純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号274 『サーカス』 夜遅く逃げたライオンはしばらくどこかに消えていて、夕方学校の運動場に現れた。 オレンジ色に染まる教室の中から僕達はその痩せた雄ライオンを見ていた。 「それにピエロもいなくなったんだって」 「食べられちゃったの?」 「違うよ、逃げたんだ」 そんな話をしているうちに、ライオンはあっけなく捕まってしまった。緑のネットの中、銃で撃たれたライオンは眠ったか、それとも死んだ。 「ライオンとピエロがいなくなったんだ。ライオンを逃がしたあと自分も逃げたのかな。こまったもんだ」 朝、学校へ行く車の中で父親は僕にそう教えてくれた。  市役所に務めていた父は、何も無い街にサーカスを呼べた事が自慢で、この出来事に本当に困惑していた。 「ライオンが捕まるまで、家に帰れないかも知れないな」 車の中でそう言った父親は、その日の夜家に帰ってこなかった。 「ライオンは捕まったのに何で帰ってこないの?」 夜の十時頃、眠たくてしょうがない僕は母親にそう聞いた。 「ピエロが捕まらないんだって」 母親はそう言うと、さあもう寝なさいと僕を隣の部屋へ連れていった。  ライオンとピエロ。真夜中にばったり出会うとしたらどっちが怖いだろうか。布団の中でそんな事を考えながら眠ろうとした。飛んだり跳ねたりしながら赤い鼻をしたピエロに追いかけられて食べられる。そればかり想像して僕は布団に潜り目をとじた。ライオンの事は忘れていた。   「ピエロは結局見つからなくてね。どこかに行っちゃったままなんだ」  娘を寝かしつけながら私は小声でそう言った。妻に似て目と口が大きく、少し丸顔の娘は「ふうん」と言って聞いているのかいないのか、眠そうな声でそう言った。 「もし真夜中にライオンとピエロに出会うとしたらどっちが怖い?」 「わからない」 「おとうさんはピエロだと思うんだ、だってね」 「子どもが寝る前に怖がらせてどうするの」 娘をはさんで寝転んでいる妻はそう言うと「ピエロなんか怖くないもんね、ライオンさんも檻の中にいるから大丈夫よ」と、娘の髪をなでた。 「電気は消さないでね」 娘が目を強く閉じ、布団にもぐると、「ほら」と言って枕ごしに妻は私を見た。  久しぶりに逃げたピエロの事を思い出したのは、娘が学校から借りてきた本のせいだった。表紙にはピエロの顔が大写しに印刷されていて、正面を見て泣いていた。 その本はいつまでもリビングのテーブルの上に置かれたままで、何日かたってから「本、全部読んだの?」と私がきくと娘は「もういいの」と答えた。 「せっかく借りたのに?」 「だってお父さんに聞いた話しと同じなんだもん」 「ライオンが逃げるの?」 「うん。ライオンも逃げるしピエロも逃げるよ」 私は本を手に取り、作者の名前を見た。教室にいた誰かが書いたのか、あるいは逃げたピエロが書いたのか。そう思ったからだ。作者の名前に見覚えはなかった。 「それでピエロはどうなるの?」 私は娘に本を見せながらそう聞いた。 「見つからない」 ランドセルを背負い、靴をはきながら娘はそう答えた。 「待ちなさい」 そう言って妻が私から本を取り上げると「返さなくていいの?」と言ってピエロの本を娘に見せた。 「明日返す」 娘はそれだけ言うと玄関を出て行った。 「最初にライオンとピエロの話が出てくるのよ、あの子そこだけ読んで飽きちゃったみたい」 娘を送り出した後、妻は私にそう言った。 「ピエロみつからないんだってな」 「同じね。それよりもあなたでしょう?その本をひっくり返すの」 私は最初何の事を言ってるのかわからず「ひっくり返す?」と聞き直した。 「まだ怖いの?ピエロ」 「何の事だい?」 「私見てたのよ、あなたその本のそばを通るたびピエロが見えないように裏返してたでしょう?」 「そんな事してたか?」 「覚えてないの?」 「たまたまだろう」 妻は私の顔をじっと見て、珈琲を少し飲んだ。 「会いにいこうか?今日あの子授業長い日だし」 私と自分の珈琲カップを洗いながら背を向けたままで妻はそう言った。 「会いに行くって誰に会うの?」 「ピエロよ。私、居場所を知ってるの。捕まった後、入院したのよ」 手をふき、まわりを片付けると妻は車のカギを壁から外した。 「探したんだから」 そう言う妻は、私を連れて玄関を出た。  本の表紙のピエロが目の前にいた。本当のピエロだった。 ピエロはピエロの服を着たままでベットの上に座っていた。 「あの本を書いた人にあいに行く」 車の中で妻はそう言った。 「逃げたピエロかどうかはその人に聞けばいい」 「僕はべつにピエロなんて気にしていないよ」 「いいのよ」 「よく分からないな」 「いいの」 彼女が向かった病院は私の知らない場所にあった。 「あなたがずっと私を探していた方なのですね」 ピエロは私をベッドの前に呼び、そう言った。私は妻の顔をみた。妻は何も言わなかった。ピエロはじっと私の目をみたまま「探していました」と言った。 「ライオンの檻の鍵を誰かが開けていたのです。私が目をさました時、すぐそばにライオンがおりました。ライオンはいつもお腹をすかせていますので、食べられると思った私は一目散で逃げたのです。しかしどこまでもライオンは私を追いかけてきます。もう駄目かも知れない、そう思ったとき、眠ろうとするあなたが見えました。隠れよう。そう思った私はあなたの頭の中に隠れる事にしたのです。おかげでライオンが運動場で捕まるのを見る事が出来ました。ああもうこれで大丈夫だ、そう思って私はあなたの頭から出たのです。ところが頭から出たあと何故か調子が悪いんです。鼻を忘れた事に気付いた時、もう朝が来ていました」 ピエロが私の目をみている。一度も視線を外さない。壊れているのだろうか。妻は私の手にそっと自分の手を添えていた。 「今でもあなたが私を怖いのは、その鼻のせいなんですよ。いやいや本当にもうしわけない。今すぐ頭の中から鼻を取りますので」 ピエロはそう言うと私の頭の後ろに自分の手をまわした。 「ほら、怖がらないで、じっとして」 私は頭を両手で囲われ、息が止まりそうになった。 ほらこれだと言われて私は目をあけた。ピエロの手の上に、赤色の丸いスポンジがのっていた。 「これでまずは大丈夫です、後は頭の中にぽっかり穴が空いてしまったのでそこをうめちゃいましょう」 ピエロはそう言うとベッドから立ち上がった。 「逃げたピエロなんですよね?」 妻がそう言うとピエロは鼻を付け替えながら「ええ、ええ、もちろんです」と答えた。 「もう私、出ていきましたから。さようなら。また逃げないと」と言って部屋を出て行ってしまった。 「ライオンとピエロ。真夜中に出会うとしたらどちらが怖い?」 「ライオン」 「正解」 いつか本当にそう思える日がくればいいな。夜中、本を読みながら私はそう思った。  娘の借りた本の真ん中あたりに、今日出会ったピエロの写真がのっていた。ピエロの格好をして子供達を診察する先生の顔は笑っていた。 「ピエロの本、読めるようになったのね」 「頭に穴があいちゃったけど」 「ピエロさんにもらった薬飲みなさい。赤と黄色を一つずつよ」 妻の小さな手の上の薬を手にとり、私はそれを口に含んだ。 薬を飲んだ後、急に眠くなった。こんなに眠くなったのは久しぶりだな、そう思いながら私は隣で眠ろうとする娘の枕の横に本を置いた。 「明日、忘れないように返すんだよ」 私がそう言うと、娘は「うん」と言って布団にもぐった。 「ねえ、おとうさん」 「ん?」 「私はやっぱりライオンさんより、ピエロさんのほうが怖いかな」 私は、娘の布団の中に手を伸ばし、小さな手をそっと握った。 「サーカス/あけぼの」
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