純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号283 『幻の美少女』  僕はさっきからずっと夕陽を眺めていた。そして僕は窓辺からそっと離れた。  2年ぶりにあの松山の思い出の国際体育館に行く決心をつけたのだった。あのコの瞳が待っているような気がしていた。あのコが薄暗い観客席の片隅で悲しい化粧をして待っているような気がしていた。  道を歩いている僕をあのコの瞳が見ている、僕を照らしている、という思いが最近頻繁に起こっていた。そして思い出の高総体の日は近づきつつあった。僕がそう感じてきたのは5月の初旬ぐらいからだったろう。  大きな瞳と白い丸っこい頬とそして白い丸っこい肩。そしてその上のギリシャ文字めいた模様。  眠っていてもくっきりと僕の目に浮かんでくるその文字。  僕はそれが活水高校の制服だということを最近やっと気づいた。遅かった。遅過ぎた。そして僕は青春を見喪ってしまったのだ。  でも高校の頃も僕は気づいていたのかもしれない。でも僕は何の行動も取らなかった。僕はその悔しさを力に必死になって勉強するだけだった。それしか僕にはできなかった。ラジオの伝言板のコーナーに出すなんていう才覚は僕には沸いて来なかった。  あのコの瞳は太陽のようだった。そして頬も丸っこくてあのコの顔は太陽のようだった。  あのコは僕の知らない処であのコだけの楽しい青春を送っていることだろう。きっと僕の知らない誰かほかの男と一緒に。  そしてあのコだけの輝く青春を。僕の知らない処でのあのコだけの輝く青春を。  あのコの思い出は僕の暗かった2年間のこの青春時代の移行期において僕を暗闇から照らしてくれていたたった一つの太陽だった。僕の青春時代を照らしてくれていたたった一つの太陽だった。  彼女の丸っこい白い肩にはギリシャ文字めいた刺繍が施されており、それが僕の目を幻惑させた。薄暗い観客席の中で憂愁に打ち沈む僕の目を幻惑させた。  その模様は僕と彼女を天国へと運んでゆく幸せな白い船のようだった。まっ白い幸福の船の船縁に刻まれた幸福の彫刻のようだった。  僕の高校一年の終わり頃からの三年間の懸命な努力は虚しい塵となって消え、そしてその塵の消え去ったあと僕には空白の、そして長い6年間は続くであろう長い大学生活が残されていた。  僕に残されていたのは長い果てしもない霊界の道のようだった。白い、まっ白な霊界の道のようだった。     ----コートでは北側のコートで僕らの東高の試合が始まっていた。河野(僕と一緒に来た友人)は友だちが試合に出ているので北側の長崎東の(たしか川棚高校だったと思うけど)試合を熱心に見ていたけれど、僕は南側の方のコートの試合を見たりしていた。僕らの座っている所はとても空いていて僕らは2人ポツンと座っていた。  そのときだった。僕のななめ前方5mぐらいの所にとても可愛いとても目の大きい少女が僕を見つめて立っているのに気づいたのは。ちょっとポッチャリした感じでそして今まで見たこともないほど目が大きくて。そして今までに見たことがないほど美しい少女だった。  彼女は始め横顔を見せて立っていた。でも大きな目で僕を見つめて。今思うけど彼女はそちら側の顔の方が自信があったのだろうと思う。そうして横目で、大きな大きな目で、僕を見つめて立っていた。4分ぐらいそうしていただろう。でも僕は俯いたりコートの方を見たりして知らない振りをし続けた。僕は中学2年の頃から大きな声がでないという喉の病気に罹っていて静かな所以外では女の子と恥づかしくて口がきけなかったから。  彼女はそして今度は真っすぐに僕を見つめ始めた。横顔で見つめていては駄目なのだろうと思ったのだろう。でも僕は依然として無視し続けていた。でも無視し続けることはとても辛いことだった。彼女より僕の方がきっと何倍も何倍も苦しかったと思う。僕はもし喋りかけられたらどうしようと思って苦しくて苦しくてたまらなかった。  僕は苦しみながらも彼女を僕の記憶のうちの女性の誰かと照らしあわせていた。川崎さん、僕が中三の秋ごろ一目惚れしてラブレターを書いたけど出さなかった川崎さんによく似ている。目の大きさといい顔の輪郭といい、よく似ている。川崎さんなのだろうか。僕の胸に三年近く前になる思い出が蘇み返ってきていた。また高校二年の後半、昼休みに誰もいない運動場で突然、川崎さんへの愛慕の念に駆られて駆け出したあの青春の発作みたいな光景も思い返されてきていた。一度も口をきいたこともなかったけど僕は彼女の青白い肌とちょっとポッチャリとした肉体を体育発表会の予行練習のとき砂場の横に淋しげに立っていた体操着姿のあの光景のままに思い出していた。  再び彼女に付き添っていた小さい2人の少女が彼女に帰ろうと催促したようだった。でも彼女は『もうちょっと待ってね』とでも言ったようだった。彼女は依然として微笑みつづけていた。  やがて彼女は僕に背を向けて歩き始めていた。なんだか僕からすべての幸せが去ってゆくような気がしていた。また、これからの苦しみに満ちた年月が始まろうとしているような気もした。彼女が去ってゆくのは僕の少年期が去ってゆき、そして僕の青年期が、苦しみに満ちた青年期が、始まるような気がしていた。  彼女は途中で一回フッと振り向いた。でも僕は試合を見ている振りをするだけだった。寂しげに試合を見ている振りをするだけだった。  彼女たちは歩いて行っていた。僕からどんどん遠去かっていっていた。  僕はいつの間にか目を潰っていた。そして目を開けたとき彼女の姿はもうほとんどなかった。喉の病気が追い遣ったのだ。彼女のちょっと太めの悲し気な背中が行き先を喪ってオロオロと入口の方で動いているのが見えただけだった。  それから3日間、僕は狂ったようになって勉強した。将来きっと耳鼻科の医者になると思っていたのだ。----                  完
この文章の著作権は、執筆者である 三船カメ太郎 さんに帰属します。無断転載等を禁じます。