純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号234 『迷惑メール~夢~』 僕の両目からは滝のごとく涙があふれていた。その早朝の竜のごとき透明さと華麗さで僕の両頬を駆け、ついには木製の温かみあふれるテーブルの表面に着地し、確実にその養分となっていく。僕はその光景を見詰めながら、「なんで、俺泣いているんだっけ」と考えてみた。周囲を見渡すと、深い霧のようなものに―深遠なる森の奥深くを覗き込んだようなそんな気分がしたのだが―あたりはつつまれていて、はっきりと今自分がどこにいるのかがつかめない。たくさんの事実が脳の奥深くに刻み込まれていることは認識できるのだが、その次のステップ―つまり、その事実どもをうまく抽象化して一つのアイデアとして脳に表出する―へ進めない。やけにぼんやりしていて、脳がふやけた海草のように何千マイルもの海底で浮かんだり沈んだりしながら笑みをこぼしているのが想像できる。 ああ、僕は財布をなくしたおかげでこのような竜を吐き出し続けているのだった、というアイデアが僕の脳天を直撃し、その衝撃は僕の身体中に確実に快感のようなものを伴いながら駆け巡った。まるでドラッグを激流の血液のなかにたらしこんだように。僕は少し身震いした。僕の財布―ブルガリの二つ折り、母と姉がハワイ旅行に行ったさい僕への土産として持ち帰ったもの―は、まるで僕の赤子のような役割を果たしていた。僕は思った。「いったいどこへ落としてきたのだろう?」そのアイデアは確実に僕を不安な世界へと追いやり、色とりどりの骸骨がカラスの目玉のような腐臭をまきちらしながらケラケラと笑っているような暗黒世界を、肩をガタガタ震わせながら散策しているような気持ちにさせた。その世界は僕がたまらなく不安になったときに必ず脳内を支配するもので、僕はそこを歩き、歩き、たまにジャンプし、また歩く。絶えず重力に怯えながら、その世界は上下が逆転しているので気を抜くと、閻魔大王が待つ灼熱地獄へまっさかさまなのだ。 ふと気付くと僕の目の前に姉が立っていた。姉の目からは線香花火のごとくごく遠慮がちに、控え目に、あたかも「世界は私たちがいなくても成り立ちえます。しかし私たちはこうせざるをえないのです、ある一部の人々のために。」と涙たちが語るように。しかしその事実の認識は僕に深い地鳴りのような黒い塊と、同時に一層深い暗黒世界をもたらした。僕は姉の顔をのぞきこみ、その左頬をやさしくなで、線香花火を吸い取り、ぼくの奥深くにしまい込んだ。その線香花火を身体の中心で感じた時、僕はある一つのアイデアを脳内からくみ取った。「僕がしっかりしなければいけない」 その瞬間に僕の目から竜は飛び立ったようだった。その後ろ姿はいかにもすがすがしく晴ればれとしていて、まるで何年間も閉鎖された空間・人間関係のなかにいた人が思い切って外部の世界に飛び出していく―もちろん周囲の反対を押し切ってだ―ような爽快感を目の当たりにさせた。僕はこう口にした。「どうしたの」 彼女は言った。「お母さんがでていっちゃったの」 僕は一瞬竜の再来を確かに予感した。来るのか、来るのか? だけどそういうわけにもしかない。いつまでも暗黒世界の支配者とままごとをやっているわけにもいかない。そしてこう脳内につぶやいた。「僕がしっかりしなければいけない」
この文章の著作権は、執筆者である 大五郎 さんに帰属します。無断転載等を禁じます。