純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号272
『むぐらの宿の女』
梅花香が燻ぶっています。
さっき末の兄が訪れて、大宰府から届いたという唐の品々を置いていきました。切らしかけでしたから、殊に白檀が嬉しくて、侍女の鈴緒が沈香などと練り合わせ、袿(うちぎ)や単衣に焚きしめているところです。
庭の梅も今が見頃、じきに鶯も鳴きましょう。
「もうし」
小路からの呼びかけです。鈴緒が目配せして、振分け髪の小童を使いに遣りました。
「木戸から出やればいいものを」
生垣の柘植(つげ)がまばらな辺りから、ささっと抜けていく後ろ姿に、鈴緒は眉をひそめました。
「小童には、ちょうどいい近道ゆえ、しかたないでしょう」
執り成して、御簾のすきから覗いてみました。
低く傾きかけた垣根の向こう、小童と遣り取りする従者のかたわらに、すっきりした狩衣姿の方が佇んで、涼やかな目をこちらへ向けています。
小童は帰りも生垣を抜けてきました。
文を手にしています。趣きのいい萌黄色です。ところがなんのおふざけでしょう、今時分の恋文なら鶯めかして紅梅の枝にでも結びそうなものを、添えられた飾りといいましたら、ひじき藻ではありませんか。これには鈴緒も口をあんぐり、わたくしも黒藻を手に取り、吹き出してしまいました。
折り畳まれた紙をほどきますと、業平と記されています。
鈴緒も覗き込んできました。
「ほう、在五殿でありますか」
頭の硬い鈴緒でさえ、業平さまの御名には目を引かれたようです。業平さまは在原氏の五男、歌を詠まれても、狩りをなさいましても、在五殿には惚れぼれしてしまうとの御噂、気になる方でした。
――思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも
「ようわかりませぬのう」
鈴緒は頻りに首を捻っています。〈ひじき藻の〉を〈引敷き物〉つまり褥(しとね)に掛けてあるのがわかりづらいのでしょう。思いがあるなら、うらびれた宿に寝もしよう、夜の褥には袖をしながら――改めてひじき藻に目を遣りますと、頬が赤らんでしまいそうな歌です。
紅い花までは望みません。こうして黒藻に寄せてでも、在五殿から恋文をいただけただけでも嬉しく思うべきでしょう。
鈴緒にはうそぶいておきます。
「ひじき藻がお好きで、おいしい夕餉にされたら、むぐらの宿でもお泊りになるのでしょう」
「ほんに可笑しな歌にございますなあ」
独り言を装いながら「御歌を返そうかしら」と、鈴緒の顔色を窺ってみました。
ああ、やはりです。いさめるような目をして首を横に振り、鈴緒は庭先に降り立ちました。そして、生垣の向こうへ深々と御辞儀したのでした。いつも御断りばかり、きっとわたくしは、どなたもお迎えせずに年を経ていくのでありましょう。
たいていの方なら、頬が強張るとか、肩を落とすとか、従者に八つ当たりでもしそうなところです。されど業平さまは会釈を返され、にこやかに立ち去っていかれます。御簾に隠れて、目で追いながら、わたくしは大きな溜息をつきました。
さりげなくて、なんと気取りのない方でしょう。折角いらしてくださいましたのに。
寝床に就きました。
鈴緒たちが下がっていきます。
薄い紅の単衣から梅花香が匂います。とても眠れそうにありません。廊下の気配に耳を澄ましました。足音が遠ざかり、やがて消え果て、しいんと静まり返っています。
わたくしは起き上がりました。
今宵は十五夜、庭から月明かりが差しています。あれから直ぐに鈴緒がしまった萌黄の紙、業平さまの文を漆の箱から取り出しました。机の上に広げてみます。
滑らかでありながら頼もしい筆の運び、口ずさんでも、『寝もしなむ』そして『しつつも』の軽やかさ、さすがです。もしも今ひとたび歌を贈ってくださいましたなら、いくら鈴緒にたしなめられても、きっとお返しいたしましょう。
硯に水を差します。そしてこしこしと墨を磨り、返せなかった歌を思い描いていきました。
互いの袖を夜の褥に敷くのなら、うらぶれた宿も、玉の御殿に見えましょう。
――ひじきもの袖しくらむと寝にければむぐらの宿も玉にしくらむ
恥ずかしい気もしますけど、ほんの真似ごとですから、これでいいことにいたします。さっき末の兄からもらったばかりの唐紙の中から、浅蘇芳(あさすおう)を選びました。
どんなふうに散らしましょうか。初め太く、しだいに細く、『しくらむと』まで一気に流しましょう。
筆を執りました。『寝にければ』は下の方に、そう、この辺りは浅蘇芳の余白にしておいて、『むぐらの宿も』は上の方から引き立つように。『玉』で行を変え、心もち下目から、ぐっと強め、仮名はさらりとつなげても、『む』は結び、こうして形よげに膨らませてから終いの点できちんと留めて……これでどうでしょう。
筆を置き、机を片付けました。
乾くまで畳めません。紙を手にして寝床にすわり、届くことない恋の歌に見入っておりました。
去りぎわの笑み、遠ざかる後ろ姿が目に浮かびます。されどきっともう、いらしてはくださらないでしょう。虚しくなり、手から力が抜けて、浅蘇芳の紙がぱらりと落ちました。
ちょうどその時です。
「こんばんは」
はっと立ちました。
「夜の梅は格別であるな」
庭を見遣ります。なんと、たった今思いを馳せていた方ではありませんか。
紅梅のかたわらで明月に照らされています。
「だが、冷えてきたぞ。中へ入れてはもらえぬかなあ」
上がっていただいたものの、月の影が几帳に透けて、青い暗がりにふたりきりです。潤んだ目で見つめられますと、胸の内は遣る瀬なく、どうしていいのやら。
業平さまは、左右の袖でわたくしを包み、かけ布のごとくかぶさりながら褥に横たえました。そうして、御口が耳に触れたとき、吐息のごときかそけき声で「目を閉じておられよ」とささやかれたのでございます。
衣ずれの音で帯がほどけ、はだけたところへ御顔が降りてきます。こっそり息を呑みました。
どうぞよしなに……されどそこは、いえ、なされるように。
業平さまの薫物(たきもの)でしょう、黒方(くろぼう)から、ひときわ麝香(じゃこう)の匂い立つような、たぐい稀なる芳しさが漂い続けておりました。
妖しげな心地になってまいります、なにやら喘ぎたくでもなりそうに。声を漏らしのけ反りますと、頼もしい腕に背を巻かれ、ぐっと引き寄せられました。
連理の枝のように、ふたりひともとに揺られ、比翼の鳥となって、天へ昇っていきます。
とろけてしまいそうです。
羽ばたきが極まったとき、じんわり凪いでいきました。それきり動けなくて、静かに抱かれておりました。
淡い光がさらさらと差しています。
「ほう、これは返し歌ではあるまいか」
業平さまは、浅蘇芳の紙に気付かれたのでした。
御手に取られまして、月明かりを頼りに、墨の跡を目で追っています。わたくしは、厚い胸に頬を寄せまして、その目許に見惚れておりました。
「いい歌だ。かなり、たしなまれるであろう」
「歌は好きです」
「やはりな。好きな歌詠みは」
「額田王とか、家持とか。業平さまは」
「人麻呂、赤人あたり、唐詩なら李白に極まろうな、黄鶴楼から見晴らす長江の眺めは絶景だ」
そこで業平さまは、くりくりした笑みを浮かべました。
「うん、ではひとつ、当ててみせよう。白居易、好きであろ」
長恨歌でしょう。うっとりした心地が甦ってまいります。
「それはもう、比翼の鳥と連理の枝ですもの」
見つめ合います。
「ひと夜の契りにしとうはない」
「嬉しゅうございます」
「そなたの父君のように大臣(おとど)にはなれぬぞ。政(まつりごと)に煩うことなく、心のままに生きたいのだ。しながい官人で終わるであろうが、それでもよいか」
「ずっとおそばに居とうございます」
髪に頬ずりされました。
朝の光にゆるゆると目が覚めてまいります。
あれは寝て見た幻でしょうか。いいえ、心なしか麝香の濃く匂う芳しい黒方、業平さまの残り香がわたくしの梅花香と絡み合い、褥に沁み付いています。
かたわらに、鈴緒がすわっておりました。
「えも言われぬ匂いがいたしますのう」
どう答えたらいいのでしょう。それきり言葉も交わさずに、身支度を整えました。
髪を梳かしながら、鈴緒は再び話しかけてきます。
「昨夜のこと、お忘れなさいませ」
「どうして忘れねばならないです」
「いつか、いい御縁がありましょう」
「お慕いしているのです」
小童の持つ丸い鏡の中で、鈴緒と目が合いました。
「在五殿は、女人にいい夢を見せてくださいましょう。されども、夢というものは身を滅ぼしますもと、惑い溺れませんように」
十六夜から、立ち待ち、居待ち、そして寝待ち、しだいに月は遅く出て、寂しいことに欠けていきます。夜の床で思うのは業平さまのことばかり……なのに、いらしてくださらないのでした。
更け待ち月が昇っても、わたくしはひとり、眠れない夜を明かしました。
朝からずっと気が沈み、鈴緒の言葉がよぎってなりません。いい夢は忘れろと、色好みの浮き名を気にしてのことでしょう。されど、「ひと夜の契りにしとうはない」、あの御言葉を信じていたいのです。
ほんの戯れで、次のおとないはないとしたら……いえ、さようなはずはありません。
どうかいらしてくださいますように。
「春らしゅうて、いい声ですねえ」
鈴緒でした。
「ああ、鶯のこと」
さっきから、庭で鳴いているようでした。
「なんだか、うわの空でございますなあ」
顔を向けてきます。
「こちらへ通いたいと、在五殿がいらしたそうな」
嬉しくて、笑みがこぼれます。
「なら、今夜はおいでかしら」
一緒に喜んでくれてもよさそうなものを、鈴緒はにこりともしません。
「しかれども、丁重にお断りされたそうで」
「え」
耳を疑いました。
「いよいよ東宮さまの御后に本決まりとのことです。大臣さまもたいそうな御喜びようで、これはもう比べるべくもなかろうと」
心が真っ暗になり、凍り付いていきました。業平さまと添い遂げたい、たったひとつの願いが叶わなくては、后の位もなんになりましょう。
父は、その日のうちに、西二条の家から、高い築地塀の廻らされた東五条の屋敷にわたくしを移しました。伯母にあたる皇太后さまの御住まいです。
しかも、忍び込めないように、兄たちが交代で見張りに立つということでした。
娘の入内を願うのは、父の野心でしょう。男皇子を授かり、帝に立てて、祖父として国の政を動かしたいだけなのです。こちらの心など汲もうともしないで、后になれたらよもや文句はなかろうと、ほんの上辺のことばかり、それが親の心と申せましょうか。
お逢いできないのなら、生きておりましても辛いだけ、業平さまのいない歳月を長らえますことなど、どうしてできましょう。
昼の日なかも寝床に伏せり、ふた月あまり、いえ、もっと過ぎましたでしょうか。
「鈴緒、内密にしておくれ」
末の兄の声です。
「さようなことは……」
廊下で揉めているようでした。
「されど、このまま伏せりきりではのう」
ややありまして、
「いかがなされた」
枕辺にかがみこむように、髪を撫でてくれたのは……業平さまです。
「鈴緒、我らはまいろう」
足音が遠ざかり、ふたりきりになりました。
「熱でもおありか」
身を起こします。向かい合わせになりました。
「お逢いしたいのに、逢えなくて」
「こちらとて、せめて、ひと目でもと……」
そこで遮りました。
「ひと目では厭」
業平さまは唇を引き結び、心もち目を曇らせ、すぐに笑みを浮かべました。
「兄君のお陰で、こうして逢えたのだ。このひとときを大切にいたそう」
いえ、今を逃しましたら、何も叶わなくなりましょう。
「業平さま、どうか一緒に、お連れくださいませ」
御答えはなく、宙を見つめ眉根を寄せていらっしゃいます。
「お願いです」
重ねて声を掛けました。業平さまは、こちらの両肩に手のひらを置かれ、目を覗きこんできます。
「都を捨て、遠い最果ての地まで逃げる覚悟はござろうか」
「思いあらば、むぐらの宿にも寝ましょうものを」
袂に包まれました。わたくしは髪ごと抱かれ、身をゆだねていきました。
日暮れが迫っています。どこまで来たのでしょう。歩き慣れないこの足に合わせてのことです。そう遠くもないのは確かでした。
せせらぎの音がします。
「後少しで、芥川の岸に着くぞ」
知らない川です。
ふたり並び水辺に立ちました。背の後ろから傾きかけた日が差しています。
わたくしたちの逃げたことは、すでに知れているはずです。じきに追っ手がやってまいりましょう。ふっと、草葉のおもてが目に入りました。
丸いしずくが今にもこぼれかけています。
「白玉がふたつ、ほら、ひとつになって落ちていくわ」
引き裂かれるくらいなら、いっそここで……。
「命は儚い」
静かな声でした。横顔を見遣ります。業平さまも水辺の草を見つめていました。
「さればこそ、悔いなきように」
こちらへ御顔を向けてきます。
「向こう岸に乳母の家がある。まずはそこへ逃れ、旅の支度をいたそう」
目と目が行き合いました。頷きますと、肩を抱かれました。背凭れます。
「沈む夕日は背にしてな、吾妻の国をめざそうぞ」
川岸の彼方、東の空は西日を受けて仄かに明るみ、地平に浮かぶ雲の筋は紫がかってみえます。わたくしは、遠い国へ夢を馳せていきました。
夕焼け色のさざ波を渡り、小舟が近付いてきます。そして、すぐそこの岸辺に泊りました。
ひとりの男が降り立ちます。
「あちらへ渡りたいのだが、舟を出してはもらえぬかな」
「今宵はもう、日が沈みまする。明日の朝、おいでなされ」
「泊るあてもない。どうしたものかなあ」
男は、雑木林の方へ顔を向けました。
木々の狭間を縫うようにして、細い道が奥へと続いていくようです。
「その先に神主のない社がある。これを一本持っていかれよ」
そろそろ残照も消えてしまいます。松明をくれるとは、なんと気のつく男でありましょう。
「かたじけない。では、明朝、頼むぞ」
林の道に踏み入ります。
湿った朽ち葉で足が滑り、ゆっくり進むしかありません。暗がりで木の根に躓き、とうとう倒れてしまいました。
「もう、歩けぬであろう」
業平さまは、わたくしを背負ってくれました。
「そちらもお疲れですのに」
御ぐしに頬を寄せました。衿元の黒方から麝香が匂い、ほっと安らいでまいります。
「これしきのこと。それより寒くはないかな」
「いいえ、御背中、ぬくとうございますゆえ」
ようやく、崩れかけた石の鳥居まで辿り着いたときには、夜空にくっきり三日月が見え、沈みかけておりました。
境内は鬱蒼とした竹藪に囲まれています。周りに人家もありません。風が吹くと笹葉がざわめき、参道は草茫々、奥まった社は古び、いかにも恐ろしげです。
御肩にしがみつきました。
ゆっくり中へ入っていきます。床がきしみ、うす汚れた天井が松明の炎に照らし出されました。お供えもない祭壇は傾いでいます。
「おう、なんとここは、むぐらの宿ではないか」
いかにも楽しげな声音でした。わたくしの心も晴れやかになります。御背から降りますと、業平さまは、祭壇の燈明に火を灯もしました。
「歌が真になろうとはな」
「はい、玉の御殿でございます」
ひとつ竹筒から、かわるがわる水を飲みますうちに、なんだか浮きうきしてまいります。
「この粟餅、なかなかいけるぞ」
「はい、干し芋も」
道すがら手に入れた、菓子のようなものしかありません。しかも業平さまは、みやびなことを口になさるでもなく、何かにつけて戯れ言ばかり、こちらの頬も綻んでしまうのでした。
どこかで犬の声がします。
業平さまは、すくっと立ち上がりました。
「野犬が近寄らぬよう、外で焚き火でもしよう」
「では一緒にまいります」
「慣れない足では疲れたであろう。明日も歩くことになる。そろそろ寝たまえよ」
さりとても、こうしてひとり残され、中を見回しますと、やはり社殿はうす汚れ、横たわる気にもなれない荒れようです。
わたくしは柱に凭れておりました。
竹藪がざわめきだしています。
「おうう」
何やら風に木霊していきます。
「にやぁ」
負うにや……まさか、人の恨み負うにや、天の逆手に両の甲を合わせ、闇夜に唱えるという呪いの言葉。
灯し火が揺れ、真横に傾き、吹き消されました。
「今こそ、見め!」
言い放ち、呪詛が止みました。
雷が鳴りだしています。古い社は、いかずちの光に晒されながら、はたはた震え、今にも壊れんばかり、
「うわっ」
板が飛ばされました。
「業平さま」
声のかぎりに叫んでも、雨交じりに吹きすさぶ風に掻き消されてしまいます。いったい誰の呪い、それとも死霊、もしや夜行する物の怪……どこに潜んでいるのでしょう。壁にも、天井にも、妖しげな光と影が這い、怨嗟のようにうごめいています。
天地も砕けん、凄まじい音が轟きました。
いきなり頭から叩き付ける雷鳴に、身が竦み、はっと気づくと屋根がありません。
ぎざぎざと稲妻が黒い空を切り裂いていきました。
絶え間ない、いかずちの音、閃く光を背にして、山のように影が現われます。鋭い双の角、血走った目、牙を剥いた口、鬼です。襲いかかってきます。厭、ああ、なれど声が出ません。
かっと睨みました。
「ひと口に喰ろうてやる」
顎のしゃくれた、烈火のごとき形相です。大きな赤い手が目に迫りました。動けません。
掴まれます。ぎゅっと瞑りました。
どうしたことか、それきり何も起こりません。
いかずちの音もなく、いつのまに風が止んだのでしょう。しいんと静まり返っています。
恐るおそる目を開けてみました。
穏やかな明るさでした。燈明も灯っているようです。悪い夢を見たのでしょう。
ほっとして、息が治まりました。
人の気配がします。仰ぎ見ますと、末の兄、後ろには鈴緒まで控えているではありませんか。
「うなされていらっしゃいましたなあ」
鈴緒がしゃがみ込み、背中をさすってくれました。
「どうしてここに」
「舟人から聞き及びました」
川辺にいた男でありましょう。口止めしておくべきでした。
「されど、外に業平さまが……」
「裏手からまいりましたゆえ」
早く逃げなくては……立ち上がろうとしますと、兄に肩を抑えられました。
「誰にも知らせてはおらぬ。まずは、話を聴いておくれ」
すわり直し、兄と向き合いました。
「そなたたちが逃げたこと、鈴緒の里にいることにして、伏せてある。今はまだ、我らふたりしか知らぬが、いずれ他の者たちも気付くであろう。皆の知るところとなり、追っ手がかかれば、どうなるか考えてみよ。在五殿ひとりならともかくも、女連れでは逃げおおすことなど叶わぬぞ。なあ、その前に戻っておくれ」
「厭です。どこまでも業平さまについてまいります」
「生木を裂かれんばかりの辛さ、わからぬではない。たったひとりの妹だ。その思い、叶うものなら叶えてやりたい」
兄は困り果てた顔をしています。
「なら見逃して」
わたくしにとりましても同じ母腹の兄はたったひとり、「兄上、お願いですゆえ」と妹への情にすがりました。
されども兄は、胸で大きく息を吸いながら、あらぬ方へと目を逸らしていきました。そうして背筋を正し、戻した顔からはもう、温かみは失せていました。
「后をかどわかすは帝への大逆」
押し殺した声の響き、言葉の重さにたじろぎました。
「そなたは東宮の后と決まった身、どこまで逃げようと、諸ともに捕えられ、在五殿は厳罰に処されるであろう。手引きした我が身も、鈴緒とても責を問われよう。そればかりではないぞ。父君も、いや、兄上方まで位を失うことになる。そなたひとりのことでは済まぬのだ」
そこまで畳みかけ、兄は鋭く、わたくしを見据えました。
「我が一族を滅ぼしたいのか」
「兄上」
胸の中で、何かが砕け、がらがらと崩れ落ちていきました。
わたくしの望みはひとつきり。政に煩うことなく、業平さまと、心のままに生きとうございます。されど、この兄に、こうまで言われては、いかんともしがたく……わななきそうになる唇を結び、こみあげるものをこらえました。
燈明を見つめます。切なげに燃える炎から、煤の煙が昇り、僅かになびいておりました。
いとしい人に焦れる思いは女の煩悩、絶ち切るしかありません。
わたくしは、肩をそびやかして、きっぱり申しました。
「五条へお連れくださいませ」
外から響いてくるように、よそよそしい声でした。
兄は黙ってこちらへ顔を向けていました。片頬に灯し火の光と影が差しています。犬の遠吠えが聞こえ、長い尾を引いて、また静かになりました。
「ではまいろうか」
共に立ち上がりました。
格子から夜の表を覗きます。崩れかけた鳥居の辺りでしょうか。石か何かに腰かけて、業平さまは横を向き、焚き火に薪をくべています。赤い火の粉がはぜて散り、黒い闇に消えていきました。
言葉を交わしたら、心が揺らいでしまうでしょう。
「鈴緒、ここに残ってくれない」
「さようでございますねえ。馬に乗せていただけるのはひとりですから、夜が明けてから、ゆるりと、歩いてまいりましょうか」
鈴緒は気遣わしげな目を向けてきます。
「ねえ、後で、お伝えして」
今ひとたび、外を見遣ります。
「むぐらの宿の女は」
わたくしは、別れの言葉を投げかけました、いとしくて、いとしくてならない方に。
「鬼に喰われましたと」
夕刻になって戻りました鈴緒から、折り畳まれた白い懐紙を手渡されました。
「在五殿からことづかってまいりました。草の葉が添えられておりますゆえ、露で濡れてしまいましたのう」
読み終えて、わたくしは庭の上の空を仰ぎました。
茜に染まる西の方から、紫がかった東の果てへ、千切れた雲が風に流れて……それが、いかばかり悩ましく、この胸を疼かせたことでしょう。
いとしい女人を鬼に喰われてはいたしかたない。気の合う仲間と賑やかに、吾妻の国をめざそうぞ。
白玉か何ぞと人の問ひしとき露とこたえて消えなましものを