純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号277 『椅子』  目を悪くした以外は、いたって普通の人生だったと思う。今、私はこれを書いているわけではない。字が見えないからレコーダーに録音している。隣には妻がいて、妻と私は椅子に座っている。まだ世の中がはっきりと見えていた頃、二人でこの椅子を選んで買った。椅子の選び方を知らない私達は色だけでそれを買って、後悔した。私達が買った椅子は外国製で、足は長く、背もたれは高く、まっすぐだった。お互いが座り、不恰好な姿を見て、お互いが笑った。座ると背中が痛くなる椅子は部屋の隅に追いやられ、やがてそこに時計を置くようになった。時計は妻が持ってきた物だった。歌のような、古く、大きな時計は、出会う前に妻が買った物だった。椅子にもたれかけて置くせいで、時計はすぐに止まった。生活をしていく内に、隅へ隅へと追いやられる椅子と時計は、いつの間にか、動きをとめたままになった。  妻にとって、時間というものは、それほど重要なものでは無かったのだろう。考えてみれば、妻は生活のほとんどを、時計が無い部屋で過ごしていた。私が仕事をやめ、目を悪くし、家にいるようになってから、妻は部屋の整理をして、時計の振り子を毎日揺らすようになった。それは、暗闇に慣れない私が、毎日時間をきくからだった。 「ちゃんとした、時計をかいましょうか?」 妻はよく私にそう聞いた。 「朝なのか夜なのか、それだけわかればいいんだ」 そのたび、私はそう答えた。  晩年の妻は、毎日ゼンマイを巻き、振り子を動かすだけの人になってしまった。全てが私のせいだった。もちろん私もゼンマイを巻く事くらい出来る。しかし、朝決まった時間に妻が巻く時計の音が、私は好きでそうしまかった。。 「今、何時なんだ?」 「夕方の四時ですよ。もしかすると、雨が降るかもしれません」 「そうなのか?」 「ええ、空の色がかわりました。洗濯物とってきますね」 何も無い、ゆっくりとした、死んだような時間はとてもゆるやかに進んで、私を苦しめていった。 「ねえあなた。この椅子を買った時の事を憶えていますか」 いつかわからない、時間もわからない。妻が私にそう聞いた事があった。 「憶えているとも」 私はそう答えた。私は本当に憶えていた。 「あの日、私はとても楽しかった」 「そうなのか」 「ええとても。とても楽しかった」 「すまんな」 「こんな大きな椅子を買って、どうするのかしら、と思ったのよ」 「言わなかったじゃないか」 「ええ。私も二人で座れる椅子が欲しかったから。でも残念なのは」 「何だい」 「写真でも撮っておけばよかったと思って」 「今からでも撮れるじゃないか」 撮った写真をもうあなたは見ることが出来ない。妻はそれを言わなかった。 「今、何時だ」 いつものように私は妻にそう聞いた。返事はなく、部屋を歩いているときに、躓いてしまった。時を知らせるその音で、時計だと気付いた。私は手で時計を探りながら、妻の名を呼んだ。  返事はやはり無かった。部屋の壁を頼りに歩いていくと、椅子の上に妻を感じた。 いつかはこんな日がくると思っていた。 出来るなら、私が先に逝きたかった。 私の時計が壊れてしまった。私の時計は、椅子の上で動くのを止めてしまっていた。 私は妻の手を持ち、振り子のように、右へ左へと揺らしてみた。 「あなた、朝の八時ですよ」 妻はそう言ってくれなかった。 今何時だ。今は何時だろうか。私は妻の手を握ったまま、隣に座った。まだ温かい手がそこにあった。 「写真でも撮っておけばよかったと思って」 ある日ある時間そう言った、妻の声を思い出していた。  私にはもう、写真を撮ってくれる友人もいないんだよ。そう言った時の妻の顔はどんなふうだったのだろう。私の目はそれすら見えなかった。  部屋の中はとても静かだった。とても、とても静かだった。 私は時計を椅子の上に立てかけた。妻の横で時計はまた動きだしたようだ。 ちくたくちくたく。 レコーダーにこの音は入っているだろうか。 私は妻と、時計の横で座った。背中が痛くなってもずっと座っているつもりだ。 歌のように古く、大きな時計はもうすぐ動きを止めるだろう。最後の振り子を、妻がいつ動かしたのか、私は知らない。 「あけぼの/椅子」
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