純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号215 『階段』  成田から七時間半かかってジャカルタの空港に着陸した。飛行機から降りて感じたのは、むわっという湿気を持った南国の空気だった。暦は二月。離陸する前の日本は大雪だった。家を出る時は服装に悩んだ。  ジャカルタのホテルは吹き抜けの三階建てで、部屋数が十程の小さな、でも清潔で比較的新しいホテルだった。オーナーはいつもポロシャツと半ズボンを着ている四十歳位の若い日本人だった。その奥さんはインドネシア人で、ホテルにはその夫婦と子供達三人と、コックを含めたインドネシア人が十人程働いていた。  二十日間、隆は言語研修を受けた。一緒に派遣された日本語教師は隆を含めて九人だった。隆以外の八人は皆女性だった。今まで会社に勤めていた人が何人かいたが、だいたいは隆と同年代だった。二十日間、文化センターで語学研修の後、それぞれの任地に向かうことになっていた。  語学研修は朝から二時間、午後から二時間の一日計四時間だった。隆以外は毎日研修が終わるとタクシーでジャカルタの観光に出掛けていった。隆は一人、毎日研修が終わると文化センターから直接ホテルに帰った。ホテルに戻ると自分の部屋でその日の復習と翌日の単語テストの勉強をした。  年長《★ルビ:としおさ》のメンバーが、隆になぜ観光に行かないのかと訊いたことがあった。その時、隆ははっきり答えることができなかった。夜、ベッドの上で暗い天井を見つめながら、なぜ初めて訪れた土地の観光に興味が沸かないのだろう、なぜ一人ホテルに戻って、昔は嫌いだった復習や予習をするのだろうとぼんやり考えた。 「考えてみれば、今程はっきり努力が将来に結び付くと実感できることは、ここのところ無いことだった。インドネシア語の勉強は、シンプルに将来に結び付く」  それが隆の答えだった。  ジャカルタの観光は、いつかまたしたい時にできそうだ。観光目的に来たのでは無いから、今はこのジャカルタという地に特に魅力を感じているわけでも無い。それよりも、これから働くこの国の言語を学ぶということが、酷く簡潔で、直接的に自分の将来を支えることを隆は実感していた。他のメンバー達よりも、自分はそれを強く感じることができているのだと隆は思った。単語一つ一つを、不要なプリントの裏に反復書き続け、覚えること。小学校の頃の漢字の練習を思い出した。しかし、それは億劫でなく達成感を伴うことだった。努力とテスト結果も直結していた。  他のメンバーが外で食事を済ませてくる中、隆は一人ホテルで夕食を済ませていた。食事はいつも日本食だった。オーナーの家族も隆と同じ時間に食事をとった。ほかの宿泊客もちらほら顔を出した。  いつもホテルで食事をとっていると、オーナーが隆に話しかけてくるようになった。 「皆さんは観光に行かれているようですが、隆さんは行かれないのですか」 「はい、そうですね……」 「どうして行かないのですか」 「毎日インドネシア語の単語のテストがあるので」 「真面目なんですね」 「そうじゃなくて、ただ今は珍しく勉強を楽しめているので」  従業員の中で、一人だけ流暢に日本語の話せるインドネシア人がいた。名前をブンと言った。ブンは夕食後、いつも吹き抜けの下の小さなラウンジのソファーの所に隆のコーヒーを持ってきてくれた。 「タカシさん、日本では何してたの」 「僕は研究生ですよ。マスターに入って、ドクターにも入りたかったんですけど駄目で、一年間そのまま大学に残って勉強してました」 「隆さんは今二十五だっけ。パスポート見たから」 「そうですよ、ブンさんは何歳ですか」 「今年三十二歳。僕も日本で働いていたんだよ」 「え、どこですか」 「九州の福岡」 「だから日本語がそんなに上手なんですね」 「でも忘れちゃうから」 「ブンさんはいつからここで働いているんですか」 「去年から。十か月ぐらい。ここができたときから」 「もう日本には行かないのですか」 「うーん、行きたい。タカシさんは外国で働けていいね」 「でも僕は日本に帰ると仕事がないですよ」 「そうか、日本語の先生だからね。でもいいなー、日本。また行きたい。日本で僕も何か大きな仕事がしたいなー」  吹き抜けの上の廊下から、部屋の鍵を指にぶら下げた若い従業員がブンに話し掛けた。二三言、二人は隆の分からない言葉を交わすと、 「それは僕の仕事じゃないのに!」とブンは言って、階段を昇っていった。それがブンの口癖だった。  隆にとってジャカルタの生活は楽しかった。オーナーやブンとの会話は隆にとって何よりも楽しいものだった。ブンは時折インドネシア語で隆に話し掛けて勉強を手伝った。研修を億劫に感じているメンバーをよそに、隆は誰よりもインドネシア語を習得できていた。  食事もオーナーの家族と同じテーブルで食べるようになった。子供達は女の子が二人と末っ子の男の子が一人だった。インドネシア人の奥さんが男の子に流暢な日本語で言った。 「お箸を使わなくちゃだめでしょ」 「おれインドネシア人だから手で食べるもん」  子供達はブンをからかうように話すから、食卓はいつも明るかった。  食後、ラウンジでコーヒーを飲みながらブンが隆に話しかけた。 「女の人が多くてタカシさん羨ましいね」 「肩身が狭いですよ。それに任地に行ったら関係ないですから」 「彼女はいるんですか」とオーナーが訊いた。 「いませんよ。ずっと一人です」 「じゃあインドネシアで見つけるんだ」  ブンはからかうように言った。 「できるかなぁ」  隆は笑って答えた。 「オーナーは外国の人と結婚して外国に住んでいて、凄いですね」 「妻は祖父が日本人で日本に長く住んでいたんですよ」 「お子さん達は小学校では何語で勉強しているんですか」 「下の二人はインドネシア語ですよ。上の子だけ日本語です」 「ブンさんも日本人と結婚したいの」 「えー、わからないよ」 「どっちがいい」 「わからない」 「でも、イスラムの人はイスラム同士じゃないと結婚できないですからね」 「そうなんですか」 「はい、だから私もイスラムに改宗したんですよ。名前も持っているんですよ」  ジャカルタでの最後の晩、日本語教師のメンバーで外へ食事に出掛けることになった。隆も一緒に出掛けた。  食事中、教師の使うべき一人称について話が広がった。女性の教師達は当然「私」を使うが、隆は授業でも「僕」を使うだろうと言った。  隆より二歳年下の、メンバーの中で一番若い女子が訊いた。 「なんで『私』を使わないんですか」 「自分のこの性格とイメージで『私』を使ったら、学生達の誤解を招くと思う。僕みたいな人間は普通『私』を使わない」 「教科書の一人称も普通『私』ですよね」 「教科書が『私』でも、日本の男は普段は『私』を使わないよ。使うのは仕事のときとかで、僕が『私』を使ったら正しい日本語じゃないと思うから」 「いやいや、私が言いたいのは授業は公的な空間ですよね、ということで、隆さんは自分の勝手な考えで、学生に間違った日本語を覚えさせることを、どう思っているんですか」  隆は答えを返せないままトイレへ手を洗いに行った。 「おかしいな、彼らより自分のほうが真面目な姿勢のはずなのに」  大学院の三年間が、自分の社会性を取ってしまったのだと思った。いつしか格好のつかなくなっていた自分が歯痒かった。  ホテルへ帰るとメンバーは明日の準備のためにそれぞれ部屋に戻っていった。隆は一人ラウンジのソファーに腰掛けた。仕事を済ませたブンもコーヒーを手にやってきた。  隆はなんとか自信を取り戻したいという気持ちになっていた。 「人生の成功って何なのでしょうね」  こぼすようにしてブンに訊くと、ブンは、 「仕事の成功と家庭を持つこと」と、はっきり言った。 《★下付け★》二〇一一年五月三一日
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