純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号290 『静寂』 ナイフを研ぐ。ショリ、ショリ。僅かに響く鋭さの音が時を短く切って、私は私を肯定する。妻は傍らで眠っている。月明りに光る砥石の平面は妻の横顔のようだった。研ぐのを暫し止め机の上に置いた柘榴を見る。口に少し甘みが欲しくなった。そっと立ち二、三手にとる。赤黒いその実は無垢な輝きを思わせたのもつかの間、それは誰かの凝固まった血に変わっていた。口に甘美な血の味が広がる。蛇柄の刺青を勧めてきた今はなき友人の勝ち誇った悦に入る顔が目の前に浮かぶが、それも無感覚な今の私には栓なきことと思えそっとカーテンを閉めた。 部屋の闇が濃くなる。金魚鉢には静寂が満ちている。 いつも毎夜うるさかった隣のジャンキーが戻ってくることはないだろう。やっと妻とも愛を深く語らえるのだ。生黒い血でべったり塗られたフローリングの白い壁を伝うようにそっと撫で再びナイフを研ぐ作業に戻る。 沈黙は神の言葉である、静寂は神の声である。 妻が半分齧った林檎を花瓶の桔梗の隣に飾った。すると内にほっ、と明るいひかりが差す。 ―・・・、こんなにも。私はほくそ笑んだ。 こんなにも美しい一瞬を静物画に描けたなら。 「この手で」 永遠の眠りは白雪姫というダイヤ。繰り返される瞬間とは無限を繋ぐリング。 妻は眠っている。恐らく自分の首が美しく描かれる幸福に抱かれて、そして生きとし生ける者達全てから「動く」という苦悩の宿命から解放した祝福を受ける救世主の傍らで真っ赤な薔薇に囲まれている夢を見て。 ―しかし・・。頬を撫でてみる。 何故そんな顔なんだろう? 相変わらず悲しそうな顔にまだほんのりと優しい甘さが残る唇で月明りのようなキスをした。
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