純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号269 『四川料理と関数』  ジャーナリストは辛いもの好きだ。  かりに右命題が存在して、これを論証する必要があるとき、俺ならどういう方法を取るだろうか、などと考えながら、仕事熱心であるわたしはいま、中華料理屋で好物の青椒肉絲なぞをつつき始めたのであるが、折りしも店内のテレビが報道番組に切り替わった。  この『天竺夢想』という料理屋、阪神支局の同期に教えてもらった中華の店で、以来わたしは大阪に出向くたびに使っている。入り口の両脇にのぼり旗が並ぶような居酒屋ふうのたたずまいで、そのわりには値段は高めなのだが、中華に関して界隈で右に出るものがないという。わたしは唐辛子を効かせた料理が好きなだけで味のことにはいまひとつ疎いので、ひと様の意見に従うことにしている。  番組では、あるエンタメ系文学賞を獲得した作品の盗作疑惑についての続報を伝えていた。これについては、受賞直後から剽窃を疑う声が上がっていたので、わたしも見聞きはしている。多くののブログや短句投稿サイトでは、応募作の著者であるニノ熊という人物が、厚顔無恥の極悪人のように晒されていた。  以下にあらましを三枚程度でまとめてみる。  舞台となったS新人賞は、半世紀以上の歴史を有する有力な文芸賞で、もっぱら大衆文芸の書き手を発掘する機関として知られている。毎年四月に受賞作が発表され、今回はニノ熊真二という人の『ヘラクレスの組成』に決まった。二百九十枚からなるその作品は、通例に従いS社の文芸誌六月号に全文が掲載されたのだが、直後にネット上で、受賞作が盗作だと訴える書き込みが始まった。十五年ほど前に発表された、大間クラリスの『神鯨』という短編の中に、まったく同一といってもいい箇所があるというのである。  大間クラリス氏といえば、当代押しも押されもせぬエンタメ系の大家であり、また非常に多作であることでも知られている。趣味の映画製作や講演、バラエティー番組への出演などの合間に、毎年五冊ほどの長篇のほか、相当数の著作を世に送り出している。四十台後半の今でも、最盛期に月産千枚をこなしたという力量は衰えていないとされている。  そんな大間にも下積みの時代はあった。地場証券会社の外交員だったころには、応募作は全部落選しているようだ。加えて、仕事上でも、顧客との金銭トラブルにより停職処分をくらってしまい、退社を余儀なくされている。代作や下読みで食いつないだこともあったと、大間本人が公式ブログで述懐している。  『神鯨』は、大間クラリスが世に出るきっかけとなった、いわゆる出世作である。百十枚ほどの中間系の短編であり、それはあまりメジャーな賞ではなかったけれども、この作品の受賞が彼の勇躍の小さな第一歩となったのだった。大間クラリスという筆名は、このときはじめて使用されたらしい。もっとも『神鯨』自体はあまり売れず、むしろ受賞後第一作目の『鼻を手向ける者』が八万部ほどの売れ行きとなったので、この作品を大間のデビュー作と思っている読者も多いという。  しだいに本が売れ始め、のちにエンタメ系に進出した彼は、映画化のオファーを快諾し、大ヒットに近い興行収入をもたらした。業界村に短期間で大量の真水が新たに流れ込んだのである。そうなると、ただでさえカリスマ性のあるキャラを欲しがる業界のお約束で、あっという間に不世出のストリーテラーとして祭り上げられ、爾来、フィンランドから映画俳優を招致しようが、温泉の湯口権を買収しようが、市立図書館前でどぶさらえを敢行しようが、何かしら重大な意味のある行動としてファンの目を釘付けにしたのである。  大間クラリスの推定年収については、ギャラの受け取りが専用の管理会社を通してなされているため明らかになっていない。昨年度の印税は三億円程度と推計されている。  テレビでは謝罪会見が始まるようだ。当のニノ熊と関係者らしい人物、S社側からは編集の次長クラスともうひとりの若手の都合四名が並んでいる。次長による謝罪文の朗読の後に顛末の報告に移った。ニノ熊にとってはまさに晒し首会見に違いない。S社側が淡々と読み上げる剽窃の事実や新人賞授与の撤回までのいきさつに合わせるように、薄くなった頭部を小刻みに揺らして頷いている。頻繁なフラッシュのせいで、うつむき気味の顔が泣き顔のようにも苦笑いしているようにも見える。さえない五十がらみの男である。この男の書いた小説など誰が読む気になるのか。  しかし解せない。どうにも解せないのである。なぜというに、ニノ熊は当初、盗作疑惑を全面否定していたのである。  じつは『ヘラクレスの組成』の受賞を訝る声は、噂として文芸誌の発売前から囁かれていた。噂の源泉は不明である。というか、どのブロガーたちも又聞きだが、という前置きをしてから語っていたのだ。そして予定通り発売された六月号に載った内容が、果たして噂の通りだったので、騒ぎは大きくなった。内容がS新人賞がらみということに加えて、本件がわかりやすい盗作というのか、剽窃の度合いが強すぎることにあったのだと思う。  いち例を示そう。  たとえば十五年前に世に出た大間クラリス『神鯨』には、こんなシーンがある。ある使者が特命を帯びて困難な和平工作に出向いたのだが、案の定決裂した。しかも交渉のテーブルで、いずれは軍師として重用する用意があるなどと、逆に籠絡されかかるのである。 (……ソルジュンは、怒りで目も眩むばかりであった。こいつら、もし断れば使者でも斬る気でいる。蛮国の鼠輩どもが。  彼は机に手を伸ばし、中央に飾られていたレモンを一顆右手に取った。レモンの黄色は、この帝国を象徴するシンボルカラーである。 「皇帝陛下に栄光あらん」  ソルジュンはそう呟くと、腕を高々と差し上げ、ひと息のもとに握り潰した。交渉の席にいたソルジュンの従者たちは息を呑んだ。ソルジュンの行動は、当地皇帝の象徴を陵辱する行為としてかれらの目に映ったのである。砕かれたレモンが、背後にある皇帝の肖像画をいわば借景として語り始めた。ソルジュンの指の間から抜け落ちる砕けた果肉は崩落する帝国を、ソルジュンの手首から肘へと流れ落ちる果汁は玉座を濡らす皇帝の血を、髣髴させるものだったのだ。 「アウロレーニア大帝」  従者のひとりが立ち上がって自らの王の名を叫んだ。もう生きてはかえれまい。従者の誰もがそう思った。 「アウロレーニア大帝万歳」  懐かしい故国の王を称える声は従者一同の中に轟き、とめどなく続いた。しだいにそれは絶叫となって、いずれ交戦を避けられぬ相手国の迎賓館に響いたのである……)  ところがニノ熊の『ヘラクレスの組成』では次のような箇所を認めることができる。  (……そう叫ぶとオルラは、一顆のオレンジをつかんだ左手を高々と持ち上げ、ひと息に握りつぶした。現場にいた人びとは息をのんだ。ちょうどそのオレンジが西に傾きかけた太陽と重なって見えたのだ。オルラの行動は、彼らの目にあたかも聖帝の象徴である太陽を陵辱する行為であるように映ったのだった。民衆は、オルラの指の間から抜け落ちる砕けた果肉を見て崩落する帝政を、オルラの手首から滴り落ちる果汁を見て玉座を濡らす皇帝の血を、ともに胸に描いたのである。 「ブラーヴォ。ブラーヴォ。ブラーヴォ!」  人びとの歓呼の声は三度目からは絶叫となった……)  とまあ、コピー&ペーストに近いものがある。レモンをオレンジに書き換えて太陽に見立てる小技など、笑止の至りといったところか。しかも簡潔にまとめてなどいる。この他にも同じ程度に似かよった描写がいくつか見られる。シーンの類似ではなく描写の類似である。これを盗作といわずになんと言おうや。ニノ熊に退路がないことは、誰の目にも明らかだった。この紙芝居が次にどんな展開を見せるかは、子どもでもわかったはずだ。  にもかかわらずである。ニノ熊は強気だったのだ。ふてぶてしくさえあった。もともとはそういう男なのかもしれない。この記者会見に見るような、労災事故で遺族に頭を下げて回る町工場の社長みたいな風情は微塵もなかった。かれは新人賞の発表から六日たってのちにS社側の用意した記者会見に臨み、盗作の事実はいっさいなかったなどと、薄笑いすら浮かべて傲然と言い放ったのである。  ──まあね、いろいろ言われてますけど。そりゃあ、うちは当事者ですから。本当は何が起こっているのかは誰よりもわかってます。でまあ、結論から言いますとね、事実だけを言いますとね、ぼくは大間先生の『神鯨』は読んだことはありません。大昔の作品だし、いまとは作風が全然違うということなんで。でもこんなことですから、いちおう読んでみたんですよ神鯨。そしたらねえ、本気で笑っちゃいましたよ。こりゃ世間が騒ぐのも無理ないわ。まるっきり同じじゃあないですか。でもね、うちは自分のことだから当然真実を知ってます。世の中にはこんなこともあるんだなあ、偶然のすることは小説なんかとても及ばないなあ、と考えるしかないんですよ。だってぼくは読んでないんだからパクリや真似なんかやりようがない。  丸写しに近い代物を、偶然のひと言で片付けて恬然とする。この態度が文芸フリークのみならず、ブログオーナーやネット住人の怒りを買ったのはいうまでもない。会見後の各方面の反応はすでに書いたとおりである。  なぜニノ熊はあんな態度に出たのか。ここは誠意を以って謝る一手だった。テレビカメラを前に、あのような驕傲ともとれる物言いをぶちまけたのでは、何ひとつ得るものがないではないか。売名のためか。捨て鉢なのか。じっさい有名にだけはなったが。  ──ニノ熊は、あえて初期の地味な作品を探ったんだね。大間ほどの作家なら新人の作品など読むわけないし見つかりっこないとでも思ったか。アフォ過ぎる。多くの人が注目する受賞作なんだから時間がたてば必ずばれてくるものなのに。  ──どんな見苦しい言い訳でも何度か繰り返していれば、ひょっとしたらと思うやつが出てくるわさ。ブレない人物とかいって……。世も末だね。  そんなふうに取られるのも無理からぬことである。それに盗んだことはいずれ知れる。今回も、新人賞の選考会議では気づかれずに通過したものの、発表されるや時を置かずに坊間で取り沙汰される結果となった。  大間クラリスの側も、管理会社を通じてコメントを出したが、ファンからすると物足りなさが残った。そういった緩めの応対を補佐するかのように、加害側であるニノ熊に向けた憤りがいっそう増幅されたのである。  大間は語る。  ──ぼくはわりとたくさん書くほうなんで、いきおい他の方の作品と似た表現だとして並べられる機会も多いですね。で、いちいちそれをどうのこうの言うのもなんだかね……という態度をとってきたつもりですが、今回のはちょっと勘弁って感じですね。でもねえ、その人も認めないっていうのがよくわからないなあ。何でだろ、あれだともう無理でしょうねえ。もちろんこのままではまずいとは思ってますよ。S社さんの方でなんとかしてくれると期待してます。あと何だっけ、法的手段っていうの。でもなんだか面倒だね。  もっとも大間の本音は周囲に漏らしたと伝えられるように別にあり、趣旨を同じくする意見が、この盗作と居直りのセットを糾弾する書き込みの中で現れ始めたのだった。  ところが一転、きょうのニノ熊の謝罪会見である。ブレないどころか、豹変もいいところだ。この十日あまりで、ニノ熊にどういう心境の変化があったのか。 「あーあー。熊ちゃん、本当にやっちゃったんだねえ」  斜め前の席に着いていた男がさっきから体を横にひねってテレビを見上げていたのだが、姿勢を戻しざま、明らかに他人に聞かせるように嘆息し、わたしと目線が合うと意味ありげに口角を上げた。少し前に、すみません相席お願いします、で案内されてきた男性だった。三十台の後半か。薄い眉に厚めの唇。表情は柔らかい。痩せぎすというほどでもないが、頬は落ちている。長髪が広めの額に垂れずにまとまっている。組織というものを持たない人間との印象を持った。 「いえね、あのひと、ニノ熊さんね」 「ああ、テレビの人……ご存知なんですか」 「ご存知もご存知、お友達。おとといも会ってきたよ」  ちょうど料理が運ばれてきた。おお、サンキュサンキュ、と合点しながら、男は回鍋肉やら麻婆豆腐やらを手ずからテーブルにずらずらと並べ出した。唐辛子を含んだ湯気が鼻を突く。こちら側の定食が貧相に見える。 「そんじゃ、ま」とか何とかつぶやき、男はグラスの水をひと口含んでから、レンゲを手に取った。声のアクセントは関西のものではなく、標準語に近いものだった。間を持たせるつもりなのか豆腐を啜りながら、おおー、とか、いいねえ、などと言っている。何度か立て続けに口に運んだあとで咳払いをひとつして言った。 「あの人ね、熊ちゃん。ニノ熊真二。本当は盗作なんかしてないんですよ」 「はあ」 「真相はあんなじゃないんだ」  それでも喋るより食べる方を優先しているようだ。忙しい男だ。 「逆なんだよ逆」 「逆というと、どういう」  男はずるずると音を立てている麻婆豆腐の皿から顔を上げずに答える。 「盗んだのは大間のほう」 「そんなこと」 「出来過ぎみたいな話だろ。でもほんと」  この男はさっき自分で、ニノ熊が盗作していたんだと漏らしたのではなかったか。その指摘には答えようとはせず、店のエアコンの効きがどうのと文句を独りごちている。テレビは次のニュースに移っていた。 「熊ちゃんね、十本は堅いって高笑いだよ。十本、一億だよ」  唐突に男はそう言って、指でつまんだレンゲを縦にして見せた。  七時を回った。『天竺夢想』の四川料理を求める客が次々とガラス戸を押して、店内のメニューを見上げている。店側としては、客はコンスタントに回転して欲しいに決まっている。わたしたちのように、話にはまり込んで長居をするような客は厄介に違いない。それでも従業員が追い出しの仕草を見せないのは、じつに男が次々と注文するからである。男とわたしの間に新しい湯気が絶えない。しゃべりながら箸やレンゲをさかんに動かしてテーブルに並んだ料理を短時間に平らげている。つられてわたしも、普段は食べない水煮魚みたいなのを追加で頼んでしまった。  それにしてもよく食う男だ。  逆二人羽織というのか、テーブルクロスの中にもうひとりがしゃがんでいて、そいつにも食わしているんじゃないかと思えるほどだ。 「結局、大間ははめられたんだな」  男の口から出る言葉全部が成立するような事態を想像してみるに、いままでの報道で伝えられてきた内容とは反対のことが起きているようだ。あのニノ熊が高笑い? 全然似合わない。はめられて困惑するあのクールな大間の横顔。にわかにわたしは興味を覚えた。 「あの、少しくわしく話してくれないかな」  ああいいよ。男はあっさりそう答え、給仕の継ぎ足していったグラスに手を延ばした。 ──ニノ熊はねえ、あれはあれでいい男なんだよ。少なくとも十五年前はね。  水をひと息に飲み干すと、男ははじめてわたしと目線を交わして話し始めた。  疑うことを知らないような澄んだ瞳だ。  ──まずあんた、理数系かな。  男の話は、意図不明の質問から始まった。算数ほど嫌いなものはないと答えると、男はああそうかい、と応じて言葉を継いだ。  ──世の中には関数と言うものがある。おもに数学で使う概念だが、どうということはない。何かを受け取ったら何かを返す箱みたいなものだ。昔は函数とも書いた。ちょうどいい例が自販機だ。百円玉を入れてコーラのボタンを押せばコーラが出てくる。コーヒーのボタンを押せば出てくるのはコーヒーだし、入れたコインが五十円玉ならボタンを押しても何も出ないだろう。大事なのは、何が出るのかは、入れたお金と押したボタンの組み合わせで、ひとつだけに決まっているということだ。このとき、自販機に渡したデータ、つまりコインと選んだボタンの組み合わせのことを『引数(ひきすう)』、出てくるデータ──缶飲料のことだね──を『戻り値』と言う。繰り返すけど、同じ関数に同じ引数を与えれば必ず同じ戻り値が得られるわけだ。  まさか、中華料理屋で数学の話を聞かされるとは思わなかった。数字や缶コーヒーが盗作に何の関係があるというのか。  ──コンピュータで使う関数も似たようなもんだ。ne6という変な名前の関数がある。 あるプログラムの中で、こいつに引数としてある文字列を渡してやると、それに対応して三十二文字の英数文字列を戻り値として返してくる。引数はたったひと文字『あ』だけでもいいし、『おはよう』でもいい。『我輩は猫である』に出てくる全部の文字を渡したってかまわない。その引数に応じて出力される戻り値の文字列は、0~9とa~fまでの十六種類の文字を適度に三十二個つなげたものなのだ。関数だから同じ引数を与えれば必ず同じ戻り値を返す。それから逆に、少しでも引数が違えば、まったくべつの文字列を戻り値とするという性質もある。このふたつの性質は明らかに矛盾している。だってそうだろう。『十六種類の英数文字を三十二個つなげてできる文字列』の総数と、『0文字以上からなるすべての文字列』の総数が同じ値であるわけがない。だから二番目のこの性質は、厳密ではない。両者とも『場合の数』が莫大なため、引数と戻り値が一対一で対応しているとしても実務上は差し支えないというほどの話だ。実際に、同一の戻り値を得るような、異なるふたつの引数を生成することは可能らしい。ただ、こういうことは言える。ある引数により得られた戻り値を見て、その戻り値を返すような(元の引数とは異なる)引数を導き出すこと、つまりは戻り値から引数を求める逆関数というわけだが、これがne6では事実上不可能だという点なんだ。  そこまで話してから男は給仕を捕まえ、エビチリみたいなものを注文した。給仕は義務的に復唱してから、無言で空になった皿を引き上げていった。  男はていねいに講釈しているつもりなのだろう。しかしわたしには、話の内容はほとんど理解できなかった。まして盗作騒動との接点など、どこにあるのか見当もつかない。 「まあ、もうちょっとだから、我慢して聞いてほしい。ここは話の肝なんだ」  ──戻り値から引数を逆算することができない。これはne6の性質なんだが、例の自販機という関数でも似た場面がありうる。たとえば同じコーラのボタンがふたつ以上並んでいたとき、出てきた缶コーラという戻り値からは、引数のひとつである押したボタンがどれだったのかを特定することができない。もちろん、自分で押せばわかっているだろうけど、それは引数とは別の『体験』という情報が入ってるからね。別の例だが、引数を二乗して戻り値として返す関数では、たとえば戻り値が四であった場合、その値から引数を特定することはできない。二とマイナスニのふたつのケースがあるからね。ここでne6の仕様をまとめればこんなふうになる。  一、引数の文字列に対して、三十二個の英数文字からなる戻り値がひとつだけ決まる。  ニ、戻り値から引数を逆算することは事実上不可能。すなわち戻り値の保持者は、唯一の引数の保持者であることが強く推定される。 「ニノ熊真二は、ne6のこの性質を利用して、十七年前にある工作をやってたんだ」  男とやり取りを繰り返すうちに、わたしには彼言うことがなんとなくつかめてきた。関数やらne6やらも意味のある話だった。  十七年前、大間は無名だった。ある新人賞の下読みを担当したとき、応募作の中の、ある作品に引っ掛かりを感じた。プロットに破綻があり水準作とはいえなかったが、文体や描写でユニークなものを読み取ったのだ。彼はいつもするように原稿のその箇所をコピーし、自分のストックブックの中に放り込んだ。あとで何かの参考になると思ったのだ。原稿自体は不通過作としてコメントを付けて出版社に送り返した。当時三十歳のフリーター、ニノ熊真二の渾身の一作だった。以上はニノ熊自身が想像を交えて男に語った話だという。  二年ののち、ニノ熊は仰天する。大熊クラリスと名乗る新人賞受賞の作品『神鯨』の中に、自分が書いたとしか思えない箇所を、いくつも発見したからだ。とはいえ、ここで声高にそれを指摘したところで、結局は水掛け論に終わってしまう。ニノ熊の書いたものがすでに世に出ていたのなら別だが、現状では前後の検証のしようがない。「以前にニノ熊さんの文章の中で見たことがあります」と証言してくれそうな知己もいない。万年落選ワナビの嫉妬、嫌がらせ、勘違いとして排斥されるのがおちだ。下手をすれば名誉毀損で告訴される恐れもある。  だが、ニノ熊には勝算があったはずだ。なぜなら。  大間が剽窃した記述は、ニノ熊の二年前の新人賞の応募作の中にあったのだが、そこにはニノ熊の手によりne6を使った工作が施してあったのだ。  二ノ熊という男はあらゆる属性が低いのだが、ひとりプライドだけは高く、また己の作品が盗まれる恐れがあるなどと常に考えて込んでいた。まさに病的であるが、今回はそれが彼に味方した。彼はいくらかコンピュータ言語に心得があったので、ne6のことは当然知っていた。  通常、ne6の用途といえば、他人に文書を渡すときに、経路途上で改竄や毀損などの事故がなかったかどうかを確認するためのものなのだ。まず発信人Aは、その文書を引数として、公開されている関数ne6に与え、得られた戻り値の文字列Pを、文書とは別の経路を使って受取人Bに送るのだ。Bは文書を引数にして、同じく手元にあるne6から戻り値として文字列Qを得、それをPと比較する。もしPとQが完全一致すれば送られてきた文書はオリジナルであり、そうでなければ改竄の恐れありとして扱うのだ。引数と戻り値が一対一の関係にあると見ていいので、それが根拠となっているのだ。  ニノ熊も同様の手口を取った。自らの応募作の全文を引数として、ne6から文字列を得たのだ。しかしそれだけでは、先後の証明ができない。これを保持していると主張しても、「ニノ熊は、『神鯨』の内容を知ったあとで原稿を書き上げ、この作業を行ったに違いない」と反駁されれば二の句が告げない。そこで彼はこの三十二文字の英数文字列をボールペンで薄地の封筒の表に書き取り、その上に大き目の切手を張って投函したのである。 「あて先は、どこだったと思う」  男は、すでに八皿めにもなろうかと思える料理の残りをレンゲでつつき回しながら聞いてきたが、わかるはずがなかろうとばかりに、すぐに自分の指で鼻をつつく動作をした。 「三十路を超えた独身デブが、大真面目で訳のわからんことを電話してくるんだよ。そっちに郵便が届くけど、わけあってダミーのものだから返してほしいなんてね。おりゃ、そのときは何のことだか、わけがわからなかったけど、とにかくえらい剣幕だったね」  ニノ熊は男から封筒を取り戻す。これで原稿の順位は保全されたのだ。ニノ熊は思った。これ以後、もしこの中の内容と類似する箇所があれば、堂々と自分が先だと言ってやろう。なぜなら俺はこの原稿だけが出力できる文字列を知っていて、その時期は、郵便切手に押された消印が(少なくとも消印日よりは前なのだと)証明してくれるからだ。  ニノ熊は、その後もあらゆる賞に応募しては落ち続け、そして二年後にあの驚くべき短編『神鯨』と出会うのである。しかし、ニノ熊が男に語ったところによると、彼は大間の盗作を問い詰める考えはなかったというのだ。むしろニノ熊の実感として、自分の文章を使った作品が受賞したような高揚感があり、悪い気はしなかったらしい。しかしそれでは何のための小細工だったのだろう。ニノ熊は、そののちも日の目を見ることはなく、何度も新人賞に応募しては同じ数だけため息をついていた。いっぽうの当事者である大間の飛躍は、改めて述べるまでもない。  同じような境遇にあった同い年のふたりの男が、まったく違う人生を生きてきた。十五年という歳月が、ニノ熊にどのような変化をもたらしたのか。きっかけはニノ熊の『ヘラクレスの組成』の受賞にあったことは疑いようがない。作品の中に、ニノ熊はかつて大間に盗まれた箇所の描写をあえてそのまま載せたのだ。受賞の日を境にニノ熊は豹変した。憑き物が取れたのかそれとも新たに憑いたのか、詳しくはわからないが、とにかくニノ熊は堰を切ったかのように精力的に動いたのだ。そして憎まれ嫌われ呆れられた。盗作疑惑を突きつけられても知らぬ顔の半兵衛を決め込む小狡い中年を演じて騒ぎをいっそう大きくした。新人賞を受賞して華々しくスタートしたのは、作家としての人生ではなく、大間に対する復習劇だったのか。 「文芸誌に乗る前に、リークという形で盗作騒ぎの火をつけたのも、聞かなかったけど、あんがいニノ熊の側だったのかもね。とにかく騒ぎが大きくなるほどやつにとって好都合なんだから」  男はそう言いながら内ポケットからピースの箱を出すと一本抜き、ちょっと失礼と腰を浮かすと、喫煙室の方に歩いていった。  そうか、とわたしは考えていた。騒ぎが大きくなれば、どちらかといえば無視を決め込みたい大間の方でも、何らかのアクションを取らざるを得なくなる。まさか、炎上しているど真ん中で、「じつは盗作していたのは僕の方でして」などとはとても言えたものではないだろう。  男の残したピースの箱をぼんやり見ながらわたしは考え続けていた。  さっきの男は、ニノ熊が大間から一億円をせしめたようなことを言っていた。つまりこれをネタに大間をゆすったのだろうか。しかしゆするにしても、説明そのものがむずかしい。ne6やら関数やら、「コンピュータに詳しいやつと相談してから決めろ」とでも言っておかないと事がうまく運ばないだろう。しかし大間の側でも何か逃げ道はなかったのか。一億円という大金と、古びた封筒一枚を振りかざしてわめく小太りの中年男が、つり合うとは思えないのだ。一億円の価値は、十七年前の古封筒の上にではなく、これから彼がつむぎ出すはずだった異形の世界にこそふさわしかったのではないのか。大間も馬鹿ならニノ熊も馬鹿。騒ぎに加担したネット住民も馬鹿の共同正犯だ。  大間は『神鯨』を書くさいに、二年前に読んだニノ熊の没原稿を参考にしたのだと男は説明したが、大間はさすがにまずいと警戒しなかったのか。 「ニ年も前に下読みで撥ねられた原稿がどこかに残っているなんてことあるわけない。それを残せるのは、その原稿を撥ねた張本人の大間だけだ。大間はそれを知っていた」  そう言って男は笑うのだが、なにか引っかかる。二年という時間が短すぎるように思えたのだ。  それからわたしは、あの男の笑った顔が誰かに似ていると考えていた。誰だっけ……。 そしてわたしは気づいた。  男が遅い。二十分にはなる。  よもや暗殺でもされたのでは、と不吉な数秒間が頭をよぎった。ごく短時間でなら、人間の脳はあらゆることを想定できるような仕様になっているようだ。  わたしは喫煙室を除いてみたが、彼の姿はなかった。そこで近くの女給をつかまえて聞いてみると、彼女は意外なことを口にした。 「お連れの方は急用があるとのことで先にお出になりました」  ──……やられた。  脳の小さな部分が、わたしの置かれた現状を訴えている。わたしはもつれる両足をなんとか交互に動かして席に戻った。  テーブルの上には、恥ずかしそうにショートピースの箱が転がっていた。全部やつの作り話だったのか。  ストリーテラーは辛いもの好きだ……てか。  たしかに料理が辛すぎたせいだ。わたしはショッピの箱を握り潰すと、もはや空白のなくなった伝票をつかんで席を立った。  世の中には、ことあるごとにあんなふうにスラスラと話が口をついて出る人間がいるのだ。それを思うと背筋が凍る。レジでわたしは伝票を放り投げ、ふたり分の飲食代、一万七千円何某かを作り笑いで支払った。
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