純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号266 『カラス』  静かに微笑み、兄は私に言ったのだ。  いつの日か、きっと迎えに行くから、と。  だから私は日がな一日彼を待ちつつ、今日もこうして黄昏にまどろむ。  兄は、美しい人だった。  美しいという表現はおそらく男性には似つかわしくないのだろうが、兄に関していえば、それ以外に形容する言葉が見つからない。陳腐な言葉の装飾などでは表しきれないほどに独特の、そして不幸な美しさが兄にはあった。たぶん彼はひとつの奇跡と、手違いによってこの世に生れ落ちたのだ。なぜなら彼は、彼ひとりで既に完結していた。他に誰も必要としない。必要である必要すらない。  色素の薄い兄はまた、影の薄い人でもあった。いつもぼんやりと何か思索にふけっていて、そのためか彼の目は常に別の世界を見つめているように人に感じさせた。現に兄は、自分と自分以外との境界線が曖昧だったのだと思う。  兄が私の元から去って行った時のことは今も記憶に新しい。父が亡くなった時だ。  火葬場には十三になったばかりの私と、十八になったばかりの兄だけが居た。ゆっくりと、しかしどこか滑稽な必死さで雨雲の中を昇ってゆく白い煙を、私たちはひとつの傘の中でじっと見送った。儚いそれは、父に似ても似つかないものに思えたものだ。  父は体格が良く、粗野な人だった。そして兄を憎んでいた。いや、むしろ妬んでいたのかもしれない。自分と似ても似つかぬ彼を。兄を産んですぐに姿を消した母は尻軽な女だったと、お前も誰の子かわかりはしないと、そう舌打ちしては無造作に石のような拳を振り下ろしていた。  しかし、父が兄を毛嫌いしていたのにはもうひとつ理由がある。  兄は、一種異様なほど生き物に好かれる性質をしていた。街を歩けば犬や猫が擦り寄ってくるし、林を歩けば当たり前のように小鳥が肩に止まる。その中でも特にカラスは、ほぼ何処に居ても兄の周りにいた。纏いつくようなことはせず、いつも少し離れた上空から、又は電信柱から、賢そうな黒い瞳で兄を見ているのだ。まるで守護するかのように。  そんな兄を父は気味悪がり、時折蔑んだ口調で「おい、カラス」と呼んでいたりもした。そしてそう呼ばれたときには必ずと言っていいほど、殴打が兄の細い身体に降り注ぐ。白い皮膚に染みていた、青黒い痣と赤い腫れ痕。外からは見えぬところに、それでも絶えず、兄の身体は斑模様に染まっていた。  私はというと、反対に兄のぶんまでの愛情を注いでもらっていた。可愛らしい洋服を与えられ、美味しいおやつを与えられた、なに不自由ない生活。私の母もまた私を産んですぐに父の前から去ったというのに、なぜか父は私のことは可愛くて仕方がないようだった。兄の方がよっぽど綺麗で、純粋で、慈しまれるに足る人であったのに。  『理不尽』という言葉は私にとって、まだその意味も存在も知らないうちから、身を以って理解していた単語ではないだろうか。 「父さんは、ちゃんと天国に上って行けるかな」  右手で私の手を握り、左手で傘を差した兄が呟いた。その目は虚空を見つめたまま、限りなく深い哀しみを浮かべていた。あれ程までに虐げられていたというのに、なぜなのだろう。兄はそれでも父を愛していたのだ。そのことは、私が兄に対する唯一の不満だった。 「きっと大丈夫よ、兄さん」  あの人が天国なんかに行けるわけがないと思いつつも、私は兄の手を握り返して嘘を吐いた。その時の私の関心はとっくに父を離れ、これからの生活へと向いていた。兄との二人だけの生活。待ち望んでいた穏やかな日々。本当は、父のためにこんな場所に来ることすら疎ましかった。きちんと供養はしなければ、という兄の言葉があったから無理やり納得して私は来たのだ。けれど、まあいい。帰れば兄との生活が待っているのだから。  しかし兄は、いつまで経ってもその場を動こうとはしなかった。灰色の雨雲のせいで時間すらあやふやな火葬場で、私たちは互いを隣に感じたまま、ただ突っ立っていた。  冷たい雨に指先が冷え切ったころ、兄が口を開いた。 「ひとりで帰れるかい」  何を言っているのか、一瞬理解できなかった。  理解した次には、なぜそんなことを言うのかが理解できなかった。不吉な予感がした。 「行かなきゃならない所があるんだ。だから先に帰ってて」 「なんで? 今じゃないといけないの? 明日でいいじゃない、兄さん」 「駄目だよ、今日でなければ」  どんなに言い募っても駄々をこねても、兄は首を悲しげに振ったままだった。兄が私のわがままを聞いてくれなかった事はこれが初めてで、また私がこれほど頑なに兄の意志を曲げようとしたことも初めてだった。  しばらくして、私は折れた。わかった、と泣きながら兄を見上げると彼は困った顔をして、でも静かに微笑んだ。 「いつ帰ってくるの?」 「わからないけど、きっと帰るよ」 「絶対に? 必ずよ」 「必ず。いつの日か、きっと迎えに行くから」  そう言い残して兄が去った後、ぼんやりと雨の中に佇んだまま空を見上げれば、木々の合間に夥しいほどのカラスが私を見ていた。見間違いだったのだろうか、その瞳が父の流した血のように赤く見えたのは。  それからの私は、ただひたすらに兄を待つ生活を続けている。  果たしてもう、自分が生きているのか死んでいるのかさえ定かではない。世界がまるで支柱を失って、歪んだままだ。歪んで、静止したまま。兄が来てくれさえしたら、すぐに元通りになるのに。  私にとっての苦しみは、兄が痛んでいること。私にとっての喜びは、兄が幸福であること。  兄さん、私の世界はいたってシンプルです。昔も、今も。  早く迎えに来て、兄さん。これ以上は待てないかもしれない。  いつか自分の目が貴方から離れるかもしれないと、不安でならないんです。  だから兄さん、お願いだから早く―――。  その日は、何の前触れもなしに訪れた。  私はいつもの日課で、昼食を終えたあと裏庭のベンチで絵を描いていた。雨でなければ、私はほぼ毎日こうやって裏庭で絵を描きながら時を過ごす。本当は雨の日だって傘を差しながらそうしたいのだけれど、葉月さんを困らせてしまうことになるので、しない。  葉月さんは、先月から私の世話をしてくれている女性だ。ふわふわのパーマをかけた長い髪をしていて、いつもバニラの香りを纏わせている。おしゃべりなのが玉に疵だが、厭味のない快活な人だ。絵のことに詳しくて、油絵の描き方や絵の具の混ぜ方なんかを教えてくれたのも葉月さんだ。おかげで私は最近、今まで書き溜めた絵の色塗りに熱中している。  昨日仕上げたばかりの金木犀の絵に、色を足しているときだった。手元がふっと翳った。濃い影の形を見て、それから私は顔を上げた。驚きに目を見開いて。 「綺麗な絵だね、上手だ」  今日の陽だまりのような、柔らかい笑みを浮かべた兄が居た。  色素の薄い瞳と、髪。記憶の中の姿と一寸違わず。 「……遅いよ、兄さん」 「ごめん。思ったよりも時間が掛かってしまった」 「ずっと待ってたの」 「うん、知ってるよ」 「もう来てくれないかと思った」 「ごめんね」  でもいいわ、と呟くと同時に涙が零れた。もういい。来てくれたから。  兄の手がそっと伸びて、頬を撫でてくれた。  柔らかな掌は記憶の中よりも小さく、けれど暖かかった。 ****  ひとりの女が、窓ガラスからそっと裏庭を見ていた。緩いパーマのかかった茶髪を腰ほどまで伸ばした女だ。手にはシーツと、クッキーの入った籠がある。金木犀の木を見詰めながら熱心に絵筆を動かす少女を見守りつつ、女はちいさく溜息を吐いた。少女に持って行こうとしているクッキーに視線を落とす。きっと微かな笑みを浮かべてくれるだろう。  ―――とても、あの陰惨な事件の当事者とは思えないわね。  五年まえの事件を思い返し、女は顔を翳らせた。  惨い事件だった。十三歳の少女が、父と兄を殺したのだ。  発端は、使われていない筈の火葬場から煙が上がっているのを不思議に思った住職が、様子を見に行ったところから始まる。寺のすぐ脇にある昔ながらの窯入れ式の火葬場には、ひとりの少女がぼんやりと立っていた。着ていたワンピースには、殆ど雨に流されていたとはいえ血のような赤黒い染みがあり、また少女の様子が抜け殻のようだったのを不審に思った住職は警察に通報した。  程なくして少女の身元がわれ、またその時には彼女の服に付着していた染みが血液だと判明していたこともあり、警察は武装して少女の自宅に踏み込んだ。家の居間には、少女の兄と思われる死体がひとつあった。解剖の結果、死因は出血多量。死亡時刻は少女が発見された時刻の前後とされた。  更に、少女の居た火葬場からは彼女の父と思われる人間の焼死体が発見され、この田舎町で起きたセンセーショナルな事件は一気にマスコミに取り上げられた。  犯行の動機は父親による兄への暴力とされているが、途中でもみ合いになったのか、兄も誤って死亡してしまったらしい。刺し傷が背中にあることなどから、おそらく父親をかばったものとされているが、定かではない。少女の供述が不確かすぎたためだ。彼女は父親の殺害は認めながらも、兄である少年は生きていると主張し続けた。  幼い彼女の精神が正常ではないことに疑問の余地はなく、事件は少女を精神病棟へと送ることで終結した。只ひとつの謎を残して。  父親は、一般的な成人男性よりも体格のいい人物だった。にも関わらず、少女は彼を火葬場まで運んで火を付けている。小柄な少女ひとりでは無理な話だ。ゆえに当初は、共犯者がいるのではないかと虱潰しに捜査がされていたが、不思議と目撃者も該当する人物もおらず、結局その線は曖昧なまま事件は忘れ去られていった。  知らず俯いていたのか長い茶髪が頬をすべり、女は気を取り直したように頭を上げた。  裏庭の少女に再び目をやれば、キャンパスの上の縁に一羽のカラスがとまっている。  いや、カラスにしては少し羽根が茶色い気がする。  そう女が首をかしげたとき、その鳥が彼女の方を見た。  カラスは一声 カァ と啼くと、少女の頬に擦り寄った。
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