純文学小説投稿サイト 『供物』 小林陽太 著
純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号278 『供物』  そこには教育熱の激しい日本に特有の風景があった。私塾の業界では、教育と経営という水と油のように相容れない二つの釣り合いの中で、講師陣と経営陣による百戦錬磨の営みがある。  ある私塾に就職した山田俊輔は、理系の正職員であると同時に、現代文から古典も任される二十三歳の若手である。仕事は盗んで覚えるものだということは、これまでのアルバイトの経験、例えばホームセンターにて子供の玩具として扱われる破格で販売されゆく幼気な小亀の飼育や洗浄、農業従事者への真夏のトラックへの牛糞の荷積み、または接待と友愛に忙しいサラリーマン達が杯を交わす居酒屋のホールや調理人の罵声の飛び交うその裏方、あるいは委託契約という形態を採った訪問販売というマルチ商法まがいのセールスなど、それらの中で彼は散々と承知していたが、案の定その現場では仕事を覚える暇などやはり無く、その戦場の中で失敗を繰り返しながら身に染みる様にして覚えていかねばならなかった。経営陣による結果主義の策の生む使い捨て労働のような身分に準ずる講師陣は、寝る間も惜しんで知識の吸収は第一のこと、自身の経験や他講師の授業の見学によって新たな技能を取得し、一心不乱に務めることを求められた。  人を扱う仕事柄、精神的負荷の重圧が生じると、労いの余裕すら感じられない職場における息抜きを要する講師達の疲労の種子となって、皮肉を通した精神的暴力、あるいはその陰陽の裏を返した被虐へと結実してゆく有様だった。それは聖職者の皮を被った経営陣によるノルマや体裁を重視する体質に、そのような講師陣にも慇懃尾籠な私怨が満ちてしまっていたからである。  文系の主任職員を担う、橋元勲はそこで鍛え抜かれて生き残る数少ない勇士の一人であった。橋元は今朝もランニングをして、積もり積もった怨みを運動によって昇華し、颯爽とした面持ちで職場に現れた。 「おはようございます。」  塾という一企業は昼から始業することが多く、昼にも関わらず朝の挨拶をしてから仕事が始まるのである。他の職員が非感情的な挨拶を交わし合い、塾らしい怜悧な、理性的な空気の中で一日が始まるのであった。 「山田先生、Sクラスの大崎先生の物理の授業、明日の三時半から104号室でお願いします。大崎先生、ちょっと体調が優れないそうで」 「…。…はい、了解しました」  総務の花池令子が明日の授業で使われる冊子を渡しに山田の元に持って来た。山田は彼女の急な申し出に一瞬断ろうかと思ったが、何せ仕事である。出来る限りの努力をしても些細な失敗をすれば仕方が無いし、それもこれからの糧になると考えて、当たり前に了解した。しかし、そこには令子がこの職場では数少ない柔和な慈悲の持ち主だったということもあった。温かい笑顔でその様に頼みごとをされると、男性である山田にとっては断りの利かない温情のようなものを覚えて承諾するしかなかったのである。彼女は職場の縁の下の力持ちであり、社内の人間関係を正確に把握する心の柔軟さと強さがあり、山田には職場の華のように見えていた。だが、休憩時に肩の力を抜いて会話をする際には、ドロドロとした女特有の愚痴が混じることに、一部の男性社員は目の敵にしていた所もあった。  山田は学生時代にも令子に似たような女性、クラスメイトから浮ついたような感じがあった華のある女性が居たことをふと思い出す。そして、右手は製図用のシルバーのシャープペンシルで、冊子の中をざっと目を通し不明だと思われる部分に×印をつけて、今夜の酒の肴にしようと心に決めた。 「おぃ、採点間違っているじゃないか。」  経営陣筆頭の翁、重田正太郎が山田を背から叱った。彼が振り向くと眼鏡に手を掛けて山田を凝視している。 「あぁ、本当だ。すみません。もう一度やり直しますね」  山田は無感情にそれを受け取り、黙々と採点をやり直した。手元には六時十分から始まる、古典の授業のノートがまだ未完成のままだった。再び採点を終えてから重田に渡すと、納得した様に受け取り、しばらく目を通し始めた。 「また間違っているじゃないか、いい加減にしろ!」  再び重田が背から山田にその様に罵声を浴びせた。隣で近江が山田を只、見ていた。その時、山田には心の中に備え付けられていた防波堤、即ち祭事に使うための日矛鏡のようなものが割れたように感じた。脳天を透明な冷気の様なものが突き上げてキーンというような静寂さを覚えた山田が振り向くと、憤怒というよりも憎悪に近い、赤黒い狸の様な形相をした重田が彼を今にも殺してきそうな顔で睨んでいた。 「…。あぁ、計算機使って計算したから、間違えたんですかね」  山田は無意識にそのように言っていた。この春、私立中学受験に挑みゆく戦場の子供たちが書いた血肉の答案を再び彼から受け取り、手計算で全ての採点をして、三回も見直しをしてから、間違いの無いことを“確かに”確かめてから、怒って居なくなった彼の机の上に丁寧に置く。  そのような日々を送る山田の本日の授業は散々だった。言葉が出てこないというか言葉に詰まるというか、削がれた心の肉片の残骸が、知識の貯蔵庫であるイデアの源泉が湧きあがる管を塞いでいるかのような、凍って生きたまま死んでいるドライフラワーのような、彼の実存的なる佇まいは細々とした“翁”の声で古典の授業を終えた。そのせいか、山田の授業を聴講している生徒たちも、必然的に山田の佇まいに合わせなければならないと察したのだろうか、静寂な張りつめた空気の中での六十分となってしまったのである。  自分の気持ち、それは感情などと向き合っている暇のない終業後の馴れの果てに、ぐったりとして生気を奪われたかのような山田は、帰り際いつものコンビニに寄って缶コーヒーを一本買う。缶コーヒーを飲みながら、目の前の路上で寛ぐ縞々模様の子猫を眺めながら、「おまえさんは、いつもそこでそうやっているね。」と心の中で尋ねた。これは自分への戒めではないのかと、山田はその言葉を自分自身に対して反芻しながら、帰路へ着いた。  ある日、新しく就任していた代表を交えた人事の会議があり、職員の編成に大規模な変化が起こる予兆の微薫を漂わていた。講師陣筆頭の大先輩、六十位の文系の近江恒吉が積年の“功績”を称えられながら、退職に追い込まれそうな様相を呈している。その代役に配置されゆく運命の者、それは誰であったかは定かではない。山田は文科の華であったその厳しい彼をいつも内心で慕っていた。しかし、その功績が独りよがりなものであると周りの理解の浅い政治家から疎まれ、現場で彼を心から支える者は女の華道である令子を除いて、誰一人として居なかった。孤独の走者は、最後に栄光の帯を切ってゴールするかと思いきや、経営陣の策略にまんまと嵌り、使い捨ての華札のようにして終えることになるとは山田もその時は思わなかったのである。  山田はそれを訝しげにみていた。内部の空気がこの半月で急変してゆくように思えたが、社内の細々とした枝葉末節の出来事でそれはかき消されているかのように忙しく泡立って消えてゆく。  丁度その頃、若手代表とその妻が、社内で何か揉めていた。古株の橋元がそれを察知してたのだろうか、何か陽気な囁きでそれを皮肉っていると、若手代表が墨色の仏頂面のまま橋元にこう言った。 「…橋元先生、死んだらいいんじゃないですか?」  社内はその時、微動だにしない蔵の中の空気のように凍てついた。山田は、大崎健太という文科系の講師と事務をしていたのだが、大崎は口を開けて唖然とし、山田はただそれを茫然と眺めていた。  その日から橋元はあまり喋らなくなった。沈黙しているというより、沈降している雰囲気が山田の心の目には見て取れた。  物の怪が跋扈するこの渦中で、中立的な立場に居た山田は一刻も早く仕事の中心人物になり偽政を拭わねばならかったが、元来の真面目な性質ゆえか、地味な若手とあって若手同僚の肥溜めみたいになってゆく。戦場ではなんらかの生贄が必要なのであろう。それは戦士のための慰安婦の必要性に対する欺瞞のように、それは善人が悲涙するための葬儀の欺瞞のように、供物を食い散らかした後に天に捧げることによって、己の安全欲求を満たすための精神安定剤に他ならない。それは古今から行われている原始宗教の血生臭い儀式の名残に違いないのだった。  その後日、山田が深夜まで残ってある教室の清掃をしていると、その橋元が教室の壁の向こうにある便所で唸り声を上げて呻いていたのを聴いてしまった。積り積った怨念の塊が、橋元の喉から密教の儀式に使われる歌、あるいは御真言のように絞り溢れ出る様子が、山田の目前に蛍光色の幻影のように現れては立ち消え、現れては立ち消えを繰り返したように想えた。また、近江が辞職を迫られている近況は、あの令子の柔で逞しい子宮のような心を深く悲哀が突き上げたようで、ここまで近江と共に築き上げてきた社内の歴史、思想、人間ドラマを終結させなければならないとなっては、丹念に扶育された丸い真珠のような暗涙が零れおちてゆく姿を山田はその夜、一瞥せずには居られなかった。  山田はこの日の夜、眠ることができなかった。明け方に聞こえた烏の鳴声は、祇園精舎の鐘の声に聞こえたのは決して気のせいではない。そして、近江と令子は仕事の閑散期を狙って有給休暇を取り、幾ばかりかの旅行に出た次第であった。
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