純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号259 『スーサイド・ナイトクラブ』  午前三時のキッチンには、昨晩食べたカレーの匂いがまだ残っていた。蛍光灯を点けると、ジーンという音が周りの空気を静かに揺らすように響いた。収納棚から包丁を取り出し、刃をじっと眺める。明かりに照らされて鈍く光るそれを見ていると、どういうわけだか心が落ち着いた。いつも僕を苦しめる、胸がざわざわとする感覚、まるでシュプレヒコールの波に飲み込まれそうになるようなあの感覚や、自分が途方もなく無力で矮小でクズでゴミでカスでブタでバカで、全世界の誰からも必要とされていないと言われているような錯覚も、包丁を見ていると忘れることができた。 「死んじゃおうかな」  僕の呟きはどこにも、誰にも届くことなく、カレーの残り香や蛍光灯のジーンといった音に混ざって消えていった。誰も止める人はいない。あたりまえじゃないか、親はとっくに寝ているのだから。そんなあたりまえのことにさえ、あたりまえだとわかっているのにさえ、僕は絶望した。僕を必要としている人がいますぐに手に持っている包丁を取り上げ、僕の横面をはたいて、怒鳴り声を上げて止めてほしかった。  これを使えば簡単に死ねるんだよな、と僕は包丁を左の手首に当てて考えた。あとは右手を引くだけで僕は死ねる。いや、リストカットでは死ねないとどこかで聞いたことがある。でも僕はどちらでもよかった。死ねようが死ねまいが、とにかくいまのこの状態、状況、環境を変えられれば、それでよかった。言葉にはできない、茫洋としている「なにか」がほしかった。手首を切って血を見ることができれば、それが見つかるような気がした。  ふっと包丁を手首から離して、床を見た。フローリング張りの上にキッチンマットが敷いてある、いつもの床だった。それから収納棚に包丁をしまって、僕は自分の部屋に戻った。結局手首は切らなかった。怖かったのだろうか、それとも面倒くさくなったのだろうか、どちらもそうだと言えるし、違うとも言える。よくわからなかった。そしてそれもどちらでもよかった。  パソコンを立ち上げて、最近始めたソーシャル・ネットワーキング・サービスにログインした。これには以前にも参加していたのだが、ある日小学校から大学の友人、知人と繋がっているのが急に疎ましくなり、一度退会したのだった。最近、名前を変えて今度はネット上の付き合いだけで繋がっている。その中の「とまと」というハンドルの日記を読んでいると、彼女(実際は知らないが、プロフィールにはそうあった)は僕の家から割と近いところに住んでいることがわかった。さらに読み進めると昨日の午後十一時過ぎ、つまり四時間ほど前にナイトクラブへ行ってきたと書いてあった。「さすがに詳しい人がたくさんいて、とても参考になりました。わたしはどうやって死のうかなあ?」という文でその日記は終わっていた。とまとは以前の日記でもよく死にたいと書いている、自殺願望のある人だった。うつ病の人たちが集まるコミュニティで知り合い、僕に心療内科へ行くことを勧めてくれた人だった。とまとが行ってきたというナイトクラブは、電車で二駅のところにあるらしかった。大体の場所の見当はついた。自殺願望のある人や自殺に詳しい人が集まるナイトクラブと書いてあった。そこへ行けばリストカットよりも僕の探しているものが見つけられるかもしれない。  パソコンを切ると僕はまた独りになった。とまとの日記を読んでいるときや、コミュニティの書き込みを見ているときに広がっていた世界が、ぷつんと断ち切られてしまったような気がした。僕だけが別の世界へ閉じこめられてしまったような、ある種のパラレルワールドへ迷い込んでしまったように思えた。それが心地よくもあれば寂しくてしかたがなかった。どちらなのかと問われてもわからない。自分の気持ちを整理することができなかった。るつぼに入ったいろいろな金属が溶けていくように、僕の頭では自分の気持ちや考えがドロドロになってしまい、とても形にすることはできなかった。  長い長い夜だ。眠気はまったくなかった。しかし疲れているのはわかる。本来ならすぐにでも眠れそうなほど疲れているのにもかかわらず、ベッドに横になって目を閉じても昔の嫌なことばかりを思い出してしまうだけで、それが悪夢にもなりはしなかった。こういうときは諦めるしかないと頭ではわかっていながら、どこかでそれができず、ただ焦りばかりが募り目は余計にさえていくのだった。  閉じていた目を開けると、カーテンの隙間からほんのりと光が部屋に差し込んでいた。枕元に置いてある時計を見ると、針は四時半を差していた。今日も眠れずに朝を迎えてしまった、そのせいで今日一日もぼんやりとしたまま過ごすのだろうな、そうやって僕は無為に生きていくのだ、それならばなぜさっさと死んでしまわないのだろう、生ける屍のような生活になんの意味があるというのだ、と僕の心の中でシュプレヒコールが湧き上がる。胸がざわざわと不穏に響く。いてもたってもいられなくなり思い切り起き上がると、今度は涙が出てきた。もう嫌だ、眠りたいのに眠れないことも隣の部屋で人の気も知らずに寝ている親もそうやって理不尽に他人を責める自分も昨日食べたカレーライスがおいしかったことも他人の不幸を餌にうわべだけの綺麗事を並べて無責任に人を励ましてそんな優しい自分に満足しているSNSのコミュニティの住人もそうやって理不尽に他人を責める自分も、なにもかもが嫌になった。僕は体育座りの体勢で膝に顔を埋めて泣いていた。泣くと心の奥から透き通った薄い青色の液体が滲み出てきて、僕はそれに浸りたいがためにさらに泣き続ける。透き通った薄い青色の液体は、僕にとっての最後の味方だった。自分の心にさえシュプレヒコールを叫ばれているこの窮地に現われた、僕自身の防衛本能が作りだした切り札だった。こうして浸っていると、嫌なことが許せるようになる。それは自分自身を許すことができるようになるのに繋がってくる。この液体は、まさに無償の愛、究極の慰みなのだ。  どれくらいの間泣いていたのか。僕はいつの間にか体育座りではなくベッドに横たわっていた。時計を見ると八時を少し過ぎたくらいになっていた。わずかではあるが、眠れたのだ。しかしまったく眠れた気はしなかった。体は怠く、頭は微熱があるときのようにぼうっとしていて、心は空き巣が入ったかのようにごちゃごちゃだった。ゆっくりと起き上がってパソコンを立ち上げ、SNSを覗いてみた。一言二言、チャットのような形で書き込むミニブログには、「今日も眠れなかった」「またカッターでやってしまいました」「みんな消えてしまえばいいのに」などといったクライシスコールが並んでいた。僕も書き込もうとキーボードに手を置いたが、頭の中にある、真っ黒でドロドロしたものを言葉にすることができなかった。その作業が面倒だということもあるが、うまく伝わるように表現すること自体も難しかった。それに、はっきりとした考えもなかった。自分はいまどうしたいのか、なにをしてほしいのか、そういったことが非常に曖昧で、暗闇の中をさまよっているような気分だった。書き込むことを諦めて、流して読み進めていると、一時間前にとまとが書き込んでいるのを見つけた。「結局、今日も朝が来てしまった。もう生きていたくなんかないのに。今日もあそこに行ってみようかな」と書いてあった。あそこというのは、おそらく日記で書いたナイトクラブのことだろう。僕も行ってみようか。どうせ今日も眠れずに包丁を見るくらいなら、そこで自殺のしかたでも教えてもらったほうが有意義ではないかと思った。  ナイトクラブへ行くとしても、それは夜の話であって、それまでは絶望的なほどに時間がある。なにがしたいわけでもなく、なにかすべきこともない。なにかをやるという気力もない。僕はベッドに転がり、天井を見た。白い天井。いつもの天井。とまとが「今日も朝が来てしまった」と書き込んでいた。僕もまさにその気持ちだった。朝起きてしまったときが一日で一番辛い。今日もまた生きなければならない、そう思うと気が遠くなる思いだった。「さて、今日もがんばろう」という気には間違ってもならなかった。僕は目を瞑った。もう二度と開くことのないよう祈りながら。  夜までは寝たり起きたりを繰り返し、ときおりパソコンでウェブサイトを廻ったり、ぼうっとテレビを見たりして過ごした。日が暮れてくると、一日がやっと終わると思い、少しだけ救われた気分になった。食欲はまるでなかったが、晩ご飯を食べ、歯を磨いてから着替えて午後の八時に外へ出た。外は夕立があったせいか、いつもよりも蒸し暑く感じた。自転車で駅へ向かうときは車が僕に突っ込んでこないかと、駅で電車を待っている間は飛び込んでしまおうかと考えたが、どちらも実現することはなく、ナイトクラブへ到着した。店構えはごく普通の、とでもいうのか、一般的なイメージ通りのものだった。ネオンサインで店名が書いてあり、黒に近い茶色の建物で、店内から漏れているのか、それとも外で流しているのかわからないが、ダンスミュージックが聞こえる。僕は重厚なドアを押して中へ入った。薄暗くて煙草臭くて音楽がうるさかった。ステージでは何人かの女性が踊っていて、それを照明が派手に照らし出していた。とても自殺志願者が来るようなところではないと思った。人も多くて、僕はそれだけで来なければよかったと後悔した。幸いにもカウンターの席が空いていたので、僕はそこへ座りギネスビールを注文した。  隣に座っているカップルの声がうるさかった。音楽を流しているので、どうしても大声で話さなければならないのだが、それにしても気になった。ビールを飲みながら話を聞いていると、費用が、ロープが、公園で、などといった単語が聞こえた。もう少し注意深く聞いていると、どうやら「自殺したあとを考えると、公園で首を吊るのが一番いい」と言っていた。僕はてっきり口説いているのかと思ったが、いまの話を聞いていて、ここが「そういう場所ではない」ということに気づいた。チラと彼らを見ると、夏だというのに長袖のシャツを着ていた。なぜだろうと周りを見ると、彼ら以外でも長袖のシャツを着ている人が多かった。 「一人ですか?」  声のほうを向くと、丸く太って不細工な女性が立っていた。彼女も長袖だった。 「はい」 「よかったら一緒に飲みませんか? あ、ここ、もしかして初めてですか?」  僕は頷いた。 「そうなんですか、ちょっとここは普通とは違うからびっくりしたでしょう?」 「ああ、いえ、ネットの書き込みを見て来たので一応……」  彼女はえっと驚いた。それからすぐに笑顔になり 「あそこ、私の席なので、そこで飲みませんか」  と言った。僕は彼女のあとを着いていった。席に座ると、彼女はトマトと名乗った。僕は自分の名前を告げてからトマトさんに尋ねた。 「僕は昨日、『とまと』さんの日記を読んでここを知ったのですけど、あなたがそのとまとさんですか?」 「そうよ、じゃああなたもあれ、参加してるんだっていうか、わたしのフレンドリーの人だったのね」  僕は頷いて自分のハンドルをとまとに言った。  それから僕ととまとはいろいろな話をした。症状のこと、飲んでいる薬のこと、死にたい夜はなにをしているか、などなど。話していて驚いたのが、とまとが明るかったことだ。自分のことを話しているときもあっけらかんとしていて、「ほら、見て」と袖をまくってリストカットの痕を僕に見せてきたりもした。痕は一本や二本ではなかった。手首から肘にかけて、無数の赤黒い線が刻まれていた。 「気持ち悪いでしょ?」  笑いながらとまとは言った。その笑みは明らかに質問に対しての肯定を拒絶するニュアンスが含まれていた。しかし、だからといって否定されることも望んでいない、そんな笑みだった。それがありありとわかってしまい、僕はえもいわれぬ不快感に襲われた。いますぐこのブタ女をぶん殴ってやりたくなった。それをぐっとこらえて、温くなったビールを一口、飲んだ。 「じゃあ」  と言って僕は席を立った。僕がそうするまでとまとはずっと喋り続けていた。それに横やりを入れて止めたり、あるいは否定的な意見を述べたりしたら、おそらくは大変なことになっていただろう。グラスを割ってそれで自分を傷つけたかもしれない。逆に僕が襲われていたかもしれない。突然泣き叫んでいたかもしれない。それくらい、とまとは切羽詰まった、地雷原を歩くような、危機感に充ち満ちた喋り方をしていた。聞いていて気持ちのいい内容でもなかったし、僕も他人の話に耳を傾けられるほど精神的に余裕があったわけでもなかったので、息継ぎをするタイミングを見計らって僕は言ったのだった。  店を出ると急にとまとが憎らしくてしかたがなくなった。あんなに自分ばかりペラペラペラペラ喋りやがって、ブスの分際であんなに図々しく生きていやがって、そんなに死にたいのならさっさと死んでしまえ、そのほうが世の中のためだろう、と心の中で罵りながら僕は家に帰った。しかし家に着くころはとまとのことなどどうでもよくなり、そんなことよりも無事に家に着いてしまったことを悔やんだ。落胆しながらもシャワーを浴びて薬を飲み、ベッドに横になった。多少、酒が入っていたおかげか、比較的楽に眠ることができた。  昼過ぎに目が醒めた。冷房を入れていなかったので、部屋は蒸し暑く、喉はカラカラに渇き、汗でシャツが湿っていた。僕は部屋の冷房を入れて、居間で麦茶を飲んでから、パソコンを点けてSNSにログインした。昨日の晩にナイトクラブで僕と出会ったことを、とまとはどう思ったのだろうかと気になり、日記やミニブログやコミュニティの書き込みなどを覗いてみたが、どこにもとまとの書き込みはなかった。どうしたのだろうか。いつもならなにかあればすぐに書き込むはずなのに。なにかなくてもしょっちゅう書き込んでいるのに。もしかして僕のことを意識して、書き込めないのだろうか。とまとは僕を好きになたのだろうか。そう考えるとげんなりした。僕はとても気持ちには応えられそうにない。  今日は比較的気持ちも楽で、久しぶりに読書もできた。できたといっても、数ページ読んですぐに疲れて寝てしまったので、話はろくに進まなかった。夜になって僕ははまた、あのナイトクラブへ行くことにした。ずっと家にいても気が滅入ってしまうだけで、精神衛生上にもよくない。外に出ると、通り過ぎていく人々に、まるで僕の心が電波で読み取られているような気がした。目が合うたびに、その人が僕を排泄物でも見るかのような目で見ている気がした。視線だけで僕に「お前は生きる資格はない、お前が唯一できる社会貢献は死ぬことだ」と伝えようとしているような気がした。それが怖くてうつむいて歩いていると、その卑屈な態度で周りの人を不快にさせていると、なんだか非常に申し訳なく思った。電車は混んでいて、自分が臭くないかとても気になった。息や腋、背中などから悪臭がしていて、人々はなにも言わないが、本当はとても迷惑をかけているのではと思ってしまう。心の中でごめんなさいと呟きながらも、それでも死のうとしない自分自身を不思議に思った。生にしがみつく理由などないはずなのに、なぜ僕は迷惑をかけながら生きているのだろう。電車から降りて、少し歩くとナイトクラブに着いた。相変わらず重たいドアを開けて、中へ入った。  とまとの姿はなかった。僕はそのことを残念に思いながらも、心根では安心していた。また昨日のようにベラベラとまくし立てられては、とてもではないがたまらなかった。客は昨日と同じくらいの入りだった。カウンターに座り、ジントニックを注文した。隣に座っていた三十台前半と見られる女性が、震える手で一心不乱に錠剤をプチプチとパッケージから出していた。全部で七、八錠ほどあるそれを手のひらに集めると、一気に口に入れてグラスに入ったなにかで流し込んだ。少しむせて、しかめ面をしながら飲んでいたので、きっと強めの酒で流し込んだのだろう。僕はジントニックを飲みながら、ステージで踊る女の子を見ていた。店内に響く音楽に合わせて踊っている彼女らを見ている人は、僕くらいしかいなかった。みんな誰からしらと話をしていた。どうも、僕はこの店内の輪から外れているようで寂しかった。こうして孤立していると、自分が本当に誰からも必要とされていない存在だと思えてきた。とまとでもいいから、誰かと話をしたかった。ふと隣を見ると、さっきの女性はテーブルに突っ伏して倒れ込んでしまっていた。僕はジントニックを飲み干して立ち上がると、会計を済ませて外へ出た。  家に着くと僕はSNSの日記を書いた。とまとも言っていたナイトクラブへ行ったこと、今日はとまとがいなかったこと。それからシャワーを浴びてもう一度SNSの自分のページを見ると、僕の日記にコメントがついていた。その内容は、「とまとは昨日、死にました」というシンプルなものだった。シンプルだが、衝撃は計り知れなかった。なにがなんだかわからなかった。昨日、話した感じでは、とても死ぬなんて考えられなかった。もしかして昨日の帰り道で、僕がとまとに対して呪詛を唱えていたからだろうか。死ねばいいなんてチラとでも思ったからだろうか。  とまとが死んだ。もしかしたら嘘なのかもしれない。そう思おうとしても、心を包むどす黒い雲は去らなかった。  僕はとまとが死ねばいいと思った。そして実際にとまとは死んだ。僕もどこかの誰かに死ねばいいと思われているのだろうか。そうとも知らずにのうのうと生きているのだとしたら、やりきれない。おそらくはとまとに対する僕のように、きっと僕のことを死んでほしいと願っている人はいるのだろう。誰が? 親? 大学のゼミ生? 高校の部活仲間? 小、中学校のクラスメイト?  すると心の中でシュプレヒコールの波が僕に襲いかかった。ざわざわと僕を苛む。やめてくれ、ごめんなさい。いくら言い聞かせても無駄だった。シュプレヒコールはついに僕を取り囲んだ。僕は蹴られ、踏みにじられ、石をぶつけられ、唾を吐かれた。頭を乱暴に振って、精一杯の抵抗を試みるも、なんの救いにもならなかった。  ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。  僕は呪文を唱えるようにひたすら呟いた。下の階の居間からは、両親の笑い声が聞こえる。きっとテレビでも見ているのだろう。それを聞くと、今度は涙が出てきた。ハハハ、と乾いた笑い声が部屋に響く。僕はシャープペンシルを手に持つと、それを太ももに思い切り刺した。痛みは感じなかった。もう一度刺す。さらにもう一度。血が滲んできても、力を緩めずに刺し続ける。  そう、いま僕は生きている。
この文章の著作権は、執筆者である ビッキー・ホリディ さんに帰属します。無断転載等を禁じます。