純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号265 『701号室』  自転車は長い坂を下り始めた。浩一郎はペダルを踏む足を休める。加速度がついた自転車は早朝の冷たい風を切って進み、顔が次第にこわばってくる。  松林の向こうに巨大な建物の群れが姿を見せた。ちょうど地平から昇ったばかりの陽が、白一色に塗りかためられた大学病院の建物全体をうす桃色に染めている。空が目にしみるほど青い。  その朝、浩一郎は病院が荘厳な気配に包まれているのを感じた。なぜか、そこにいるすべての者が、どこか遠い世界からあまねく恩寵を受けているような気がした。あの無数の窓の向こうでは、希望や喜びだけでなく、数えきれないほどの苦しみや痛み、絶望、孤独がくり返されているはずなのに。  そんな聖域にも似たきよらかな場所で、また汚れ物にまみれて働くことが現実のこととは思われなかった。  正門の手前にあるわき道に入るとき、なにげなくふり返ると、まっすぐに延びた広い通りの奥から、鮮血がしたたるような真っ赤な太陽がじっとこちらを見つめていた。きらびやかなライトをまとった大型トラックがうなりをあげ、その太陽をつき破るような勢いで疾走していく。  浩一郎はそびえ立つ病院の旧棟に見下ろされながら、大きな池を縁どるようにして植えられた桜並木の下をゆっくりと進んでいった。ここ数日晴天が続き、桜は満開になっている。朝のみずみずしい陽を浴びて、いちだんと華やかだ。    風がそよとも吹かず、人影もない道でひとり自転車をこいでいると、永遠に時が止まった異空間にまぎれ込んでしまったかのようだ。  ようやく旧棟の裏手にある駐輪場にたどり着いた浩一郎はいつもの場所に自転車を停め、鍵を掛けた。かばんを手に歩きだしたとき、四方に枝を張った桜の老木から花びらが一枚舞い落ちてきて、視界を斜めに過ぎていった。   病室の出入口に小さなポリバケツが置いてある。なかは空っぽだった。  いつもなら患者の便で汚れた清拭用のタオルが数枚入っている。めずらしいなと思って蓋をしたバケツをもとに戻したとき、ベッドが空いていることに気がついた。  つい二時間ほど前、寝台車が新棟と旧棟とのせまい谷間を這うようにして、音もなく遠ざかっていった光景がまぶたに浮かんだ。あの車に、きのうまでここに身を横たえていた老人の亡き骸が乗っていたかどうかはわからない。  シーツがはがされたベッドは、朝の新鮮な光が満ちた四人部屋の病室で、そこだけしんと静まりかえっている気がした。向かいのベッドの男性が装着している人工呼吸器が単調な音をたてている。  亡くなった老人も人工呼吸器をつけていたので、どんな人だったか、顔をはっきりと思い出すことはできなかった。  患者の身体をふいたり、尻をぬぐったりして汚れたタオルは通常、病棟ごとに設けられているリネン室にある専用のバケツなどから回収する。リネンセンターで洗濯・消毒した後、おしぼりとしてビニルで包装したものを、各病棟に配達することになっている。  二か月ほど前、この仕事を始めたばかりのころ、便がべっとりと付着したタオルの臭気と視覚から受ける刺激に浩一郎は吐き気を催した。それでもやがて淡々と作業がこなせるようになったのは、だれに使ったものなのかわからないことがせめてもの救いだったからだ。だが、新棟の七階東側(通称7E)にある呼吸器系の重篤患者が入る病室にだけは、直接回収するバケツが備えられており、それがどの患者をふいたものかは明白だ。  それだけに、回収時はなんとなく落ち着かず、いつもあえて患者から視線をはずした。扉が開放された病室からポリバケツをすばやく廊下に持ち出し、ビニル袋ごと中身をタオル回収用の台車に移してもとに戻すという作業を、手早くすませてその場から離れるようにしていた。  その日、空っぽのポリバケツの軽さが、きのうまでは確かに存在していた一人の人間の死とむすびついて、意識の底に沈殿した。    浩一郎の主な仕事は、使用済みタオルのほか、看護師の作業着や医師の術衣、患者のパジャマ類、シーツや枕などリネンの回収と、それらを洗濯工程に回すための仕分け、それに清拭用おしぼりの配達だ。新棟の一階にあるリネンセンターを拠点に、上階の病棟に加え、旧棟の病棟や検査室などを常に急ぎ足で歩き回らねばならない。決して走ってはいけないが、ふつうに歩いてもいけない。そうでないと、洗濯の工程に遅れを生じさせ、一日の作業スケジュールがすべて狂ってしまう。  タオルは回収にしても配達にしても、水気を含んでいるため、まるで岩石でも載せているような重たい台車を押すことになるが、次第に重みを増す回収に対し、配達は徐々に軽くなるぶんマシだった。いずれにしても、全身の筋肉を鍛錬するようなきつい作業だ。実際、浩一郎はこの二か月で体重が三キロ減り、上半身がだいぶ締まった。  体力を使うわりに報酬は低く、新人はすぐにやめてしまうので、なかなか人手不足が解消されない。自分が回るべきコースを覚え、目標時間までに回収あるいは配達することができるようになれば、あとは毎日同じ作業のくり返しだから、営業や販売とちがって、ある意味気楽な仕事ともいえる。金を払ってジムに通う代わりに、給料をもらって身体を鍛えられるのだから、けっこういい仕事かもしれないと浩一郎は思えるようになった。というより、そう思わないことには続けていられない。  朝五時半から五時間以上、ほぼ動きっぱなしで作業して、ようやく一時間の休憩にたどり着いた浩一郎は、いつものように食堂で食事をしたあと、新棟にある職員専用の休憩室に向かった。中山がちょうど弁当を食べ終えたところだった。 「7Eの患者さん、亡くなったんですね」  浩一郎はそれをだれかに知らせておきたかった。そうすることで、気持ちの奥底にたまった澱がすこしは取り除けるような気がした。 「7E?」  中山は弁当箱を包む手を止めた。「ああ、701号室のあのじいさんだろ。きのうの午後、回収に行ったとき、家族が集まってたよ」 「じゃあやっぱり、今朝病院の裏から出ていった車、その人だったのかなあ」 「そりゃわかんねえよ。ここじゃ人が死ぬのなんかめずらしいことじゃねんだから」  中山は自宅で凍らしてきた一リットルパックのオレンジジュースをラッパ飲みすると、全身の疲れを吐き出すように大きく息をついた。中山は浩一郎が任されているコースより、さらに回収箇所の多いきついコースを担当している。まだかろうじて二十代の浩一郎ですら疲労を覚えるこの仕事が、いくらベテランとはいえ、五十を過ぎた中山にとって楽なはずはない。 「あそこはまだいいんだよ。みんないつ死んでもいいような年寄りばっかだろ。だいたい最初っから助かる見込みのない患者さんでさあ、延命のためにしばらくいるようなとこなんだから、家族も覚悟はできてんだよ」 「まあ、そうなんでしょうけど」 「いちばんかわいそうなのはさあ、交通事故で救急に運ばれてきた若いやつでさあ、ちっちゃい子ども連れた奥さんとか親の前でだめになって、ワーッてみんな泣くとこだよ。あれはこっちもさすがにつらい気持ちになんね」  救急外来のコースはまだやったことのない浩一郎でも、そうした場面を想像するだけで動悸がしそうだった。 「でも、701のタオルって病室から直接回収しますよね。今朝バケツが空っぽだったんですけど、ベッドが空いてるのがわかったとき、なんかしみじみした気分になっちゃって」  浩一郎は手のなかで飲みかけのジュースの缶をゆっくり回した。「なんか不思議なんですよ。こっちのこと見えてたのかどうかもわかんないし、いつも毎日タオル回収してただけなんですけど、なんか足跡つけられちゃったっていうか……、いつもあったものがなくなると、こんなにずっしり存在感が残るものなのかなあって」  中山はパック入りのジュースをまたあおるようにして喉に流し込んだ。 「忘れるよ、すぐに。また次の患者がすぐ入るからな。前とおんなじように回収する日がまた始まるんだから」  立ち上がると、「さあて、一服してくるか。外はいい天気なのによ、こんなとこで馬車馬みてえに働かされてたら、こっちが病気になっちまうよなあ」と言って、休憩室を出ていった。  まだ十二時前の休憩室は閑散としている。時計の針がぐるぐる回り続けているような病院のなかで、ここだけはいつも平和でまのびした空気が漂っているような気がする。  たしかに、この巨大な病院では患者の死はありふれた風景のひとつにすぎない。それなのに、701号室のあの老人の死は、なぜか浩一郎の目の前を素通りしてくれない。  すこし離れたテーブルをかこんだ若い看護婦が四人、弁当をひろげ、おしゃべりに夢中になっている。ひときわ声の高い一人が何ごとか冗談を口にすると、三人の健康的な明るい笑い声がどっとわいた。    数日後、朝のタオル回収時に701号室に目を向けた浩一郎は足を止めた。あのベッドに見たことのない老人が横たわっている。人工呼吸器はつけていないが、頬肉は削げ落ち、まぶたを閉じた顔は苦しげにゆがんでいた。  足もとに小さいポリバケツがまた置かれている。台車を廊下の壁際に寄せて停め、急いでバケツを取ってきて蓋を開けた。うっすらと便で汚れたタオルが一枚入っている。  浩一郎は拍子抜けした気分でビニル袋ごとそれを取り上げ、台車のなかに入れた。新しいビニル袋をバケツにつけ、手早くもとの位置に戻す。  なぜかふいに、このあいだ見た朝の太陽を思い出した。地平から昇ったばかりの、鮮血がしたたるような大きくて真っ赤な太陽。人間の力ではどうにもならない、何かとてつもなく強い意志のかたまりのようだった。  浩一郎は台車を押しながらナースステーションの角を曲がった。大きな花瓶からあふれだすように枝を伸ばしていた桜が、もう片付けられ、なくなっていた。  東側の窓からなだれ込んできた朝の力強い光が、そこらじゅうに反射していて、ひどくまぶしい。  その金色の光の洪水のなかを、浩一郎はエレベーターホールに向かってまっすぐに進んでいった。
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