純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号235 『床屋』  「チョキチョキ」という、小気味いい音を耳にしながら、信次は目を閉じていた。まだ午前中でオープンしたばかりなのか、それともこの店はただ単にいつもヒマなのか分からないが、客は信次一人しかおらず、とても静かだ。ラジオが奥でかかっているが、それもほとんど気にならない音量だった。  二ヶ月前にもここにきた。 櫛を持ち、ハサミを動かしている理容師は、二ヶ月前にも自分が来た事を覚えているだろうか?いや、恐らく忘れているだろう。別に何か変わったことがあったとか、世間的に特別な日だったとか、親しく何か話したとか、印象的な出来事など一切なかった。ただ髪を切ってもらっただけだ。それに信次は自分でも情けなくなるくらい、見た目になんの特徴もなく、さらに服装や髪型も、何の主張も個性もない。これで覚えていろと言う方が無理な話だ。強いて言えば、信次の職業柄「休日」は決まっておらず、今日のように平日の午前中からのんびりと床屋にいける余裕があるというくらいだ。  目を開くと、さっきより少し頭の形がスリムになった自分がいる。ずい分たくさんの細かい髪の毛が、体を覆っている散髪マントにかかり、床にも落ちている。 信二とは反対に、理容師の男はかなり個性的だった。太い黒ブチの大きなメガネをかけ、両耳に大きなピアスをして、アゴヒゲを生やしている。背丈は百七十五センチの信二よりも、並ぶといくらか高い。そしてかなり筋肉質でいかつい男だ。年齢は恐らく三十台後半から四十台前半。ピンク色の半袖のシャツがよく似合っている。  男は何も喋らない。信次はそこが気に入っている。そもそも髪を切りにきただけなのに、べらべら話しかけられるのは嫌いだ。世の中、やけに他人に話しかけることが好きな連中がいる。いや、好きなのか分からない。時折、「何か話さないと」、という焦りのような意識を感じる時さえある。床屋や、タクシー、カウンターだけの飲み屋なんかでは、客とコミニケーションを取る事も必須業務なのだろう。それはそれで否定はしない。中には話しかけられることを好み、そして自分の話を聞いてもらいたがっているヤツも、世の中にはたくさんいることを知っている。ただ自分のように、他人と話すことが苦手というより、そんな他愛のない会話にまるで興味をもてない人間もいるのだという事を分かって欲しい。だから無理に話しかける必要はないと思うし、せめて相手の雰囲気を見て話しかけてほしい。ただこの理容師はとても静かでいい。このままオレをそっとしておいてくれ。  店にはもう一人若い従業員がいる。彼は信次の頭を刈る理容師の男と似たり寄ったりの格好をしているが、体格は細く、華奢な印象を人に与える。長めの茶色い髪で、今風の若者といった感じもする。  彼は店頭を掃き掃除し、それが終わると店の奥の方で、やはりせっせと拭き掃除をしているのが鏡越しに目に入る。彼もテキパキと作業をしているわりには、とても物静かだ。前回この店に来た時も、今とまったく同じ構図だった。いかつい男が無口にカットし、若い従業員が掃除をする。  男は櫛を持つ角度でそうなるのか、ちょくちょく小指を立てる。それだけが妙に気に掛かる。別に小指を立てようが、反り返らせようがどうでもいいはずなのに、なんとなくそれだけでホモっぽく見えてしまい、この男は実はゲイなのかもしれない、などと考えてしまうのは自分だけだろうか?そんな風に思うと信次は苦笑する。信次自身はノーマルだし、別にこの理容師の男がゲイでもロリコンでもどうでもいいのだが、なんとなく気になった。だが彼は物静かで、いい仕事をする。それだけで充分だ。  男の仕事は丁寧だ。久しぶりに、他人に頭や髪の毛を触られて「心地良い」と感じた。だから今日も男の仕事振りに感心しつつ、時折気持ちよくて眠くなってしまうくらいだ。 ここ数年は、いつも駅の中などにある、千円のクイック・カットの店に通っていた。そういった店では特にこだわったサービスも技術も持ち合わせおらず、こちらもそんな期待はしていない。ただ手早く髪を切ってもらうだけだ。店員によってかなり当たり外れも多い。時にド素人のように思える女の子に当たったりすると、櫛で頭皮を引っかかれたり、変なところに妙にこだわられたりして、やけに時間を取られたりする。  この店は最寄駅の南口を出て、小道を二、三分ほど歩いた場所にある。隣は昔からあるような焼き鳥屋と中華料理屋。建物自体は大手の不動産屋が入っている三階建てビルの、地下というか、一階よりは低い位置にある。「半地下」とでもいうのだろうか。 一年位前にオープンした時から、いつもここは駅を利用するときに通るので、ずっと気になっていた。  新築の真新しい感じや、今風なオシャレな雰囲気を前面に出していない外観だった。立て看板、窓、木製の壁、ドア。部分部分は地味だが、全体で見るとバランスがとれていて、ぬくもりが感じられる店頭のデザイン。清潔そうだが、潔癖な印象はまるで与えない。  だがなかなか行く機会が得られず、いつも通り過ぎるだけだった。だがここ数ヶ月、不況のあおりを受けたのか、オファーがめっきり少なくなってしまい、家でコツコツと売れるか分からないデザインを書き溜めている事が多いので、あまり駅を利用しなくなった。だから必然的にその店の前を通る事も減った。だが二ヶ月くらい前のある日、髪をずい分放っていた事に気付き、いい機会だと、思い切ってこの店のドアを開けた。 ラジオは小さい音量だが、確かにかかっている。それなのにここは、通い慣れた歯科医院の待合室のような静けさがある。ハサミを持ついかつい理容師も、こんなに近くいるのに息遣い一つ聞こえない。ただハサミが交差した時に鳴る、「チョキチョキ」、「チョキン」という音だけが、狭い店の中で自然発生しては、その空間に吸い込まれるかのように消えていく。目を閉じていると本当にそう思える。まるでハサミの音が、何かの生き物のような気がしてくる。その生き物たちは、生まれると共に、すぐにチリヂリになって空間に溶けていくのだ。  デザイナー、といえば、なんとなくオシャレに聞こえるが、信次は服飾関係ではないから、ファッションには疎く、元から生活も地味で質素。一応「インテリア・デザイナー」と言う肩書になっているが、仕事のほとんどが照明器具のデザインが専門だ。五年前にデザインしたデスク・スタンドがヒットし、その斬新なスタイルと機能性が海外でも人気を得て、その世界で一時期はそれなりに有名になってしまった。電気スタンド、室内灯。ライト、照明で、時々うんざりするが、それなりに面白みもある。人より蛍光灯、電球の種類や歴史、光の反射の仕組みなどに詳しい。もっとサイエンス・チックな事も知っている。光は波であると同時に物質であり、その光は電子の放出による物理現象であり、今のところ光子は物質の最小単位の素粒子であるという事も、知識として持っている。そんな薀蓄もささやかな自慢だが、誰にそんな自慢話をしていいのか分からないので、やはり地味な仕事だなと、信次はよく思う。  ふと聞き覚えのある声が耳に入った。さっきからかすかに聞こえていたのだが、今ようやく店でかかっているラジオ番組のDJが小林克也であることに気が付いた。そうだ今日は金曜日だ。周波数は79.5、ナック・ファイブの「ファンキー・フライデー」。よく知っている番組だ。まだやっていたのかと、少し感心した。小林克也の声は何も変わっていないように聞こえる。  つい懐かしさにかられて、音量を上げてくださいと、言いたくなったほどだ。だが黙々とはさみを動かす男の顔を鏡越しに見ると、そんな事を言える雰囲気ではなかった。そもそも話かけられないことが気に入っているのに、こちらから話しかけては本末転倒だろう。信次は目を閉じ、細い音量でかかるラジオに耳を澄ました。 この番組をよく聞いていたのはまだ学生時代。信次が大手の運送会社で引越しのアルバイトをしていた頃だ。移動中のトラックの車内で、ぼんやりと聞いていた。 いつも一緒に回っていた、信次より五つ年上で、正社員の小太りの男は、金曜日は朝から夕方まで、周波数を79.5にして、この番組を流していた。  給料がいいという理由だけで働いていた。はっきり言ってその仕事に対して思い入れもないし、いい思い出一つない。そしてその社員の男はとてもつまらなく、そしてくだらない男で、仕事もひたすらそんな男との移動時間ばかりで、うんざりしていたという記憶しかない。そして今いくら思い出そうとしても、彼の名前が思い出せない。  ちなみにこのラジオ番組が好きだったわけではない。ただあの狭い車内で、何時間もあの男と一緒にいるよりは、ラジオ番組に耳を傾けているほうがましだったというだけだ。 でも金曜日意外は、その社員のくだらない話に付き合うのが苦痛で仕方なかった。パチンコの話、風俗店の話。その男はそんな話ばかり一日中していたし、給料のほとんどをそれにつぎ込んでいた。そんな男だが、何故か「ファンキー・フライデー」の間は比較的無口だった。 「後ろの方は…」突然耳元で声が聞こえ、信次は驚いて目を開けた。すると理容師がハサミを腰袋にしまいながら自分に話しかけていた。彼の声は図体の割には小さくて妙に甲高かった。「…こういった感じで、よろしかったですか?」彼は大きな手鏡を横の棚から取り出し、鏡越しに信次の後頭部を見せてくれた。彼はその時今日初めて笑顔を見せた。いや、来店の時にも笑顔を見せたかもしれないが、信次の記憶にないだけかもしれない。 「そうですね…。はい、ありがとうございます」と信次は一応、よく点検するフリをしてから言った。寡黙な男の仕事振りに敬意を表したつもりで、もっともらしくそんなことを言ったが、実際はモヒカンにでもされていないかぎり、後頭部の髪形などどうでもよかった。短くなっていればそれでいい。それくらい信次は自身の容姿に対してあっけらかんとしていた。 「ではもう少しだけ、上の方を軽くしておきますね」男は皮製の腰袋からすきバサミを取り出し、信次の頭頂部の毛を、こんどは「ざくざく」という音を立てて刈りだした。この豪快な音も、なかなか心地よかった。  それにしてもここは、一人でいるより一人きりになれてしまうような、なんとも不思議な空間だ。昔の事を思い出すなんて、久しくない事だった。信次はハサミの感触を感じながら、昔の事を思い出していた自分に驚いていた。 (○△さんからのリクエスト、思い出の曲です。ノラ・ジョーンズ「ドント・ノウ・ホワイ」)小林克也がそう言うと、ノラ・ジョーンズの甘く気だるい歌声が流れた。 信次は目を閉じ、ぼんやりとその歌声に身を任せてみた。ハサミの立てる音が、ノラ・ジョーンズの歌声を時折遮るが特に気にならない。 どこかの誰かの思い出の曲。そんなリクエストだった。信次はこの歌にこれと言った思い出があるわけではないし、ノラ・ジョーンズに対して好きも嫌いもない。信次は音楽に対して、特にこだわりや趣味がある方ではなかった。仕事中は、有線放送をクラシックのチャンネルに合わせているが、作曲家と曲目が一致するのは、ベートーベンの「運命」とか、モーツァルトの「アイネ・クライネ…」のような、超有名な作品ばかりだ。たまに気分転換にジャズのインストゥルメンタルのチャンネルも合わせるが、ジャズに関しては、クラシックよりもさらに分からない。ただ他に聴く音楽がないのだ。それ以外の音楽は、大抵不快になったり、集中力を乱したりするものが多い。  ただノラ・ジョーンズのこの曲が、グラミー賞を総ナメにした頃の事をぼんやりと思い出した。  会社から思い切って独立したはいいが、約束していたはずのクライアントの多くは、結局後ろ盾のない信次を見限り、仕事を回してくれなかった。辞めた会社から圧力もあったのかもしれない。そんな不遇で、とても辛い時期だった。こんな風にのんびりと床屋に来て、静かなひと時を過ごせる時間などなかった。  いい歌だな。信次は曲が終わるとぼんやりとそんなことを思った。インターネットで、中古品があればこのCDを買おうか、などと考えた。  小林克也はまた誰かのリクエストのメールを読み上げている。それにしてもいったいどんな人達が、自分の思い出話を添えて、ラジオ番組にリクエストをするのだろう。信次にはまったく想像のつかない世界観だった。時々、これはすべてラジオ番組サイドの自作自演ではないのだろうかと、学生の頃もよく思ったものだ。 「お前もよぉ、卒業したら分かるよ」と、社員の男は渋滞のトラックの車内で、風俗の話にまったく興味を示さない信次に、まるで部活動の後輩にダメ出しするかのように言った。 「まあ次の給料入ったらよ、一度連れてってやろうか?西川口あたりで仕事上がれたら、そのまま行こうぜ。な?」彼は何度となくこういう事を言ったが、それが実行されたことは結局一度もなかった。 「はあ…」と信次は気のない返事をするばかりだったが、風俗店で性を買う事に興味は持てないにしても、純粋に風俗店という形態に好奇心くらいはあった。 「今月よ、残業多いだろ?だから月末は期待できんぞ。まったくオレがいねえと、あの営業所全然回んねえからな」彼はしょっちゅうそんなことを言っていたが、信次は一度もそれを真に受けたことはなかった。 「月末はお前もコッチの方」男はそう言って自分の股間のあたりをぽんっと叩いた。「しっかり溜めとけよ。前の日なんかに抜いちまったらよ、何か損した気分じゃねえか?」彼はセブンスターを吸いながら、楽しそうに言う。タバコを吸わない信次は助手席の窓を開き、外の新鮮な空気を吸い込んだ。 「お客様?」遠くから、声がした。でもその声は、耳元で言われている声だった。信次はまた驚き、体をびくっとさせて目を開けた。目を開くと鏡の中に、髪の短くなった自分と、ピアスをした大男が映り、鏡越しに目が合っていた。そうだ、ここは床屋だ。とても静かな床屋だ。 「すいません」と、信次はそれに気付くと、とっさに謝ってしまった。信次の悪い癖だ。何か悪い事したわけでもないのに、すぐ謝ってしまう。 「お休みでしたか?」と、男は尋ねながら、鏡越しに微笑みながら会釈した。 「すいません」信次も軽く頭を下げた。 鏡の中の自分は、妙に楽しそうに見えた。実際少しにやけていた。どうやら昔の事を思い出し、頬を緩めていたようだ。たいしていい思い出でもないのに、不思議なものだ。そう思うと、信次の表情は苦笑いに変わった。  男はハサミをしまい、柔らかい毛先のブラシで顔に付いた細かい毛を掃った。鼻先や、上唇にふわっとした毛が触れると、なんともこそばゆかった。ラジオではまた知らない誰かの思い出の曲が流れていた。洋楽のようだが、まったく耳にしたことのない曲だった。 次に男は硬いブラシで信次の首の辺りの細かい毛を落とすと、散髪マントが外し、信次に髪の毛がかからないように、それを丁寧に、だがすばやく内側に丸め込み、ほとんど音を立てずにマントをたたむ。実に無駄のない動きだと思い、信次は感心してしまった。 「ありがとうございます」男はそう言って深々と頭を下げ。入り口の方を手で示した。入り口にはレジスターがある。会計の時が来たようだ。  信次はもう少しその椅子に座っていたいような、妙な名残惜しさを残しつつも、すっと立ち上がり、ポケットの財布に手を伸ばした。ふと見ると、店の奥ではまだ若い従業員が、黙々と掃除をしていたことに少し驚いた。たいしたものだ。それともよっぽど暇なのか。  それにしてもこの店はとても静かでいい。また髪が伸びた頃に、ここに来ようと思っている。
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