純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号280 『貳聯散文』  一  太陽は照らす。  山を照らす。川を照らす。海を照らす。  コンクリートを、アスファルトを、町を照らす。  人を、豚を、牛を照らす。  夜明けの空は様々な色の、情緒の線が混じり合っている。群青色は溜め息で、白は虚無で、橙色は空っぽの声で、灰色は誰にも見えていない独り相撲で、ちょっとした黒はただの色である。このような様々な色が、とくとくと混じりあっている。そう、この空は芸術家だ。誰も表すことの出来ない絵を休むこと無く描き続ける。つねに新しく、つねに訴えかけ、つねに移ろい、つねに無くなる。この空は芸術家という芸術だ。本来芸術家という者は、そのような者でなければならないような気がする。今までのどの天才画家も描けなかった絵が、僕の真上に拡がる。そして、それは僕の所有物でもあるのだ。  今日もいつものように夜明けの空に見入っていた僕の視界、僕の絵に、1羽の鳥がすっ‥‥と描き足された。その瞬間、僕の絵はどろどろに溶け、芸術が失われた。   二  ぐるぐるうだうだとした慣習的な風景に新たな情景を見いだした時、詩的な理が胸中に芽吹く。何も特別な話しをしているのでは無く、誰の胸中にも、日々、碌々と芽吹いている。しかしほとんどの場合、その芽は煌煌と花を咲かすこと無く萎び朽ちていく。この鬱々とした連日連夜にいとも簡単に踏みつぶされる。なす術無くこの芽吹くという行為自体がいつしか慣習そのものになり、全てが慣習に埋もれた時、胸中に芽が出ることは無くなる。これが大人だ。芽吹かなくなった大人はどうするのか。知ってか知らずか、いや、多分知っているのであろう、きっと、見てみぬ振りをしているのであろう、他人の芽を自分の胸中に移植し始めるのだ。荒野となった自分の胸中に無理矢理他人の芽を移植するのだ。そして我が物顔で日々を謳歌していく。時たまその芽の葉を、白々しく一枚落としてみせたりなどして高尚を気取ってみたりもする。しかし所詮は他人の芽、移植された芽、自分の肥やして幾た土とは合うはずも無い。  花は、咲かない。  しかしいつしか時が過ぎ去って幾につれて、自分の中にある芽が移植された物だということを忘れてしまう。この芽は自分のオリジナルの芽だと思いながら、ゆっくり、ゆっくり、花を咲かすことなく死に至っていくのである。
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