純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号225 『夜啼く鳥の見た夢は』  私は途方にくれていた。  ハンガリーの首都ブダペストからプラハへと向かう列車に乗っていたのだが、あろうことか乗り換えるはずの駅をひとつ手前で降りてしまったのだ。時刻はとっくに夜中を過ぎているし、周りは牧場だか麦畑だかが果てなく広がる農村地帯だ。  とりあえず幸運にもうっすらと明かりのついていた駅員室で事情を話そうとするが、英語がなかなか通じないうえバックパックを背負って見るからに旅人のなりをしていた私は国境越えにでも思われたのか、なかなか話が先に進まない。もしかしたら若い女のひとり旅というのも彼らの警戒を煽ったのかもしれない。パスポートとチケットを提示して、ようやく次の列車が来る時間帯を聞くところまで話をもっていったはいいが、あいにく明日の朝になるまでプラハ行きはないという。  私はまた途方にくれた。しかし、どうしようもない。  結局、待合室のベンチを貸してもらい、一夜を過ごすことにした。  ガラスドアで仕切られた待合室は案外、快適だった。  電気はしばらくしてから消すと言い残して中年の駅員は去ったが、気を遣ってくれているのか入ってすぐに暖房が入る音が聞こえる。ありがたい。季節はもう八月に入っているが今年はまれにみる冷夏らしく、薄着をしていた私は寒さに震えていた。  一枚だけある少し厚手のカーディガンを身体にかけ、腕時計のアラームをセットしてから、バックパックを枕に扉から一番遠いベンチに横になった。  しばらく寝つけずに天井をぼんやり見つめた。薄汚れたコンクリートの隅には、雨漏りでもしたのだろうか、大きな染みが目立つ。ベンチも背もたれのない簡素なもので、気をつけなければ落ちてしまうかもしれない。  ハンガリーの外れであるここ一帯は、そんなに裕福な土地ではないのだろう。首都であるブダペストも美しくはあったが、他のヨーロッパの都市――煌びやかで、どこかよそよそしい――に比べると発展途上という印象が強かった。観光地慣れしていないところが性にあって、三日のところを一週間も滞在してしまったのだ。  そこまで考えて、滞在したモーテルの主人の顔を思い出す。まるで田舎のペンションのようなそこは、行き当たりばったりで決めた所だった。少し街の中心から離れてはいたが、いかんせん安かったのだ。  気さくな白髪の主人が気の強い奥さんと二人で経営していて、夕飯のあとには度々ロビーにあるスヌーカー台にお招き頂いた。悲しいことに私の腕は我ながら酷いもので、彼の相手になったとは到底思えなかったが。そういえば娘さんとはもう会えただろうか。ちょうど私の発つ翌日に、夏期休暇で帰ってくるのだと言っていた。写真を見せてもらったが、夫人に似た赤毛とそばかすが可愛らしい女の子だった。今はロンドンの大学で経済を学んでいるらしい。変なブリティッシュに引っかかってなければいいが、と写真を見ながら呟く主人を見て、父親のいうことはどの国も変わらないのだなと少しおかしかった。  前触れもなく、ぷつんと頼りない音をたてて電気が消えた。すぐに暗闇が我が物顔でのしかかる。しかし、しばらくすると月明かりがガラスドアから差し込んでいることに気づく。淡い卵色の光は四角く切りとられ、汚れたコンクリートの地面に不朽の面持ちで落ちる。  さっきまで気づかなかったが、遠くでサイレンの音が響いていた。その影に隠れるように、さきほど見た麦畑だろうか、ざわざわと風で擦れあう葉の音が聞こえる。  暗闇はなぜ音を澄み切らせるのだろう。それはただ、聴覚が敏感になるからに過ぎないのか。  そんなことを考えながら瞼を閉じた。不安感もあってか意識はしばらく夢と現実を行き来していたが、疲れた体はすぐに眠りについた。 ******  寝入りばなに効いていた暖房はいつのまにか切られたらしく、そのせいで夢から半分覚めた私は寒さに体を丸めていた。目を開けずともまだ朝は遠いと肌が感じる。なのに、わたしはうっすらと重い瞼を上げた。  ふと、人の気配を身近に感じたからだ。  薄く開けた目に映る人影は、一人二人ではなかった。ベンチをぐるりと囲むように、たくさんの人がじっと見下ろしている。老人、若者、男に女、ばらばらな人種。共通点は、身に纏っている白っぽい服だけ。そろって同じ角度に首を垂れ、ただじっと寝ている私を見下ろしている。  異様な光景だったが不思議と恐怖は感じなかった。半ばまだ夢のなかにいたからかもしれない。遠くでなにか、鳥が啼いていた。物悲しい、尾を引くような声で高く啼いていた。  しばらく薄く目を開けていたが睡魔には勝てず、彼らの視線を感じながら私はまた眠りについた。 ******  朝が来た。  アラームが鳴る前に目覚めた私は、トイレで顔を洗いながら昨日の事をぼんやりと思い出していた。きっと夢に違いないとは思いつつ、あの幾十もの瞳が脳裏にこびりついていた。  どこか寂しげな、諦めたような。何を訴えるわけでもなく、ただ虚ろな瞳。なぜあんな夢を見たのだろう。  なんとなく落ち着かない気持ちでベンチに戻りチケットと日記帳を開いていると、昨夜とは違う若い駅員がコーヒーを二つ手にやってきた。茶色の髪と瞳を持ち、くっきりとした大きな目の下に泣きぼくろがある青年だ。年の頃は二十代後半だろうか。ありがたく受け取って飲んだコーヒーは旨く、頭を冴えさせる。  飲み終わった後も気さくに色々と尋ねてくる彼とひとしきり話した後、私は試しに昨日の夢の話をしてみた。特に理由はない。他愛もない世間話のつもりだったし、彼の退屈しのぎにでもなればと思ったのだ。  短い話を終えた後、彼は真剣な顔で何かを考えていたようだったが、すぐに待合室を出て行くと一枚の絵を持ってきた。絵には詳しくないが、A3サイズほどのちいさな油絵だった。描かれているのは、老人、若者、男に女、ばらばらな人種。そして何かを建設している。  バベルの塔だ、と彼は言う。  聞くところによると、この駅でむかし駅員をしていた男の描いた初期の作品で、晩年は画家として都会へ出たが成功はせず、失意のうちにその生涯を終えたのだと、若い駅員は淡々と教えてくれた。  絵の裏に貼ってある古ぼけた白黒写真を見る。アトリエのような場所でゆったりと椅子に腰かけている壮齢の男性。背後にはいくつかの絵画が無造作に積み上げられている。そんな生涯を送ったとはとても思えない、茶目っ気のある笑顔でその画家は腕を組んでいた。  もう一度、絵をじっと見る。  かの有名なブリューゲルのそれほど荘厳ではないが、それでも岩の切り出しのために削られてゆく山の緑と、夕焼けの近づいた群青の空とのコントラストは美しい。それにブリューゲルの絵がバベルの塔自体を主役としているのに比べ、こちらの絵はそこで働く人々を描いているようだった。黙々と働く大勢の人々。その顔は悲痛ではないが、生き生きとしているわけでは決してない。あえて言うならば、やはり虚ろか。  生憎これは複製で、駅員室に飾ってあるものだ、と彼は付け足した。私はしかし、昨晩の彼らがはたしてこの絵の人物たちなのか判断がつかなかった。確かに着ているものは似ているようだが。  とりあえず彼に礼を言い、列車が来る時刻になった事に気づいた私たちはホームへと出た。  空は高く、美しく晴れていた。待ちに待ったプラハ行きの列車がホームに滑り込む。  扉が開くのを待ち、礼を言って乗り込んだ私に彼が声をかけた。 「That painter, actually he's me, ma'am.」  私は一瞬目を見開いた。が、すぐに彼の悪戯っ子のような瞳に気づいて笑う。同時に、明らかに年下の私をマダムと呼んでくれた彼をとても好ましく思った。照れくさくも少しあった。  私たちは手を振り別れ、列車はホームからゆっくりと離れていった。  誰もいないボックス席に腰かける。青々とした牧草地帯が広がる風景を眺めながら、日本に帰ったらあの画家の事を調べてみようかと考え、茶目っ気のある若い駅員の顔を思いだした。  そしてふと、違和感を覚えた。  あの若い駅員の制服が、昨日見た他の駅員と少し違っていた気がしたのだ。よくよく思い出してみると明らかにデザインが違う。所々、色も違っていた。あの油絵が脳裏に浮かぶ。  バベルの塔を建設する人々。  美しい山の緑に快晴の空。  額裏の写真。 「あの画家、実は僕なんですよ」  そう言って笑った茶色い瞳の下の泣きぼくろ。  白黒写真の男は、同じ場所にほくろがありはしなかったか。  開け放しの窓から後ろを振り返った。  あの駅のホームは、もう見えない。
この文章の著作権は、執筆者である ナツメ さんに帰属します。無断転載等を禁じます。