純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号256 『濃藍のスフィア』  初めてこの関係を紡いだ時のことなど、今さら思い出す必要はないのだろう。どう言い繕ったところで、私が禁忌を犯していることは確かなのだから。  ……けれど、廊下に響く足音が独特のリズムでこの部屋に近付いてくると、法則じみた流れで脳内に佇むスクリーンは映写機のフィルムに記録された、この許されぬ出逢いを映してしまう。  あれはもう二年も前のことだ。当時の私は、大学時代から付き合っていた彼に突然婚約を解消され、あまつさえ漸く慣れた職場から異動し、系列のこの高校へ赴任したての落ち着かない日々を送っていた。  私は美術教師で、教師になりたての頃は美術を通してあらゆる事物への審美眼を育て、生徒達が社会に出た後の人格形成における一助となろうなどという薄っぺらな、しかし語るには模範的な希望を抱いていた。けれどそれは、現実に目を背けた私の私による偽善のプロパガンダに他ならなかった。私自身が、心の奥底では高校の授業における美術が単位取得ということのみに着目された、ただただ口に入れて消化し、排泄するマイナー科目かつ名目上の時間の使い方でしかないことを知っていたからだ。では何故、あのように聞こえはいいが馬鹿げたプロパガンダを心内で叫んでいたのか? それは、私が画家で食べていくという夢に挫折し――しかも再挑戦することなく、早々に諦め――成り行きで取っていた美術教師の免許でどうにか職にありつけたことに由来するのではないだろうか?  ……と、この期に及んでも私は私を含めた全世界に申し開きをしていた。一度の挫折で安易に夢を手離した私は、その夢の乾ききっていない傷の瘡蓋★かさぶた★を覆うフィルムの役割を、教師となった機★とき★のプロパガンダに見出していたのだろう。  ……いや、もう無用な、そして見苦し過ぎる言い訳は止そう。私など、自分自身の夢の大きさから逃げ出した卑怯で臆病な逃亡者なのだ。  そうして私は偽りの、それでいて聞こえだけはいい宣伝文句でよろっていたのだが、現実はそれさえも自由に掲げさせてはくれない。先に、美術という科目がマイナー科目で、消化するためだけのものだは述べておいたが、その言葉をしても、新しく赴任したこの学校の生徒たちの私の授業に対する興味は希薄だった。いえ、まったく興味を示さない、そう表した方がいいのかもしれない。彼らの頭にあるのは偏差値のみで、早々と課題を提出した後は、一年生でも大学受験用の問題集を堂々と広げていた。そして、その行為を高校側は黙認していたのだ。  私は、どうにか自分という人間が壊れないようにとかざしたプロパガンダさえも、ここでは無用のものでしかないことを痛切に感じていくのだった。日を追うごとに気力が失せていく、そんなある日だった。  その日は受け持っている授業も少なく、私は美術室で絵を描いていた。職員室にいても、有名国公立大、或いは有名私大へ生徒を合格させることしか興味のない他の教師達と、美術という受験に関係のない科目の教師である私が会話を弾ませることなど有り得るはずもなく、居場所がなかったからだ。  私は、学生時代に行ったサン・ジミニャーノの街並みをデジカメから写し取り、漸く絵の具を乗せようとしていた。 「これってさ、イタリアでしょ。えっと……、確かサン・ジミニャーノだったっけ?」  いつの間に美術室へ入ってきたのか、背後より少し低く、けれど透き通るような声が聞こえた。振り返ってみるとそこには、やや茶色がかった髪の美しい少年が立っていた。明らかに日本人とは異質な彫りの深い顔立ち。高い鼻は真っ直ぐにこちらを向いて形も良い。色艶やかな薄めの唇が口角を上げ、何より大きな瞳は深い藍色で印象的だ。深海のような、そう形容しても遜色はない。  私は彼に、昔読んだギリシャだったかローマだったか判らないけれど、神話に登場する――美少年の代名詞たる――アドニスを見ていた。 「君は、えっと……」  初めて見る顔に違いはなかった。私はショタコンではないし、子供といってもいい生徒達を今の今まで美しいなどと思ったことはなかったが、彼ほど整った容姿の生徒をよもや見忘れることはないだろう。それほどに、彼の美貌は恐ろしく抜きん出ていた。 「一年A組の吉岡ナタル。……って、知らないのもしょうがないよね。俺、美術取ってないから」  彼の言葉で漸く合点がいった。美術は選択科目で、家庭科とのいずれかを選ぶようこの学校ではカリキュラムが組まれている。彼は家庭科を選んでいたのだろう。 「美術を取っていない君がここに何の用? ここには美術部もないのよ」  少々強く突き放すような語気を用いてしまったのは、それほどに彼が眩しかったのだろうが、今となっては判然としない。 「そんなに尖らなくたっていいじゃん。前にね、授業サボって美術室の前を通ったんだ。その時に先生が絵を描いてるのを見たわけ。……先生ってさ、いつもイタリアの絵を描いてるよね?」 「よく判ったわね。私、イタリアが好きなの。学生時代に二回行っただけなんだけどね」 「そうなんだ。実はさ、俺、日本とイタリアのハーフでさ。行ったことはないけど。よく小さい頃から母さんにイタリアの写真とかいっぱい見せられててさ、それで」  彼は大きな目を少し細めながら、まだ絵の具を乗せる前のデッサンに見入っていた。 「あっ、嘘。生まれたのはイタリアらしいから、行ったことがないってのは正確じゃないよね?」  初対面なのに一切遠慮なしに話す彼の美しい顔が、笑顔でくしゃくしゃになる。何故だか可愛らしく思えたのを憶えている。  その日から、彼は毎日美術室へ来るようになり、一ヶ月も経った頃、こう言って私を驚かせた。 「先生、俺に絵を教えてくれない?」 「でも吉岡君、勉強はいいの? ここは一年生から受験に向けての勉強を始めるんでしょ?」 「大丈夫。俺、成績だけはいいから。それにさ、ここの奴等、学校終わってもすぐに塾とか行って勉強するだろう。家に帰っても誰もいないし」  彼の言ったことは事実で、ここの生徒達は第一に勉強、そして二にも三にも、四も五も勉強にしか興味を持たないのが殆んどだ。けれど、私が気になったのはそのことではなくて、彼が話してくれた後に見せた、少し寂しげな藍色の瞳だった。  私は、その時はそれ以上何も聞かず、まずはデッサンから教え始めたのだったが、教えていくうちに徐々にではあるが互いの話をするようになっていった。  そこで知ったことといえば、彼の父親は早くに死に、今は会社を経営している忙しい母親と二人暮らしということ、塾へ行くわけでもないのに、いつも学年で一番の成績を獲っていること、それが元で妬まれ、友達が一人もいないこと、小遣いだけはたくさん貰っていること、食事はいつも外で、しかも一人でしていること……。  通常、これほど容姿に恵まれた男の子ならば、女友達に事欠くというのは考えにくい。しかし、不幸にもここは男子校なのだ。そして、友達となるべき他の生徒達は、彼への嫉妬から会話を交わすこともない。初めのうち、私は彼のその容姿にそぐわぬ境遇に同情していた。  そしてある日、 「手作りのものなんて、長いこと食べてないんでしょ? これ、食べて。絵と料理だけは自信があるのよ」  と、昼休みにも来るようになっていた彼にお弁当を渡したのだった。 「……何か、年寄りの弁当みたい」 「気に食わないのならいいのよ、別に。作り過ぎて、それで持って来ただけだから」  私は精一杯余裕の表情を作り、その場を取り繕った。何故ならばそのお弁当の内容は、私が得意としているものばかりを詰め込んだ自信作だったからだ。 朝起きてお弁当を作ろうとした時、彼のあの寂しげな表情が頭を過り、気付けば二人分のおかずを作っていた。まともに家で食事をしていない――と彼は言っていたから、嘘でなければだが――彼のために、出来るだけ家庭的なものをチョイスしたのに……。 「先生、今の嘘。俺、こういうの食べたかったんだって。……嘘じゃないよ、怒った?」  心配そうに覗き込む彼の藍色の瞳が美し過ぎて、私は直前の落胆を忘れ、食い入るように彼を見詰めていたのだった。この時既に、幾つも年下の彼を好きになっていたのだろう。  ……好きになっていたのだろうと、自分の気持ちを確定的に断定しなかったのは、もしかすると私は出逢った日にはもう彼に魅せられてしまっていたという疑問を拭い去ることが出来なかったからかもしれない。  心の中の恋という蝋燭に火が点き、徐々に私を支配していったというのに、全身にその炎が回りきるまで気付けない鈍感な女という証に相違なかった。  ――私は彼に恋している。私は……彼のことを好きなのだ。  教師と生徒という許されぬ垣根があることなど、このような気持ちに至った後では、それは越えてみたい障壁、受愛のための甘美な試練にしか感じられなかった。そしてそれは、鈍感な女であるという証拠を暴き立ててくれた以上に恋に対して能動的でない私のモティベーションとなる事実だった。理性というタガが音を立てて――しかも脆く――崩れていくのを予感していたのだ。  その日以降、私は毎日彼へお弁当を作り、この思いがいつか実を結ぶのを心待ちにしていった。毎日美術室へ足を運び、美しい顔を綻ばせてお弁当を平らげてくれる彼を、私一人のものにだけしたい、そんな願望が日に日に募るのを確かに感じながら。  私がお弁当を作り出してから数ヶ月を経た夏の暑い日。初めて美術室を訪れて以来、一度たりとも欠かさず顔を見せていたというのに、その日、とうとう彼は来なかった。次の日も、そしてその次の日も。  ――一週間が経った。  それまでの間、彼を心配しなかったことなど勿論あるはずもなく、いえ、それ以上に彼に逢いたいという気持ちが破裂してしまいそうになるくらい私は不安だった。けれど、私は彼の担任ではなく――私はクラスを受け持っていない、ただの美術教師だ――、彼自身も美術を選択していないのだから、私がその安否を知りたがるというのは不可解極まりない。それに、彼の特異といっても言い過ぎでない見事に整った容姿をして、あらぬ疑いを――私にとり、それはあらぬ疑いではないが――掛けられれば、彼に迷惑が及ぶ。  そんな裏腹な気持ちのまま、仕事を終えた私は学校を後にした。彼以外のことを考えるなど出来るはずもなく、瞳を通して映る世界に色はない。私自身とて同じこと。モノクロの世界をモノクロの私が、そのモノクロの世界の一部として、モノクロの視界のまま、扉を開けてもなおモノクロの小さなマンションの一室の景色に向かって歩いているのだ。きっと振り返ったとしても、やはり瞳に映る風景に色はないだろう。  ちょうど曇りの天気は、神様の悪戯★いたずら★にしては意地が悪過ぎる、などと心の中で見当違いな八つ当たりをしながら、私は暮らしている最寄りの駅で電車を降り、マンションへ向けて歩き出そうと、駅の構内を出た。今にも雨を降らせそうな意地悪な空を一度睨みつけ、家路を急いだ。 (もう、降らないでよ……)  そんな独り言が空に聞こえてしまったのか、マンションと駅の中ほどまで来た時、遂に私の頬を一粒の雨が濡らした。そしてそれは、私に追い打ちを掛けるように――雷まで伴い――大雨へと瞬時に変化した。雨はほんの数分の通り雨には違いなかったが、私をさらに落ち込ませるには随分と効果的で、その上マンションまであと十分というところまで来た頃には、モノクロの視界は漆黒の闇へと変わっていた。気持ちがさらに塞いでいくようだった。  俯きながら、もう一度歩き出して暫く経った時、尾けられているような気配を感じた。一度振り返ったが誰も認めることは出来ず、私は小走りでマンションへ駆け込み、鍵を掛けてチェーンロックをし、バスルームへ消えた。  小さな部屋の小さなユニットバスの不必要に明るい照明が、私を罰しているように感じた。幾つも歳の離れた生徒に思いを寄せた私の何の弁明も聞かずに罪状を読み上げる、モノクロの心しか持たない裁判官の発する瞳の光とそれは同義だと思った。  手早くシャワーを浴び終えた私は、逃げるようにしてバスルームを出、冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルタブを思い切り起こし、弾ける泡を口に含んだ。粗い泡の軽い感触の後、鋭い刺激が喉を突き刺す。麦芽の香りがこんなにも苦く感じたのは生まれて初めての経験だった。  ビールを二缶、三缶と開けていくうちに、それに比例するようにどんどん気持ちが凍っていくように感じた。  ――私は、このまま一生退屈な日々を過ごしていくのね。  なんて思いながら。 『ピーンポーン』  インターホンが突如としてなった時、私は既に冷蔵庫にあった缶ビール八本すべて飲み干し、安物のワインへ、これまた安物のサラミと共に移るべく、ワイングラスを取りにキッチンへ行こうと立ち上がっていた。  グラスを取るのを止め、インターホンの受話器を取ると、 「先生、来ちゃった」  という声がした。その瞬間、私の心に色が散りばめられていくような――酔いも手伝ったのか、それは驚くほどの速さで――感覚に陥っていた。  私はすぐにオートロックを解錠し、 「上がって」  と彼に告げたのだった。   「どうして私の部屋、判ったの?」 「母さんと喧嘩してさ、家でしてたんだけど、どうしても先生に逢いたくなって。確か、K駅をいつも使ってるって言ってたじゃん? だから、待ってた。それで先生を見付けて、でも何だかバツが悪くて後を尾けたんだ。もし、俺を見付けるか、それともすぐにマンションから出てきたら、何食わぬ顔をして現れようと思ったんだけど。……先生、俺に気付かないし、出ても来ないから、我慢出来ずに来ちゃった。それでね、片っ端からインターホンを鳴らしたわけ」 「……もう、悪い子ね。それに、後を尾けられてるのは気付いてたの。まさか、吉岡君だとは思わなかったけど。最近物騒だって聞いてたから、ちょっと怖かったんだ」 「ごめんごめん。……って先生、飲んでる? 酒臭せえ」 「自分の部屋で何飲もうと、私の勝手でしょ?」 「絡むねえ、嫌なことでもあった?」  ……嫌なこと。 『それは、君が一週間も学校に来ないからよ』  もう少しアルコールが入っていたならば、その言葉は容易に私の口を突いて出ただろう。しかし、奥手なくせにアルコールには強い私の身体がリミッターを振り切ることを許さなかった。 「あるわよ、大人には色々とね。それより吉岡君、濡れたでしょ。シャワー浴びなよ。服貸してあげるから、それ着て早く帰らなきゃ。お母様、心配してるわよ」  胸を強く打つ鼓動に反し、私の口は至極真っ当な台詞を吐き出した。今すぐ彼を抱き締めたくて仕方ないくせに。彼の表情はいつもの賢さを一切感じさせず、引き攣った笑いを浮かべている。それを確かに見たというのに。寂しさを感じさせる翳りが、その瞳を強く支配していたというのに。 「ありがとう先生、シャワー浴びたらすぐに帰るから」  もう一度笑って見せた彼の表情は、酷く痛々しくも見えた。  彼がシャワーを浴び始めた後、私は普段はあまり見ないテレビの電源を入れた。下らないバラエティー番組の喧しい遣り取りも、水圧だけは強いシャワーに打たれている彼が気になって少しも耳に入りはしない。 「先生、バスタオル貸してくれない?」  シャワーの音に紛れて、彼の少しだけ低い声が私に届いた。バスルームの少し開いた扉の隙間からそっとタオルを渡すと、彼は何も言わずに受け取り再び扉を閉める。私の鼓動はさらに速くなっていった。  この部屋には脱衣所というものがなく、リビングから直接バスルームになっているため、私はTシャツとスウェット地のパンツ(前の彼氏のものだが)をその前に置いた後、寝室へ移動して煙草に火を点けた。吐き出した煙と一緒で、私もふわふわと浮ついているのだろうか。  暫くするとバスルームの扉をあける音がし、また少し間を置いて彼の声がした。 「先生ありがとう。もう着替えたから、出てきてもいいよ」  大きく煙を吐き出して寝室を出ると、湯気の上がる彼の美しい顔がそこにはあった。毎日顔を合わし、毎度綺麗な顔だと思ってはいたが、一週間という空白がさらにその気持ちを際立たせた。  私は、 『すぐに帰りなさい』  といわなければならない己の立場を忘れ、暫し彼を見詰めたのだった。 「どうしたの、先生。そんなに固まって」  彼に意識を奪われていたのは明白であり、明確な事実だった。少なくとも、すぐに帰れなどと言う気分には到底なれない。 「お腹空いてない? 昨日の残り物で良かったらあるけど」 「へへ。正直言うと、すごく腹減ってたんだよね」  すぐに残りものを温め、ご飯の用意をすると、美術室で私の作ったお弁当を頬張る時よりも勢いよく平らげていく。さっきまでの誰もが平伏してしまうような美貌が、可愛さを伴い私の目の前にある。もう、理性というもので私自身を縛★いまし★める自信が持てなくなった。それは、彼に出逢って芽生えた恋心とはどこか距離感のある、邪★よこしま★でいて官能という言葉にのみ着地点を見出すことの許される背徳的な響きを湛えてい、少しの会話の後の僅かな沈黙が、その想いに号令を出す合図にも思われる蜜たる刹那でもあったのだ。  私は彼の頬に手を当て、そして唇を合わせた。自ら舌を捻じ込むと、私の作った煮物の味が仄かに横切り、直後、彼の意思の伴った舌が私を迎え入れてくれた。私の中から、思考というロジックが消え去っていく。そう、私は考えることを放棄したのだった。 フローリングの冷たい感触が肌を通して直に感じられる頃になると、私自身の火照った身体に心地好く伝わり、その分彼の体温が加速度的に上昇していくのを認めることが出来た。我を忘れた。  それはトキメキという感情から乖離した、寧ろ逆説的な感覚かもしれない。いくら頭で今この瞬間興じている行為が許されない類いのものであると判っていたしても、私の肉体を這う彼の指が、舌が、頑なであろうとしていたさっきまでの私をドロドロに溶かしていくのだ。快楽へ、禁忌や――道徳と呼ばれ倫理と崇められるすべての概念に対し――貞操という鎖を外して身を委ねるという特権が男のみに許されたものでないことを、私は身を以て感じていた。いえ、女としての肉体を手に入れた思春期に花開く生まれ持った欲求なのだと思うことにし、彼の猛々しい印を身体の芯へ向かって受け入れる。溶けた精神の潤滑油が彼の印の摩擦により熱を帯びる。それは狂おしくも甘美な熱波となり、髪の毛の先から足の爪の先まで一瞬で伝わり、直後痺れる脳を侵した。熱くたぎるような感覚は単純な信号に変換されて、私は歓びに充ちた声を漏らしてしまう。もはや、それを止めることなど叶わない。全身全霊で次の熱波を期待している私がいた。   熱いものを再度私のお腹に吐き出した後、彼は優しくティッシュでそれを拭ってくれ、額にキスをしてくれた。 「先生、どうして俺を誘ったの?」  この言葉を聞いた瞬間、色々なものが頭を過った。シャワーを浴び終えた後の寂しげな表情、貪るようにして食事をする無邪気さ、それらをしても褪せることのない美貌、蓄積した憧れが――年下の男の子に対して憧れとは、それは違うような気もするが――一気に爆発したのは、屑かごに捨てられた大量の残骸と脱ぎ捨てられた二枚のTシャツと二対のスウェット地のパンツが物語っている。  火照りが冷めていくのと反比例して、今度は目の前の彼が酷く愛しく感じられ、服を纏った後ベッドに入ると、どうして家出をしたのか訊ねてみた。 「母さんが再婚したいんだって。俺は嬉しかったのね。でもね、どこか寂しい気分になってさ。笑えるよね? 十六にもなってマザコンなんだってさ。で、中学時代の友達の家を泊まり歩いてたんだ。けどさ、行く先もなくなって、もう家に帰ろうかとも思ったんだけど、その時、先生の顔が浮かんだんだ。……わけ、判んないよね」  これがかつての恋人や、突然婚約を解消された男の言葉だったとしたら、どう私は感じたのだろうか。マザコンだとか軽蔑するのか、それとも私を頼ってくれたのを嬉しがり、思い切り甘えるのか。けれど今、私の胸に顔を埋めているのは、そういう人達ではない。大人びて綺麗だけれど、彼は十六の男の子なのだ。私は何も言わずに抱き締め、綺麗な髪を指で梳いた。私の髪と同じ香りが、私を眠りに誘った。  翌朝、まだ眠ったままの彼に置き手紙とスペアキーを残し、私は出勤した。午前中の授業を終え、お弁当を忘れたのを気付いて溜め息をついていると、独特のリズムで美術室へ近付いてくる足音が聞こえた。 「先生、忘れ物」  今日も昼休みの始まるチャイムがスピーカーを通して聞こえてくると、恋と呼ぶには危げなさざめきが私の胸を襲う。あの夜から二年、彼はもうすぐこの学校からいなくなる。その瞬間、私が冷静に彼を送り出せるか定かではないが、今少しこの禁忌を味わっていたいと思う。空よりも青く、海よりも深い色をした球★まる★い瞳が私を捉えてくれているうちは。                            (了)
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