純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号279 『夏が廻る』  渋谷の1LDKのマンションに住んで1年が過ぎた。もう9月に入っているというのに、日中の陽射しは厳しくて、一向に秋の気配を感じることはない。昨年の7月の初旬、僕は大阪から東京へ転勤の辞令を受けていた。  今日は週末の金曜日で、僕は午後10時過ぎに帰宅した。鞄をテーブルに置くと、すぐさまパソコンの前に座り、カテゴリー別のファイルを作成することにした。バラバラになっている過去の写真を整理していると、たくさんの彼女との思い出の写真が目に付いた。その中の一枚をクリックすると、キッチンを背景にして、彼女が振り返った顔の表情が画面一杯に広がった。口許を引き締めているが、目元に笑みがこぼれていた。ボブカットの髪型の彼女は、片頬に髪を覆わせたままの状態で、僕を見つめている。  東京に赴任する1週間前の土曜日の夜、彼女は僕のマンションに泊まり、日曜日の朝を一緒に迎えた。  ベッドがある部屋からキッチンがみえて、朝食の用意をしている彼女の姿が目に映った。それは僕にとって、見慣れた光景だった。窓を覆うブルーのカーテンの隙間から朝の陽射しが差し込み、窓際のベッドに横たわっていた僕は、少し眩しさを感じながら彼女の動作をつぶさに見ていた。でもその日は、いつもと彼女に向ける気持ちが違ってる。  昨夜、抱き合った後、ベッドの中で話し合っていたとき、彼女は「東京には住めない」と、掠れた声を上げて、戸惑ったような表情を浮かべた。そして、憂いを含んだ瞳で僕を見つめ、深い吐息を漏らした。僕はそれ以上何も言えなくて、黙って煙草を吸った。  大阪で広告代理店に勤めていた彼女は、新たな勤め先を東京で探す意思はなかったようだ。片親で育った彼女は、母親のそばから離れたくない。そんな感情的な言動が、彼女の口許から幾度となくこぼれた。35歳を過ぎてから産んだ彼女の母親は、還暦を過ぎている。母親をひとりっきりで生活させることが、彼女にとって、とても心配だったようだ。  ベッドの中で彼女の身の上話を聴いていると、ふたりの未来を語ることも出来ず、ただ、東京で一緒に住まないか、といった程度しか、僕の気持ちを彼女に伝えることが出来なかった。  日曜日の朝、部屋にいる彼女の姿をデジタルカメラで収めた。逢いたい時に逢えなくなると思い、彼女の姿を出来るだけ多く写し取った。それは僕にとって、自然な感情であった。  彼女は朝食にベーグルサンドを作ってくれた。それは、ベーグルを横半分に切り、レタスときゅうり。そして、カリカリに焼いたベーコンとチーズの具材にトマトソースをかけて挟み込んだものであった。イケアで買った白いテーブルには、アイスコーヒーと冷やしたミルクが入ったグラスが載せられている。彼女が作るパンの料理はうまい。今までに、彼女が持っているレシピの中から、パンを用いた料理を作ってくれたことがあった。一度として、外れたことはない。  僕たちは取り留めのない会話の中で、ベーグルサンドを食べた。彼女は昨夜の話題にふれることはなかったが、ときおり、口許を動かしながら眉間に軽い縦筋を入れた。何か、思案している仕草にも思えたが、僕は何も訊かなかった。そして彼女は、眠たげな表情を浮かべながら、夕方まで引越しの荷造りを手伝ってくれた。  東京に赴任してから、僕たちは月に幾度か、新幹線と夜行バスの交通機関を使って行き交いを繰り返していたが、やがて彼女から電話やメールの返信が減り、半年が過ぎたころから彼女からの連絡が途絶え、やがて僕たちの関係は終わった。  今でも、大阪のマンションで過ごした夜のことは鮮明に憶えている。薄闇の中で、彼女の乱れた髪は片頬を覆い、汗ばんだ首筋は左右に揺れた。そして何度も、うわごとのような声を上げて顎を突き上げると、僕の背中に腕をまわし、身体を密着させるために腕に力をいれた。彼女は瞼に苦悶の色を滲ませ、咽び泣くような声をあげて、眉間に縦筋を入れるのであった。  今でも、薄闇の情景を思い出すと胸が締め付けられてしまう。消え去った2年間の思い出を考えると、彼女を引き寄せることが出来なかった自分自身が不甲斐ない気持ちで一杯になる。  僕は思いを断ち切るように、パソコンの画面一杯に映し出された写真を閉じた。
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