純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号284 『野良犬』 昼の喧騒を嘘だと思わせるほど、その夜は静かだった。 冬の夜空はしんと澄み渡り、空気はすうっと冷え切っていた。 野良犬は溜め息をつく。 「今日はしけてるな。何一つ面白くない」 飼い主に捨てられて三年、のらりくらりと怠惰にくらしてきたのだ。 特にどこへ行こうとも思わない。路地裏でのんべんだらりと過ごし、ただエサがほしくなれば巷を徘徊するのみ。適当に残飯を食い漁り、また寝床へと足を向けるのだ。 誰に飼われようともせず、かといって自分一人で何をするというでもない。 変化のない毎日を送るその姿は、犬のそれとは到底思えなかった。 「どうするかな、何もやる気がしないな」 他の野良犬たちは、今宵は縄張り争いをやめているだろうか。飼い犬は主人の膝の上で、その幸せをかみ締めているだろうか。どちらにせよ、今の野良犬には関係ない。 臭い飯を食らい、辺りをうろつくばかりの野良犬には、誰も唾すらひっかけてはくれない。 人間に嫌悪を覚えた。 媚びるということもなかった。 それが野良犬の精一杯の抵抗であり、また堕落した生活の一因ということにもなった。 だがその日は、本当に何ということもなく、ただ己を見つめ直すのに十分なほど、時間が有り余っていた。 ここでそれができれば、と思うのが人間達で、野良犬には露ほども己の生活を鑑みるという気はなかった。 しかし、プライドだけは高く、他者を妬む才能は人一倍あった。 そして不意に、むらむらっと激情が込み上げてきた。 (なんだてめえら、偉そうにしやがって。俺だって力を出せば、そこいらの連中に負けるものか!) のっそりと起き上がり、夜の闇に消えていく野良犬の姿が、怪しげな月明かりに照らされていた。 思いついたことなどない。ただ心の勢いに体が押されただけのことだ。 やはり、巷をうろうろするばかりで、他に術はなかった。 歩いているうちに、飼われていたころを思い出した。 可愛いと持て囃され、抱き上げられ、頬ずりをされていたころだ。 「なんでこうにも、落ちちまったんだよ」 自嘲とも後悔ともつかぬ、奇妙な感情が胸にわだかまっていた。 その足は自然と、元の飼い主の家へと向けられていた。 しかし、野良犬はハッと足を止めた。 (何してんだ、俺はもう野良犬じゃねえか。住処は路地裏だったはずだ) それからまた、踵を返し、歩き続けた。 しばらくすると、空き地が見えた。 いつもならここで、他の野良犬たちが、血気盛んに縄張り争いをしているのだ。 野良犬はその中に入らない。その様な下劣な行いに、何故加わらねばならぬといった顔つきで、ぎらっと連中を睨みつけ、素通りしてしまう。 ところが今は連中がいない。ここで暫く休もうかと考えた。 ふと、自分以外の野良犬がいることに気づいた。 色は黒く、闇夜にとけこんでおり、はっきりとは見えなかったが。 (ふむ、誰かいたのか) 近づいて見ると、その姿は何とも弱々しかった。体中に傷があり、息も絶え絶えで、なるほど野良犬のなれの果てという表現が、これほど合致する姿も他になかろう。 先ほどの激情が、またふつふつと湧いた。 (そうだ、お前らが何だってんだ!) 気が付けば野良犬はその弱体を鞭で打つように引っ掻いた。もう抵抗する気力もないのだろう、黒い野良犬は四肢を動かすこともせず、ぐったりしている。 野良犬は、己の中に渦巻いていた、あらん限りの憤懣をぶつけた。 (人間だって犬だって同じだ。弱っちまえば死んじまうだけだ!それなのに力があるうちは威張り散らして、力のないものを八分にしやがる。この野郎みたいに、この野郎みたいに) そこで、野良犬は落ち着いた。黒い野良犬はこちらを見ている。 死にかけのものとは思えぬほど、力強く美しい眼をしていた。 自分は何をしている、これではまるで人間ではないか。 ここに転がっている弱体は、自分自身ではないか。 自分は、野良犬ですらないのか。 もう、攻撃する気力は失せていた。 そして、自分の堕落した姿が、つくづく許せなかった。 「ああもう本当に、面白くねえな」 寝床へ足を向けた。しかし己が変わる意志があった。 野良犬は、決意したのだ。弱くならず、強く生きると誓った 「やってやる、俺はやってやるぞ」 もっとも決意をしても、何をやってやるかはわからなかった。 野良犬がどう生きていくのかを、誰も気に留めるものはいない。 それでも、やってやると、決意したのだ。
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