純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号251
『hana』
喉の奥がひゅうと鳴った。煙草を吸い過ぎたのだ。
仕方がないでしょう、と誰にでもなく言い訳した。今日は、坊主だったのだから。
しかも、その後冷房がガンガンに効いた事務所で眠ってしまい、店長に面倒くさそうな声で起こされるはめになった。
坊主というのは、まあ所謂業界用語というやつで、客がつかない状態のことを言う。
ひとつ大きな咳をすると痰が迫上ってきたので遠慮無くそのへんに吐き捨てた。
そしたらそれは、誰かが苦しみながら落としたのだろう吐瀉物のそばにぼとりと落ちた。
きったね、とつぶやく。
擦り切れた財布の中には2347円が入っている。
コンビニのレシートと、コンドームも入っている。
クレジッドカードはとっくに止められていて
一応持っている銀行のカードの残高は294円だ。煙草代にもなりゃしない。
もうすっかり朝になった街中には、早朝出勤のスーツ姿のサラリーマンや
朝練だろうか、ユニフォーム姿の高校生なんかがちらほら見え始めている。清潔な朝。
ネオンが照らし、私たちが堂々と歩いていたはずの繁華街は朝日のもと縮こまっているようにさえ見えた。くたびれた、安っぽい街だ。
タクシーを使う金もなかったため、まだ空いているだろうJRで帰ることにした。
ちょうどいい席を見つけて、履いていたヒールを脱ぐとずいぶんと楽になったが、
同時に安いエナメルのハイヒールのストラップ部分が故障していることにも気づいてそれから目を逸らす。
視界の端に、地味な女が目に入った。黒の肩までの髪、白いブラウスにグレーのスカート。
携帯電話を覗き込む顔は、ナチュラルメイクというのだろうかお清楚な化粧が施されている。
唐突にその女と目があった。
女は私をちらりと見ると、恐怖と、
何か
何かが混ざったような表情を浮かべてまたすぐ携帯電話を見つめた。
その何かが何かに似てるんだけど私はそれを思い出せなくて、気づいたら
降りる駅についていたからストラップの壊れたサンダルを引っ掛けて降りた。
かちゃんかちゃんと電車の床をストラップが打って、ドアの近くにいた半分禿げた中年の親父がちらりとこちらを見た。
こちらを見たというより私のマイクロミニのスカートからのぞく脚を見たんだろう。残念だな、触りたきゃ諭吉持って会いに来な。
ぶらぶらとコンビニで買ったオニギリを食べながら家に向かっているとちょうど店を開けようとする花屋の前を通りかかった。
赤とかピンクとか薄い黄色とか、花が沢山並んでいた。
花っていうのを、みんなキレイだと言う。
可憐で、一生懸命で、儚くて、色とりどりで、可愛くて、健気で、キレイだと言う。
老若男女、口をそろえてキレイだと言う。
流行りの歌手も、うちの巨漢の店長も、田舎の母親も花はキレイだと言う。
花っていうのは、植物の繁殖のために咲くんだって理科のセンセーは言っていた。
あのカレンなハナビラの奥には雌しべと雄しべがあって甘い匂いとか鮮やかな色で虫だかなんだかを呼び寄せて、
それからジュフンして、なんだかよくわからないけど種ができるのだ。
そう考えるとイヤラシイものだと思う。
花ってのがもし喋ったら、どんな感じなんだろう。
ほらほらキレイでしょ、私キレイでしょ、こっちへ-て、私の-に入って
--を--に--して--こすりつけて--の素を-にくっつけて--で--させて
いい匂いがするでしょ ほら-をもっと見て--を--して--を-してちょうだい--私--を残したいの
ほら、こんな感じでしょ。笑っちゃうね。
私が毎日、あの店の狭い部屋で言っていることと大差ないじゃないの。
私は人の良さそうな女店主から花を買った。
財布の中身は1562円になった。
強い匂いを放つ白い花を抱えて、散らかった家に帰る。
花瓶なんて洒落たものはうちにはなかったから
口の広い酒の瓶にさそうとしたら茎が長すぎて入らなかった。
紙を切るはさみで、一本目の花の茎を切ろうとした時
電車の中で私を見た女の表情が、ゲロを見たときの自分の表情とほとんど同じだということに気づいてはさみがとまらなくなった。
気づいたらハナビラはよくわからないカタマリになって、爪の間は緑色になっていた。
きったね、わりと大きな声でそう言う。
窓の外を電車が通る音がする。清潔な人のための朝の音。
そのまま、万年床で眠った。
目が覚める頃にはもう朝はあとかたもなく夜になっているはずで、できるならあの、花だったものもあとかたもなくなっていればいいと思った。
所持金1562円のアシタのために私は目を閉じた。それから少し泣いた。