がった。拍子にチェアが後ろへ倒れた。 「どうしたの?」  ママが呆気に取られた。同僚はもとより、大きな物音に洗い物をしていた息子までも振り返った。 「ごめん!急用思い出した。帰りますわ」  と武雄は言うと、同僚の肩に手を置いて、 「こいつ今日は俺のおごりなんで、つけておいてください」 「はいはい。テルちゃんお会計!」  ママが言うよりも早く、息子は手を拭いて、計算機と格闘していた。ママの息子がテルちゃんと言うのを、初めて聞いたような気がした。武雄は早く帰りたくてやきもきしていた。入り口で一万円札のお釣りを貰っている時に思いついて、 「あの、あれ。そこのそれ!ひとつ貰っていいかな?」  と欲しいものを指差したが、ちゃんとした名称が出てこなくて、いよいよもどかしかった。 「…これ?」  とテルは顔をあげて、怪訝な顔で指を差した。 「そう、それ!」 「はい」  テルにお釣りと一緒に渡されて、武雄は胸のポケットに突っ込んだ。 「それじゃ、ママ!」 「は~い、気をつけてね!」  と声に背中を押されて、店を飛び出した。店は大通りに面していて、大型トラックが行き交っていた。武雄は自転車にまたがると、目の前の通りを強引に渡って、小道に入った。小道は何軒かの家を過ぎれば、田畑が一面に広がって、街灯もない夜道だから、黒い地平だった。急くばかりに、我知らず不安定な畦道へ迷い込んでしまったが、畑の向こうの小さな街灯を目指して、思い切ってペダルをこいだ。  信号を待つのも、回り道をするのも、武雄は我慢がならなかった。しかし、一刻を争っているからではなかった。彼は自責に追い立てられていたのだ。  家の前で大きく呼吸をしてから、武雄は極めて静かに扉を開けた。開ける手が大きく震えていて、滑稽だった。ともすれば、笑い出しそうなほどに武雄の感情は昂ぶっていた。  玄関横の引き戸は相変わらず締め切って、光に縁取られている。向こう側の光の中で息子はツッコミだかボケの練習をしているのだろうか。鍵もついていない木の引き戸は、彼の目には途方もなく堅牢な鉄扉に映った。軽く開け放って、声をかける事すらできない。しかし、それはいつしか武雄が声のかけ方を忘れてしまったせいなのだと思った。  台所には嫁がテレビと向かい合っていた。いつもの光景にも関わらず、武雄はぎょっとした。 「ただいま」  と武雄は緊張から呟くようだった。嫁は武雄を一瞥すると、冷蔵庫の方へ立った。ラップのかかった夕飯を出そうとしている。  今だ、と武雄は自分の心に言い聞かせて、足を動かした。足は震えていて、もつれそうだった。それでも大またに歩いて、屈んだ嫁の丸い背をぎゅっと包み込んだ。 「なに?うっとうしい」  嫁は手を止めて、右肩に顎を乗せた武雄を煩わしそうに睨んだ。 「ごめんな。遅くなって」 「酔っ払ってんの?」 「もう醒めた」  武雄は身体を離して、彼女の両肩を掴むと向き直らせた。最初は硬くてびくともしなかったが、やがて素直になった。 「なんなの?」  と苦笑いされて、武雄は恥ずかしくなった。心臓が早鐘を打ち、震える手で胸のポケットから、スナックで貰ったものを出して、 「今日は結婚記念日だろう」  と差し出した。 「なにそれ?」  嫁は差し出されたものに怪訝な顔をした。 「なにって、薔薇だろう」 「それ、薔薇なの?」  と嫁は笑い出した。なにがおかしいのかと、自分の手を見てみると、花弁がすっかりなくなっていた。胸のポケットを見ると、散った花弁が札と小銭にまみれていた。 「馬鹿じゃないの?」 「ごめんな」 「はいはい。わかったから。椅子に座って、夕飯食べて」 「うん」  嫁はいそいそと皿をテーブルへ並べて、 「はい」  と最後に箸を武雄に渡した。目と目が合った。武雄は嫁もだいぶ老けたものだと思ったが、瞳は瑞々しく昔と変わらなかった。  嫁は向かいに腰掛けた。 「一緒に食べようよ」 「私はとっくに食べたわよ」 「そうか」  武雄は白米を口に運んだ。嫁はじっと食べる姿を見つめていた。  テレビは、見知らぬ芸人が一発芸をやっていた。どっと笑う演出に嫁は笑わなかった。
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