純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号221 『浜ゆらぎ』  水色の地下道をくぐると、砂浜と漁港が目の前だった。  女はビニール傘を片手に、舗装された道を砂浜へと歩いた。  雨は朝から強まったり弱まったりしながら降り続いて、今は小雨だった。低く下りた雲は、正面に見えるはずの伊豆大島を隠して、えぼし岩が水面に浮上した珍獣のようだ。東の江ノ島も灯台がなく輪郭がぼやけていて、背後に伸びる半島と境がつかない。雨雲の色の濃い風景はどことなく陰鬱で、梅雨らしい影を落としていた。  女はサイクリングロードを横断して、路面がアスファルトから砂浜になった。湿った砂が靴裏に挟まるのが気持ち悪くて、顔を顰めた。  人生に立ちはだかるしがらみだろうか。と、女はいたずらに、砂浜を人生の苦難に喩えてみたりした。すると、あれもこれもと見るもの全てが、何かに喩えられるような気がしてきた。しかし、そう思うのは彼女ばかりではないだろう。女が晴れの日に行った時には、テトラポッドに座って考えこむ男がいた。ある曇り空の朝には、夏はパラソルでにぎやかだろう砂浜の中央に座って海を見入る少女がいた。オフシーズンの砂浜は人を感傷的にさせる。それは砂浜もまた人の来なくなった事に寂しさを感じているからかも知れない。悩める者同士が引き合い、慰めあっているのだ。  夏は波打つエメラルドの光に身体が浸るが、冬、心の冬を迎えた者たちは感傷に浸る。海はいつでも私達を受け入れて同調してくれる。海は優しい。しかし、梅雨の雨でくすんだ砂浜に人影はなかった。雨の砂浜ほど、悲しみを誘うものはない。  女は、いつか見知らぬ男の座っていたテトラポッドを足場に漁港の防波堤へ上がった。コンクリートは、雨を吸ったように黒ずんで重さを増したようだった。それを先端へと歩きながら、彼女はサーファーとの恋を思い出した。 ―――それは、女が二十五の時で季節はいつだったか忘れたが、曇りの日だった。防波堤の先端で雲間から出た光が、湘南平をスポットライトでも当てたように鮮明にしていて、その山肌の精密さに目を奪われていた時だった。 「何してるの?」  と、声をかけられて、女は驚いて振り返った。髪を金に染めた肌の焼けた男が怪訝な顔をして、先端へ歩いてきていた。 「いえ…」  女は返事が浮かばずに、目を逸らした。男は女の見ていた方を向いた。 「おぉ、綺麗ですね」  男も見とれながら言った。女は心を落ち着けて、 「そうですね」  と、トーン高く返した。 「ここら辺に住んでいるんですか?」  男は女の丁寧な口調に呑まれて、かしこまった。 「はい。…そちら様も御近所でいらっしゃいますか?」 「いや、横浜の方から」 「そうなんですか」  女は湘南平を見た。男も目のやり場に困って、同じものを見た。雲間は狭まって、頂上のテレビ塔が白く際立っていた。波はただただ時の流れに身を任せて、こだわりなく穏やかだった。その柔らかい音は、彼女の緊張を心なしか和らげた。 「なんか、堅苦しいな。もっと気楽で構わないですよ」  と、男は苦笑まじりに言った。 「申し訳ありません」  女はやはり堅苦しい言葉で返したが、微笑が自然に出せた余裕は、波音のおかげだった。彼女は駅近くにある携帯電話の販売店に勤めていた。いつも客と対話している自分自身を思い浮かべて、男に接していた。そうでもしないと、恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤に駆け出してしまいそうだった。  それから、他愛のない話をいくつかしている内に日も暮れてきたので、ゆっくり飲めるところを、駅へと続く通りに探して歩いた。ちょうど良いバーを途中で見つけて、男がドアを開けてくれた。  男は自分から話を振ってくる事はほとんどなく、水を打ったようだった。しかし、女が話をすると、彼は真摯に耳を傾けてきた。相槌を打ちながらゆっくり頷くのが、彼の聞き方だった。そうして終いまで聞くと、彼なりの言葉で優しく励ましてくれた。 「彼氏はいるんでしょ?」  と、男はふと出し抜けに尋ねた。 「いない」  女は答えた。かと思いきや、 「いた試しもない」  と、余計な事も言った。女は顔を紅潮させていた。酒に飲み慣れてない彼女はもうすっかり酔っていた。  会社の同僚は皆、仕事熱心で社内恋愛の噂すらなかった。休憩や暇な時間に世間話はするものの、就業時間が過ぎれば、赤の他人だった。それは健全と言えば、健全だったが、高校の友達とも離れ離れになり、休日はいつも一人だった彼女に出会いはなかった。そして、二十五になるまで男を知らなかった。 女はそんな自身の有様が惨めで悔しくて、カクテルを呷った。しかし、鈍くなった感覚が上体を逸らし過ぎているのに気づかず、仰向けに傾いた。男は手を素早く腰に回して、彼女の身体を支えると、抱き寄せた。女は怒涛のごとく押し寄せる感情に流されるまま、男の胸に顔をうずめた。  一夜きりの恋、互いに連絡先も知らぬままに別れる軽い関係、と女は思っていた。 これから先も、恐らくは永遠に恋人はできないだろう、と諦めていた。ところが、砂浜に近いホテルを二人並んで出た時に、 「あ、そうだ。連絡先聞いてもいいかな?まだ聞いてなかった」  と、男が言った。 「えっと、どうして?」  女は彼が聞きたがるのが、咄嗟に理解出来なかった。 「恋人でしょ?え?違うの?ここまでしておいて?」  男は笑って言った。 「ええ、ああ、うん…」  女はしどろもどろに了承して、二人は恋仲になった。後に聞けば、男も恋人が出来たのは数年ぶりの事で、声をかけたのも自殺する気なのかもしれないと、心配だったらしい。  女は今までの渇きを潤すかのように、男を夢中で愛した。男は女のそれを優しく受け止めて、彼らしい愛で応えた。愛に飢えていた二人は激しく求め合い、荒波のようだった。しかし、押し寄せた波はいずれ引くもので、半年もすると、男からの連絡はめっきり少なくなった。女は引いていく彼を追いかけようと思った。しかし、無理に追う事はしなかった。愛に狂い、沖へと進めば、きっと溺れ死ぬのが彼女には恐ろしかった。  女は臆病だった。臆病故にようやく手に入れたたった一つの愛にも臆病になり、そして、全ての愛に臆病になった。  押し寄せる波は、いつか引いてしまう。そう思うと、女にはどんな親切も色褪せて、いかなる美も醜く見えた。永遠なんてないのだ。  女は防波堤の先端に着いた。湘南平は濃い灰色で輪郭だけだった。波は乱暴で飛沫が顔にまで飛んでくる。下を見ると、海面にも空の灰が混じって、鈍い光を放つサファイアのようだった。その水面の激しい揺らめきは、じっと見ていると眩暈がして、危うく引き込まれそうになった。女は慌てて顔を背けて、慄然とした。海が死に引き込もうとしている。青く捩れる海面はせせら笑っているのだろうか、と恐る恐る確認してみたものの、海はただ荒々しく揺れているだけだった。それは不安定で、不安定な自分自身のようだった。  海は優しい。いかなる悩める者も受け入れて同調してくれる。女は愛に臆病になってからも、海には通っていた。海だけは愛していた。海はいつでもその想いに応えてくれて、裏切らなかった。それは永遠ではないのか。だとすれば、海は自分を引き込み、全身で受け入れてくれようとしたのではないか。  女は飛び込みたい衝動に駈られた。海の持つ永遠の愛に沈んでしまいたい。それが自分自身にとって、最大の幸福に違いない。  ビニール傘を放った。冷たく荒い風に飛ばされて、少し離れた海面に逆さまで浮かんだ。それは透き通った小船のようだった。もう一度、強い風が吹いたら、吹かれるままに落ちようと、女は思った。突然頬に温かいものが走った。驚いて頬を拭うと、涙だった。それは胸の苦しくなる後悔の涙だった。 「おい!」  と、声がした。海が早く来いと呼んでいる。女は膝を曲げて飛び込む姿勢を取った。しかし、 「おい!」  再び呼び声がして、女ははっと我に返った。それは前よりも大きかったが、海ではなく、砂浜から聞こえてくるのだった。その声はとても懐かしい。  金髪で肌の黒い男が防波堤をこちらへ来ていた。 「何してんだよ!」  男は女の傍まで駆け寄って、自分のビニール傘へ入れると、声を荒げた。女は胸がつまった。海面に浮かぶ傘を見つけて、 「傘、落ちちゃった」  と、指差して言い訳した。涙で泣き腫らした顔はひどいだろうから、女は嘘とばれそうな気がしたが、男は、ああ、と言って、胸を撫で下ろしているように見えた。 「あなたこそ、何してるのよ」  女は動揺に震える心を落ち着けて、声を張った。男は問い返されて、少しく口ごもったが、 「会いに来たに決まってるだろ」  と、思い切った。女の脳裏に問い詰めたい事がめまぐるしくよぎった。何故、会いに来たのか。しかし、それ以上にほっとしていて、すぐにどうでも良くなった。 「もう、来ないかと思ってた」  女は泣いた。男は困った顔をしたが、両手を首に回すと、頭を撫でた。 「引いた波は、返ってくるんだよ」  と、男はぎこちなく言った。それを聞いて、女は男をとても悪い男だと知った。しかし、身体を彼の胸に預けた。  海とはそういうものだ。
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