純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号288 『コップ』  私の仕事机は散乱としていて、いい加減な性格の持ち主であると誤解を受けることがたびたびあるが、その者に私がいかに計算づくで机の上を散乱させているのかを熱弁しても理解されぬことは、世間と同じく悲しいものだ。目前に置いてあるコップひとつにしても、ただ単純に置かれているわけではないのだ。一目すれば凡庸なコップ。だがひとたびアルプスの雪解け水を注げばどうであろう。天窓から入りこむ太陽の光に反射して実にみごとな虹色を描くではないか。そこいらの水ではだめだ。雪解け水。しかもアルプスでなければこうはいくまい。アルプスの遥か上空より降り注ぐ力強い太陽光とその新鮮な雪の反射光、それら二つを同時に浴びた水でなければ。そうでなければ、虹色はにびいろになり、果ては腐ったどぶ川になってしまうだろう。さらにその虹色を出すために計算されつくした形状。広がる飲み口と厚底の間がキュッとしまって、緩急自在の魔術が垣間見えるではないか。材質は当然ガラスである。私はプラスチックなどというコップを断じて認めない。軽くて丈夫な単に安全なモノで、命の源泉たる水や飲み物を頂こうなど、笑止千万。語るに遠く及ばない。ひとつ間違えば粉々に砕けてしまうガラスで頂くからこそ、私はこの辛く厳しい人生をかろうじて生きていられるのだ。位置においてもそうなのだ。プラスチックなどという俗世間にありがちな機能を追及しようとする卑しさあふれるコップでは母なる太陽の大いなる光を受けたところで虹はおろか水の色を描くことさえ疑わしい。机の端から端までプラスチックを並べたところで土台無理な話だ。不快な音が重なっても不協和音になるのと同様、貴様らが束になっても重厚などぶ川の匂いが増すばかりなのだ。格の違いを認めよ。恥を知れ。そしてもうコップ界に進出してくるな。汚らわしい。少々私情が浸入してしまったが、ガラスの描く虹が机に座る私の正面にくるのは、やはりこの位置しかあり得ない。ここまで語れば私がいかに苦心してその位置にコップを置き構えたかは、お分かりいただけたと思う。こうしたモノの数々が私の机に乗っているのだ。そこには私の人生が、その歴史があるのだ。それだのに。短い溜息を吐き捨て私はふと外を見下ろす。敷地の内にある大げさに拵えた焼却炉には、私の人生の残骸が黒で塗りつぶされている。その横でかすかに揺れる彼岸花。私はその赤を燃やしてしまおうと思った。                                  了
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