純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号287 『雨をあげよう』  梅雨の時期は傘が手放せない。そう思いながらも家を出るときに降っていないと、忘れがちになることが多い。今日も…、いつだってそうだ、私は過ちに気付くのが遅すぎるのだ。 空から無数の糸を引くように雨が降り、景色と視界を滲ませていた。いや、滲んでいたのは私の目の方かもしれない。塩分を含んだ水滴が絶え間なく頬を伝う。  今日も上司に怒られた。原因は私のミス。今思えば簡単に出来ることなのに、どうして私だけが出来ないんだろう。入社して一年が経つ。同期で入社した社員達は順調に仕事をこなし作業に順応しつつある時期に、私だけが取り残され雑務に追われる日々。悔しい、と思うことなんて最初だけ。すでに同期の人たちでさえも、私の追いつかないところまで行ってしまったのだ。 「次こんなミスしたら、辞めてもらうから」  今日言われた言葉を思い出す。まるで目の前に上司がいるかのように鮮明に思い出せる。私を小馬鹿にした表情も周りの冷めた雰囲気も。  いっそ自分から辞めてしまおうか。私なんていなくても…、むしろいなくなった方が清々するのかもしれない。  空を見上げた。雨の勢いはとどまる様子なし。止まない雨…、まるで私の心の内をあらわしているかのよう。小さくため息をつくと、力なく笑った。  もう歩こう。一時の雨宿りとして駅の改札口に留まっていたが諦めよう。自宅は駅から徒歩で15分ほどだが、この雨足では家に着く頃にはすでにスブ濡れになっているだろう。けど、もういいんだ。この制服だって今週にはすでに不要になっているかもしれない。それに…、通行人にも泣いていたのがバレなくて好都合だ。  一歩踏み出す。痛いくらいに叩きつける雨が容赦なく体に降りつける。歩き出して一分と経たずに、前髪がペタッと顔にまとわり付いて視界を遮ってきた。しかしそれすら構う事なくゆっくりと歩を進めた。 「ちょっと無謀すぎたかな」  シャッターの閉まった店の軒先で――倒産したのだろうか、テナント募集の立て看板がある――再び雨宿りし独り言を呟く。水分を含んだ服は予想以上に重く、さらに歩くたびに靴下から水分がジュクジュクと染み出してくる感覚が何とも不快だった。  ほら、又後悔してる。素直に駅で小雨になるのを待ってたらよかったのに、って。 心の中の自分が私自身を戒めようとする。 「仕方ないよ。私…、バカなんだもん」  そう口に出して、自嘲気味に笑った。  雨で乱れた身なりを一応整えるのに十分ほどかかっただろうか。その間に小雨になってくれれば良かったけど、世の中そんなに上手くいかない。鉛色の空を見上げて嘆息した。  視線を上にしていたから気付かなかったのか、コツコツと足音が聞こえたかと思って目をやると、目の前に男性一人立っていた。びっくりして目を丸くしていると、男性はニコッと屈託なく笑い、差している傘を前に差し出した。 「家は近くですか?良かったらお送りしましょうか?」  なんだ、ナンパか。私がそんな軽い女に見えたのだろうか。いずれにしても今は誰かと話す気分ではない。 「いえ、結構です。この状態で傘に入れてもらっても手遅れですし」  濡れた服を指差して、無表情で返事する。 「ああ、そうですね。お節介を焼いてしまって申し訳ありません」  笑顔を崩さず話したかと思うと、傘を閉じて私の横に立った。反射的に男性と距離をおこうと二・三歩後ずさりする。 面倒臭いことになってきた。一体どういうつもりなのだろうか。しばらく無言で佇み、警戒しながらも動けずにいた。 「哀しい顔をされてました」  不意に男が話し出す。 「えっ」  聞き取れてはいたが咄嗟のことで聞き返してしまう。しかし男は言葉を繰り返すことなく話を進めていった。 「私は手品師でね、と言っても全く無名ではありますが。手品というものには間違いなくタネがありまして、詰まるところどうやってお客さんを心理的、物理的に錯覚させるかに集約されます。錯覚させようとすれば、お客さんの置かれた状況、表情、心理を十分に理解しなければいけないわけで、その機微を読み取る瞬発力が要求されるのです」 「はあ…」  生返事しか出てこない。何を言おうとしているのか真意が分からない。 「手品は驚きと笑顔を与えるエンターテインメントです。私はお客さんの笑顔が見たい、その一心で手品をしてきたつもりです。たとえお客さんが一人であっても、悲しい表情をされたお客さんが笑ってくれ、明日も頑張ろうという前向きな気持ちになってくれれば手品師冥利に尽きるというものです」  視線はこちらに向けようとせず、真っ直ぐ外の景色を見ていた。まるで自分自身に言い聞かせているみたいに。  しかしそれ以上の事は言わず、また沈黙が走る。雨打つ音が胸にまで響いた。  もう帰ろう。雨は止まないし、横にいる男も悪い人ではなさそうだけど何か気味悪いし。じゃあもう帰ります、とその場を去ろうとしたとき…。 「あなたに雨を差し上げましょう」  再び男が話し出すと、両手を軒先から伸ばした。両手はすぐにビショビショになり、雨水が男の手の平から小さな滝のように数本のスジになり流れ落ちていた。 「えっ」  またしても不可解な言動に戸惑いながらも、去る機会を逸してしまったので男の行動に注視する。  今度は濡れた手の平を握り締め、力を込めるように振り始めた、その間わずか数秒。  そしてもう一度開いた両方の手の平には、一つずづキャンディーがちょこんと乗っていた。 「雨を上げる、あめを上げる…、飴を上げる。なんてね」  男は満面の笑みを浮かべながら得意げな顔をした。  ダジャレか…。手品自体には驚かされたが、ダジャレのつまらなさに脱力した方が大きかった。少しの間愛想笑いをした後、今度こそ帰ろうとすると。 「今年の梅雨は長引くんですかね」  また意味の分からないことを言い出し、飴を私の目の前に突き出す。先程のダジャレがことの他ウケなくて恥ずかしくなって居ても立ってもいられなくなったのだろうか。 「どうでしょうか、わかりません」  梅雨が長引こうがどうか全く興味が無かったので、ぶっきらぼうに答えた。すると男は飴を私の手に乗せると、ギュッと包み込むように手を被せてきた。 「梅雨、つゆ、つーゆー,『TO YOU(あなたへ)』」  大きくて温かい手…。忘れかけていた人の優しさに触れたような気がした。男の顔を見上げると、会った時と同じように屈託無く笑っていた。 「つまらないダジャレですね」  笑いながら男に向かって言うと、照れたような表情ではにかんだ。 「もう帰ります。飴は頂いておきます。いろいろとありがとう」 「そうですか。私も楽しかった。何があったのかは知りませんが生きていれば良い事も悪い事もある、その飴のように。また辛い時が来れば私のダジャレを思い出してください、少しは紛れるかもしれませんよ」  そう言うと男は手を振り、私もそれに応え笑顔で手を振り返すと、雨の中を歩き出した。  変な人。家路に向かう途中、さっきの男の事を考えていた。そして自然と笑みがこぼれる。飴だって、つーゆーだって。ホントにくだらない…。でも何でだろう、とても嬉しかった。  そして思い出したかのように男から貰った飴を取り出し口に入れた。口に含んだと同時にレモンを数倍酸っぱくしたような強烈な刺激に襲われた。自然と表情が歪む。しかし舐めていくにつれて酸っぱさが無くなり――酸っぱいパウダーか何かだったのだろうか――ほのかな甘味が口の中に優しく広がった。舐めながら男の言葉を思い出す。 『生きていれば良い事も悪い事もある、その飴のように』  なるほど、酸っぱい(悪い)時が来た後には甘い(良い)時が来るってことね。さすが手品師、騙くらかすのが得意なこと。キチンと口で説明した方が早くない?ホント変わった人。  思い出すたびフフッと表情が和らぐ。雨は相変わらず容赦無しに降り続いているが、少なくとも私の心にはわずかな晴れ間が覗いたように感じた。  明日も頑張ろう、本気でそう思った。                   < 了 >
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