純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号232 『あこがれ』  自分を光らせることになんか、ちっとも興味がなかった。  ほたるだったというのにね。  そう、私はかつて、ほたるだった。 「うつくしのはら」の小川でうまれた、ほたる。  おもいおこせば、なんて遠くまで旅をしてきたのでしょう。 けれど、それももうすぐ終わる。  あこがれ……。  私の望みといえば、あこがれにふれてみたい  ただそれだけ。    ∮  まだ私が幼いころ、泡だけがともだちだった。泡はみな正直で、美しかった。彼らはきっと善きものの魂だったと思う。こぽ、こぽ、という音はそれは愛らしく、水に浮かぶさまは、まるで寄る辺ない身の上を、お互いになぐさめあっているようにも見えた。  けれどせっかく仲良くなれても、泡はいつのまにかぱちんと割れて、私の前から姿を消した。  さようならを言う間もないほど。あっけないものだったわ。  周りには私と同じほたるがごろごろところがっていた。みな、自分を光らせるのに一生懸命。誰よりも美しく光ること、それだけにとらわれていたっけ。 「まあ、今日はいちだんと輝いてますね」 「いえいえ、私なんてまだまだですわ。あなたのほうこそ、すばらしい」  ほたるたちが交わすそんな会話には、嫉妬や虚栄心が隠れていることを私は知っていた。  美しさの名を借りた、みにくいものを私は憎んでいた。  だから私は言ってやったわ。 「あたりかまわず、光るなんて、無遠慮なのね」と。  だから私は、ほたるのともだちなんて、一匹だってできなかった。 「あなた、本当にほたるなの?」  あからさまにいじわるを言うほたるもいた。光らないほたる、光ることを競わないほたるなんて、そうね、たぶん変わり者なんでしょう。変わり者で結構。無理してほたるでいるよりも、私はわたしでいたいと思う。  ちっともさみしくなんかなかった。だっていつも心にあこがれがあったから。  水面にやってくる月、あなたは私の唯一のあこがれだった。私は指の先まで、あなたへのあこがれで、いっぱいになった。  川底から上をながめると、ゆらゆらと、きらめく月がそこにあった。  月のりんかくは小刻みに揺れ、なんだか泣いているようにも見えたっけ。そんな時は私も泣きたい気持ちになったわ。  デリカシーのかけらもなく光るあいつらと違って、それはそれはおだやかな光だったわ。  私はその光をみつめているその時間だけを愛した。  この世に生まれてきた哀しみ、生まれてきたその先に必ずある無常(ともだちの泡が教えてくれた)を忘れることができたから。  常であること、それがもしあるとしたら、心に芽生えたあこがれ、この気持ちだけだと、私は思った。  月のことをもっと知りたくなって(あこがれの存在をもっと知りたいと思う気持ちはしごくまっとうなものではなくて?)ともだちの泡に聞いてみたの。 「ねえ、なぜ、月は夜にしか、いらっしゃらないのかしら?」 「いいえ、月はいつもそこにいるのよ。けれど光るのは夜だけ」 「どうして?」 「月は自分で光っているわけではないの。あれはお日さまの光をもらって光っているだけ」  自ら光っているわけでない。なんて、おくゆかしいお方! だからあんなにも儚い光なのに、美しいのね。私のあこがれはさらに強いものになった。 「あの方に逢うには、どうしたらよいのかしら?」  私は思い切って泡に相談をしてみた。  泡はちょっと悲しそうなそぶりで、けれどもしかたないわね、といった調子で教えてくれた。 「そうくると思ったわ。あなたのことなら、大体わかるから。月は空というところにいるの。とても遠いところよ。そうね、空に一番近いところといったら……」 「近いところといったら?」  私は先をはやく知りたくて、うずうずした。  その間にも、そばでぱちんと音をさせて、またひとり、ともだちが消えていった。ああ、またさようならをいう間もなかったわ。  たいていの泡はせっかちなのよ。まるで生き急いでいるみたい。そうやって、いったいどこへ向かうというのかしら。 「この小川を北にさかのぼっていくと、泉があるのよ。そう、この小川が生まれてくるところ。その泉のほとりに大きなモミの木が一本立っているわ。一等立派な木よ。てっぺんは、雲のなかにかくれて見えないほどなの。だから、そのモミの木のてっぺんが空に一番近いところといえるわね。昔、西の果てにも同じくらい高い竹があったらしいけれど、それは絶えてしまったらしい。モミの木があるのは、北の果て。冬は氷に閉ざされてしまう世界だというわ。」  私はその瞬間に、絶対にそこへ行くと決めた。もう、なにがなんでもよ。それが生まれてきた意義そのものだと思った。  けれどそれを見透かしたように、泡はこう言った。 「でもね、そこへ行ったからといって、必ず月に逢えるというわけじゃない、ただ、近くに行けるだけかも。月から見たら、あなたはきっと点にも満たない存在だと思う。むだあし、になるかもよ」  むだあし……。  ああ、なんて無慈悲で、怖ろしい言葉。あしがむだになるなんて! あしあとがむだになるなんて! すべてが、だいなしってこと?  私はたった今、やっとこさ見つけた生まれてきた意義を、即刻手放さなくてはいけないのだろうか。それは泡のありようより、百倍せっかちというものではないか。  いいえ、そんなものに負けるわけにはいかないわ。  むだあし、大歓迎よ! とまでは到底思えないけれど、たとえそうなっても文句はいうまい。私はそう決意した。  川をさかのぼるのは、結構な重労働だった。だって私、鮭ではないのだから。でもね、がんばったわ。あこがれに近づくためと思えば不思議と力がわいてきたの。  夜に一生懸命川を泳いでいるでしょう。息が切れて、もうだめっていうくらいになって、泳ぐことをやめて、ふと水面を見上げると、たいてい、そこに月があった。  その時の嬉しさったらないわ。幸福感であやうく私も無遠慮に光りそうになってしまった。あれはきっとランデブーっていうやつね。ふふふ。  遠くへ行ってもついてきてくれる、そんな風に勘違いしても、無理ないでしょ。だから私が旅をするのは、よく晴れた夜だけ。  月を隠してしまう無粋な雲が出た時は、つい悪態をついてしまったっけ。あとで月に聞かれたかも? と思って後悔したけれど。  でもね、きっと見てはいても、聞こえてはいないと思うの。だっていくら私が話しかけても、うんともすんとも言わないのだから。 話しかけるといっても「ごきげんいかがですか?」みたいな、あたりさわりのないことよ。  それだって私にしてみたら勇気をふりしぼってのことだった。  きっと聞こえてはないのよ、そう思って納得したの。  無理矢理、納得しようと思ったのかもしれないわね。だって知らんぷりをきめこむ冷たい月って思いたくないじゃない?  でも結局自ら光らないっていうのは、熱を帯びないっていうこと。しょせん私のような、ほたるとは違ったのだけど。だからといって、月を責めるなんておかどちがいね。 そんなことくらいで、私は失望なんてしない。決めたのよ、きっとあこがれにふれてみせるってね。  流れに逆らって生きるというのは、とても体力を使う。  私は毎日、へとへとになりながらも、情け容赦ない捕食者になり、カワニナという貝を食べた。食べたというとちょっとイメージが違うかも。命を吸ったとでもいうのかしら。 私が注入した消化液で、カワニナの身体をドロドロに溶かし、それを吸い上げるの。一滴残らずね。  さらさらと流れる清らかな小川のあちこちで、こんな殺りくがくりひろげられているなんて、あの方は、ご存じかしら。  いっそ、「おそろしい女!」と言葉を吐かれたら、さっぱりするのかもしれない。でもただ黙っているだけのあの方の本心は、てんでわからない。  そんな時、泡はただ遠巻きにして見ているだけ。いいわね、泡は。私だって美しいだけの世界で、生きていけたら、どんなにいいでしょう。  川底の石が大きくなってきたわね。流れもだいぶん早いわ。もうすぐ泉とやらに着くころかしら。  川をさかのぼる旅はこうして唐突に終わった。  泉で私はしんみりと泡にこう言った。 「もう会うこともないのね」  と私が言うと、 「いいえ、会おうと思えばいつでも会えるわ」  と泡はつぶやいた。 「そうなの? じゃあ、さようならも言わずあなたが消えていくのも、べつだん悲しいことでもないのね」  泡はなんにも言わず、くるりと回転して、流れのなかへ消えていった。  私、さようならなんて、言わなくってよ。  それから私は泉から這い出て、近くの土にもぐったの。土まゆを作るのに、おあつらえむきの固さだった。  最初冷たかった、どろつちは、やがて私の体温でほの温かくなった。そうしながら、うとうとと眠った。眠りながら、このままきっと生まれ変わるのだろうという予感があった。  たとえ世界が変わったとしても、このあこがれだけは変わらない。それだけを想って、土まゆの暗黒の闇に、しばらく沈んだ。  再び目覚めた時、私は自分が大人になったことを知った。  土まゆの中から這い出すと、あの方が頭上で出迎えてくれていた。嬉しさでどぎまぎしてしまって、やっと出てきた言葉といえば 「こんばんは」  ずいぶんと芸のないやつだと思われたのではないかしら。相変わらず無口な方なので、ほんとうのところはわからないけれど。  夜風が私の身体をなでていくたび、私の羽は乾いて軽くなった。  ウェットな足かせも同時になくなっていくようだった。身体の芯まで乾いたところで、私は空へ向かって飛んだわ。  ふわり、ふわり。  目指すはあのモミの木のてっぺん。  ふわり、ふわり。  モミの木の中ほどかしら。疲れてちょっとひと休みしたの。何気なく下の様子を眺めていたら、遥か遠くの方でぼんやりと光が舞っているのが見えた。  あれはきっと、ほたる達だわ。  無神経だと思っていたあの光、離れて見たら、案外いいものねえ。 『遠目で見たら、ものごとは千倍良く見えるものなの』  泡ならきっとこう言うにちがいないわ。  それなら私のあこがれはどうなのかしら?ふと、あの怖ろしい言葉が浮かんできた。  むだあし……。  私は悪夢のようなその言葉を打ち消すように、また空へ飛びだした。そして必死に上へ上へと昇っていった。  途中、モミの木に真っ黒な穴が開いているのを見たわ。あれは、うろ、ね。からっぽのうろ。あそこは、なんにもない、もうひとつの宇宙。  あそこへとらわれたら、きっとすごい磁力で吸い込まれていくことだろう。  私は自分の中身が、うろ、になってやしないだろうかと不安になった。どろどろに溶けてはしないだろうかと恐怖におののいた。  私がかつて、うろ、にしたあのカワニナの姿が頭をよぎった。  だいじょうぶ、あこがれはまだ胸にある。これさえあれば、うろ、になどならないわ。私はうろ、になりそうな誘惑に打ち勝った。  やっと着いたモミの木のてっぺんには、誰もいなかった。  そうよね、あこがれのためだけに、こんな遠くまでやってくるほたるは、「うつくしのはら」広しといえども、私くらいのものでしょうね。  それから、私は月に向かって手を伸ばしてみた。けれど、とうていふれることは叶わなかった。ふれそうでいて、ふれられない。これでは、あの川底で月を見たときと、あまり変わらないではないか。  そう思ったら、とても哀しくなった。涙の代わりに、光ってみせた。私はここよ。せめて、月に認めてほしかった。私が、こうして、ここにいることを、ただ認めてほしかったの。    季節が変わっても、そうやって長いこと、光り続けた。  雪が吹きつけ、身体中の粒子という粒子が氷と化しても、私の光は燃え続けたの。モミの木のてっぺんの消えることのない、ともしび。「うつくしのはら」の住人たちは、私を見て、うわさしたそうよ。 「あれはきっと星に違いない。北の空にあるから、北極星とでも、よぼうか」と。  私の実体はこうして星になった。意識はひとすじ、まっすぐの光の矢となり、月へ向かった。やっと、やっと、ふれることができるのね。  思いきって、とびこんだ先には荒野がひろがっていた。私はその荒野に、音もなくぶつかった。  ひとりぼっちなのね。あなたも。  荒野の魂は、善でも悪でもない。ただ、ひんやりと、孤独なだけ。  そうして初めて月は言葉をかけてくれた。 「はじめまして」と。  ただそのひとことで、私のあこがれは終わった。私はあなたを一瞬だけ光らせて、そのまま、空の下に落ちていったわ。 「さようなら」  落ちながら聞こえてきたのは、あなたの声ね?   私も、生まれて初めて「さようなら」と言った。あとにも、さきにも、誰かにさようならを言ったのは、この時だけよ。  なんてすばらしい、むだあし!    ∮  そうして、私はもといた小川に還ってきた。  ぷかり、ぷかりと浮かぶ泡になったの。  ほらね、会おうと思えば、また会える。  生まれたばかりのほたるの赤ちゃんに、私はそう言って笑いかけた。
この文章の著作権は、執筆者である そらの珊瑚 さんに帰属します。無断転載等を禁じます。