純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号260 『チャトラ』 晩年の母はぜんそく気味で辛い想いをしていた。猫が大好きなのに「悪いけどチャトラを棄ててきてくれ」と云った。 私はその翌朝、チャトラを車にのせた。お腹が白いあか虎のオス猫。チャトラは七歳くらいだっただろう。 或る朝公園で飛び跳ねて遊んでいた五匹の仔猫を発見した私が、そのうちの最も器量良しの一匹を車のトランクに入れ、会社へ行かずに家に戻ってきた。その日から私はチャトラの親代わりになった。指にミルクをつけてなめさせて育てた。 チャトラは朝駐車場から私が運転する車が出てくるときにいつも見送るようになった。 仕事が終わって帰宅するときも、いつも道路で私の車を待っていた。 「ねえねえ、また今日も『お出迎え猫が居るよ』と、学校帰りの学生たちが面白がっているという噂も、私の耳に入ってきた。 恐らく七年間、チャトラはいつも私を見送り、そして出迎えてくれた。そのチャトラを棄てるために車にのせた私は、かなりせつない気持ちだった。胸に熱いものが何度もこみ上げてきた。車を三十分ほど走らせて勤め先の近くの公園に着くと、私はチャトラを灌木が密生している一角に押し込むようにした。 もう、どこかへ行ってしまっただろうかと思いながら、昼まで仕事をした私は、社内にチャイムが鳴り渡ると公園に走った。チャトラは朝の茂みの中にいた。寒くもないのに震えていた。 今度こそ、もうどこかへ行ってしまっただろうと思いながら、夕刻に仕事が終わるとまた公園へ行った。チャトラはやはり震えながら同じ場所にいた。連れて帰れば母に抗議されるだろうと思い、私は泣きたいような気持ちで帰宅した。 チャトラの出迎えのない帰宅は寂しいものだった。 「お前、チャトラはどこに棄ててきた?」 母は心配顔で訊いた。 「会社の近くの公園だよ」 「可哀想な気もするけど、ぜんそくが辛いんだ。猫の毛が良くないんだよ。我慢してくれるね」 そう云う母は涙ぐんでいた。 その翌朝、私は出勤前にまた公園へ行った。チャトラはまだ同じ場所で震えながら待っていた。名前を呼ぶと、聞いたこともないかすれたような声で力なく応えた。昼になってまた公園へ行くと、チャトラはやはり待っていた。そのときから夕方まで、私は何とか母を説得し、チャトラとの生活を復活させたいものだと思いながら考えた。 まだいるかどうかわからないチャトラを車にのせるために、夕刻に車で公園へ行くと、彼はちゃんと同じ場所で待っていた。私は嬉しい気持ちでチャトラを車にのせた。しかし、家には連れて帰らなかった。 家の近くに私が通った小学校があった。その小学校の近くの公園は、家から四百メートルくらい離れていたが、そこはチャトラも知っている場所だと思い、私はそこで彼をおろした。やはりよく知っているところらしく、車から出たチャトラは勢い良く走り出し、あっという間に姿を消した。 痩せたチャトラが家に戻ったのは、それから三日くらい経ってからのことだった。 「お前、チャトラが帰ってきたよ。可哀想に、痩せて帰ってきたよ。 スーパーでキャットフードが安かったから買ってきた」 母は嬉しくてたまらないといった笑顔で云った。五キロも入っている大きな青い袋を渡された。 「お前の会社から、猫の足で五日かかって帰ってきたんだね。バカな猫じゃないとは思っていたけど、よく帰って来たね」 母はチャトラの頭を撫ぜながら笑った。私は半ば母を騙したことになるのだが、罪悪感はなかった。 その後三年経ち、母が亡くなった。その翌年に、チャトラはどこかへ行ってしまった。                  了
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