純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号258 『素晴らしい偶然』 吉野雅哉は美しい残雪の山々を写真に撮りたくて、車で長野へ出かけてきた。彼は車で移動しながら二百枚以上も、山と田園と防風林に囲まれた農家などの写真を撮った。それらの風景は写真の題材として、最高のものだと彼は信じていた。天候にも恵まれた。 だが、彼は孤独であり、孤独であることに満足はしていなかった。助手席に若くて優しい性格の女性を乗せてきていたなら、風景はより一層、美しく感じられるのではないかと思った。昼食の蕎麦は、もっと美味く感じられただろうと思った。彼は二十二歳だった。 吉野は車で探し回ってその少女を、田園風景の中で発見したのだった。夕陽に染められた、白いワンピースが似合っていた。滅多に出会えない、素晴らしく可愛らしい少女だった。はっきりした根拠はないのだが、彼女の年齢は十七歳だと、吉野は推定した。最後の一枚に、彼はその少女を映した。 渋滞する高速道路を七時間も走って帰宅した彼は、その翌日に撮影済みフィルムを写真屋に持って行った。 写真ができ上がったのは、その三日後だった。初めてそれを見たとき、あまりにも巧く撮れていたので吉野は驚いた。残雪の美しい山々を背景に、野の花を持ってたたずむ美少女の映像は、写真の段階で、既に見事な絵になっていた。 写真を撮る直前に、吉野はひとめ惚れをしたのかも知れなかった。なぜそこに居たのかも、どこの誰ともわからない、ショートカットの美しい少女だった。彼はその写真を大きく伸ばしたいと、思った。 近所の写真屋に、焼き増しを依頼してから数日が過ぎた。引き伸ばしてもらった少女の写真を受け取った彼は、改めてその少女の魅力に耽溺した。 その数日後、写真を見て彼は油絵に描き始めた。だが、その絵は何度描き直しても、納得のできるものにはならなかった。少女の魅力的な、無垢な、そして、際立って清楚な雰囲気が、どうしても表現できないのだった。吉野は意気消沈し、写真も絵も、共に押し入れに仕舞いこんだ。 二年が過ぎた。その朝、勤め先の近くの駅で、吉野はその少女を見かけた。暫く振りに再会した少女は随分大人びて見え、女性としての魅力に包まれていた。その姿はもはや「少女」ではなかった。本当にその女性が、あの少女なのかどうか、確信は持てなかった。仮に話をすることができたとしても、どのように云って確認すれば良いのか、判らなかった。 押し入れの中から懐かしい写真を出し、吉野はその絵をもう一度描きはじめた。改めて描いてみると、やはりひどく下手な絵になった。彼は絶望的な気持ちになりながら、何度も描き直した。しかし、なかなか巧く描けなかった。彼は人物画を主に教えてくれる絵画教室を探し当て、毎週そこに通った。 半年が過ぎた。漸く納得できる絵が完成した。吉野は初めて自らの絵に感動した。それを、市民美術展に出品することにした。 吉野が描いた五十号の少女像は、驚いたことに初入選で特選になった。彼はずっと前から一緒に絵を描いて来た友人を、市民美術展の会場に誘った。友人は、その絵を自分の部屋に飾りたいと熱心に訴えたが、吉野はかたくなに断った。 市民美術展が会期を終えてから半年後のことである。レストランでの昼食のとき、吉野は彼女に再会した。あの、絵に描いた少女は、半ば大人の女の気配を宿していた。美しいストレートの美しい髪を更に長くのばしていた。吉野は話しかけてみたかった。だが、こちらにも、向こうにも、同伴者があった。 その数日後、名前を知らない女性から吉野雅哉宛にラブレターが来た。何度も相手の住所と名前を見たが、知らない女性だった。「山中美由紀」というのが、相手の名前だ。まるで聞いたことがない名前である。だが、宛名は確かに「吉野雅哉様」となっており、住所も間違いない。彼は不思議に思いながら考え続けた。幾ら考えてみても、山中美由紀という名前に心当りがない。住所はふた駅離れた場所だが、同じ市内である。 その晩、吉野は電話帳を開いた。その分厚い印刷物を見て行くと、その住所では山中由紀夫という記載があった。ラブレターを書いたのはこの人物の娘だと、吉野は確信した。 もう、半年も前から、わたしはあなたを愛しています。あなたがお描きになる絵も大好きです。市民美術展に出品されたあの、少女の肖像画は、多分、わたしがモデルですよね。何年か前にあなたはわたしの写真をお撮りになり、それを元に絵をお描きになったのですね。わたしは、あなたに写真を撮られたときのこと、憶えていません。春の安曇野で、あなたは北アルプスの山々を撮影していたのですね。そのとき、ついでに通りすがりのわたしも撮ったのでしょう。そのときから仮に三年が過ぎていたとしたら、いまのわたしは、あの絵の姿より三歳も、年輪を重ねてしまったことになります。 でも、まだ五十歳にはなっていませんよ。驚かれましたか?ほんとうはまだ、二十歳の 女子学生です。あなたはわたしが通っている学校の近くの会社に、お勤めなのでしょうか。この前、あなたは恐らく同僚の男性とレストラン「グリーン」でランチを召し上がっていましたね。わたしは同性のクラスメイトと、隣のテーブルで食事していました。このところ日刊就職情報の原稿が、遅れ気味なので困っているのだと、あなたは同僚のかたにおっしゃってましたね。あなたは印刷関係のお仕事をされているのだと、わたしは思いましたが、違いますか?わたしはあなたのお声ばかり聞いていたので、クラスメイトに叱られてしまいました。 半年前の市民美術展の会場で、わたしはあなたのお描きになったあの絵から少し離れた場所に、三時間も立っていました。あなたにお会いしたかったからでした。市民美術展には、わたしも下手な絵を出品しましたが、お気付きでしたか?それはひまわりの絵でしたが、恐らくご記憶にないでしょうね。誰も注目しない稚拙なものですので、それは仕方がないことだと思っています。 あの日初めて目撃したあなたは、あなたの友人らしい男性とご一緒でしたね。そのかたがあなたの絵をおほめになり、あなたは嬉しそうでしたね。その笑顔に、わたしは恋をしてしまいました。わたしがあなたをお慕いするようになったのは、あのときからです。わたしがいまも、あなたに恋をしていることは間違いありません。 唐突ですが、わたしはあなたが直接いまのわたしを見て、絵を描いてほしいと思っています。どうでしょうか。わたしを描いていただけませんか?それとも一緒にどこかへ絵を描きに行く、というのは如何でしょうか。その前にお会いしてお話をする。それが順序というものですね。どうかしてました。ごめんなさい。 不作法なことはわかっています。ご迷惑なこともわかっています。諦めるべき、とも思います。でも、諦めることは困難です。あなたが好きなのです。できたら一度だけお会いして、お話をさせて頂く、というのはどうでしょうか。少しはお酒も飲めますので。 白状します。実は先程、お酒を飲んだのです。同性のクラスメイトと一緒に居酒屋へ行き、のろけ話を聞かされたのです。友人と、彼女の恋人との幸せな話を聞いているときに、わたしはあなたを想っていました。あなたに会って、お話をしたいものだと、切望していました。あなたの絵が好きです。あなたのお姿が好きです。あなたのお声が好きです。 強引ですね。明日の夜、午後八時から「白夜」でお待ちします。あなたの会社の近くにある喫茶店ですからご存じですよね。午後九時まで待っていますので、できればお会いしたいと思っています。 吉野は仕事中に、何度もあの少女を思い出していた。 あの可憐な少女が、いまは二十歳の娘になり、吉野にラブレターを送ってきた。その娘が会って話をしたいと云う。一緒に酒を飲みたいようでもある。そして、一緒に絵を描きに行きたいと云う。更に、新たに肖像画を描いてほしいとも云う。 勿論、そのような、願ってもないチャンスを逃す筈はない。吉野は絶対に今夜、彼女に会いに行くつもりだ。 仕事が手につかない。ミスをして上司に呼ばれ、叱責された。 「どうしたんだ。こんなドジは三年前に卒業した筈だぞ!」 かなり太めの上司は呆れ顔で云った。  間もなく午後八時になろうとしている。山中美由紀は既に「白夜」の店内に居て、吉野を待っているかも知れない。そう思うと、じっとしていられない気持ちだ。  そのとき上司に呼ばれた。取引先の大手印刷会社への届け物を依頼された。 「それを届けたら、直帰していいぞ……この野郎、デートだろう。おまえにもやっと、そんな相手が現れたんだなあ。幾つになった?」  タクシーで往復すれば四十分弱だと、吉野は計算した。 「おいおい。俺の声が耳に入らねえのか?」 「……二十五です」 「二十五か。長過ぎた春にならないように、まあ、頑張ってくれや」 「……」 「よしっ。じゃあ、行け」 「はい。お先に失礼します」  上司から渡されたベージュ色の大きな封筒を持ち、吉野は外に出た。大通りまでは歩いて三分足らずである。 途中のビルの二階にある「白夜」のガラス張りを見上げたが、水商売風の女と男の姿が見えただけだった。  排気ガスと共に、晩秋の風が流れる交通量の多い通りで、彼はタクシーに乗ろうとしている。手を繋いで歩くカップルが目立っている。絶対に午後九時までに、彼女に会いに行きたい。美しい女性と手を繋いで歩く自らの姿を、彼は想像している。そうしていると、この前のレストランで聞こえた声が、彼の耳元で再生された。実にきれいな、爽やかな声だ。発音も非常に好感の持てる、きちんとしたものだ。あのとき無理をして話しかけたとしたら、どうなったのだろうか。  眼の前に後方からきた個人タクシーが停車して、ドアが開いた。気が付くのが遅かった。 「乗るんですか、乗らないんですか?」  初老の乗務員は吉野を睨みつけた。 「すみません。乗せてください」  慌てて乗車し、行く先を告げた。 「どうも、最近の若い人は、ぼおっとした人が多いようですね。そんなことで、日本に未来はあるのかと思いますよ」 「はい」  吉野の耳に乗務員の声は届いていなかった。いまの彼にとって、日本の未来よりも、午後九時までに山中美由紀に会えるかどうか、ということの方が重要だった。 時刻は午後八時十分になっている。目的地に到着するのが八時二十五分。印刷原稿を納めてから、待たせておいたタクシーに再び乗車するのが、八時三十五分。彼女に会えるのが、八時五十分。  遥か前方で、紅い灯火が幾つも点滅している。 「火事かも知れませんよ。迂回しますか?」 「急いでいるんです。信号が少ない裏道で行ってください」  吉野は興奮気味に云った。 「わかりました。急いで行きましょう」  車はタイヤを鳴らしながらすぐに左折して裏道に入った。そのあとは右折し、雑居ビルやマンションが立ち並ぶ中を乱暴な運転のタクシーは疾走する。 「昔、カーレースをやってたもんでね、待ってました、という気持ちですよ」 「それはありがたいです。乗った場所に八時四十五分までに戻りたいんです」 「あと三十五分か。楽勝ですよ」 「済みません。助かります」  吉野のまぶたから涙が溢れだしそうになる。色とりどりのネオンサインが重なって文字が読み取れない。若い乗客は手で涙をぬぐった。 あっという間に印刷会社の前に到着した。吉野は玄関に駆けこんでレイアウト課まで更に走り、カウンターにベージュ色の封筒を置きながら担当者を呼んだ。くわえ煙草の中年男が走ってきた。 「早かったじゃない。中身を確かめるから、待っててくれる?」 「すみません。ほかに用事があるもので、何かあったら電話してください。よろしくお願いします」 「デートかい?今日は華の金曜日だからね。いいよ。気をつけてね」 「そういうわけじゃないんですが、ありがとうございます。よろしくお願いします。失礼します」  吉野は急いでタクシーが停車している場所に戻った。ドアが閉まった瞬間に、車は急発進した。 助手席の前に運転者の氏名が表示されていた。 「あれ?山中由紀夫さん?聞いたような名前ですね。かなり有名なカーレーサーだったということですね」 「冗談はやめましょう。元カーレーサーと云ったって、雑誌に何度か名前が出た程度です。当時の関係者でもなければ、私を知っている人はいませんよ」 「そうですか?そのお名前はどこかで……」  そのとき、吉野は漸く思い出したのだった。そのタクシーの乗務員は、彼がこれから会おうとしている女性の父親なのである。その名前は電話帳で見た名前だった。こんな偶然があるとは信じがたいことだが、絶対にないことではないとも思われた。  吉野は山中美由紀の住所を云ってみた。 「えっ?驚きましたね。どうして知ってるんですか?」  乗務員はかなりの驚きを、その声で表現した。 「……」 お嬢さんからラブレターをもらって、いまから会いに行くところです、と云うわけにも行かない。拙いことを云ってしまったと、吉野は後悔している。 「私の住所を知ってるなんて、気味が悪いですね。どういうことですか?」 「……」  吉野は困り果てた。事実を云わずに、この窮地から脱することはできないだろうか。 「ああ、そうか。ご近所のかたですね。この車を家の前で見たんでしょう。最近のことでしょうね」 「そうでした。実は、そうなんです。近所でもないんですが、この前見たんですよ。山中タクシーって、書いてあるのをね」 「なるほど。はい。到着しました。おう、ぴったり八時四十五分です」  慌てて紙幣を二枚出した。 「ありがとうございます。今日のことは一生忘れませんよ。おつりは結構です」 「そうですか。ありがとうございます。レシートと私の名刺です」 「はい。ありがとうございます。お気をつけてお仕事、頑張ってください」 双方とも笑顔で別れた。 吉野は待ち合わせの場所に走った。階段を登り、奥の方の観葉植物の陰の席に、山中美由紀の好ましい姿があった。心臓が破裂しそうなほど、鼓動が脈打っている。 「こんばんは。お待たせしました」  美由紀は透明感のある爽やかな声で挨拶した。 「こんばんは。ありがとうございます。嫌われたのかなって、心配していました。どうぞ」  ウェイトレスがオーダーを取りにきて、漸く吉野は美女の前に座った。彼は笑顔を紅潮させている。美由紀も、素晴らしい笑顔を紅く染めている。吉野が確認してからコーヒーをふたつ注文した。 「あっ!お父さんの名刺」  吉野はそれを手に持ったまま来たのだった。その名刺を無意識にテーブルに置いたのである。 「やっぱりそうでしたか。凄い偶然ですね。仕事の用事でタクシーに乗ったら、美由紀さんのお父さんのタクシーだった、ということですね」 「そうなんですか!信じられない偶然ですね。わたしはこのお店まで、父の車で来たんですよ」 「……それは、八時五分頃ですか?」 「そうです。確か、そのくらいでした」 「じゃあ、美由紀さんの次の乗客がぼくということですね。この店の前を歩いて行って、大通りに出たところで乗りましたから」 「ということは、純粋な偶然でもないような気がしますね」 「しかし、驚きました。お父さんも驚いていました」  美由紀は血相を変えた。 「父にばれてるんですか?もう」 「いえいえ。そんなことはありません。余計なことは云ってませんから」 「そうですか……でも、この流れ、おかしくないですか?」 「えっ?何がおかしいんですか?」  コーヒーがきた。ウェイトレスが去ってから美由紀が云った。 「だって、わたしたち、初めてお話してるんですよ。それなのに、なんだか、ずっと前からの知り合いみたいじゃないですか」 「そうですね。確かにそうですよ。こういうのって、珍しいかも知れませんね」 「でしょ……でも、相性は悪くないみたいですね。安心しました」 「ぼくもです。よろしくお願いします」  吉野が手を差し出すと、美由紀は躊躇わずに握手に応じた。 「こちらこそ、よろしくお願いします。わたしの父も、気に入って頂けましたか?」 「最高です。あんなにいい人に会ったのは初めてです」 そう云った瞬間に、吉野のまぶたから、涙が溢れでた。美由紀も泣いた。 「そうですか。ありがとうございます。わたしも父が大好きなんです」 ふたりは握手をしたまま、涙が止まらなくなった。あのとき、少女だった美由紀を写真に撮れたのも、単なる偶然ではないように、吉野には思えた。 ふたりはその晩、居酒屋で飲み、吉野はタクシーで美由紀を送って行った。 「美由紀さん。あの手紙には驚きました。どうしてぼくの名前と住所がわかったんですか?」  美由紀は乗務員に聞こえないように吉野の耳元で、キスをしてくれたらそれを教えると云った。吉野は彼女を抱きよせて、初めてのキスをした。美由紀は自らの願いが叶ったあとで云った。 「市民美術展の出品目録を見たからよ」  吉野は助手席の前の乗務員証を見た。いま乗っているタクシーが、美由紀の父の車ではないことを確認し、彼は安堵した。                   了           2011年8月4日
この文章の著作権は、執筆者である マナーモード さんに帰属します。無断転載等を禁じます。