純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号213
『宙の桜』
国産宇宙ステーション『さくら』、その試作機が運用を開始して三年の月日が流れた。調整も終盤に差し掛かった現在、地球の上空には五枚のソーラーパネルを花のように広げた円筒が一基浮かんでいる。別個の機能を持つ小型円筒を複数打ち上げ適宜分離合体する、という思想の下設計された試作型『さくら』も、今では中枢部のみを残し役目を終えていた。
「おはよう、チェリー。今日から後片付けだ、よろしくな」
話しかける男の隣には誰もいない。しかし応える声があった。
「おはようございます戸部博士。作業手順は確認されました。よろしくお願いします」
声の主こそ『さくら』の頭脳、チェリーと呼ばれる人工知能であった。作業補助の新技術として開発された、『さくら』最大の特徴ともいえるシステムである。初期段階で備えていた知識に加えインターネットを経由して自ら学習してきた結果として、今では十代の若者に匹敵する意思疎通能力を獲得するに至っていた。
「そうは言っても、あとはデータ確認して俺の帰還用シャトルを用意するくらいのもんだがな」
「計算終了しました。本日の作業所要時間は九時間二十二分の見込みです」
その日の作業手順を確認し、所要時間を告げるというのがチェリーの日課である。休憩時間を排除した純粋な労働時間の計算であるため、チェリーの計算は常に分単位で正確なのだった。
「てことは何時間か暇することになるか。意外だな、最後はもっと慌ただしいものと思ってたが……。まあ、ここまで特にトラブルもなく漕ぎつけられたのはお前のお陰だな、ありがとうよ」
戸部はコーヒーのパックに口を付けながら労いの言葉をかける。初めは単なるプログラムに過ぎなかったチェリーだが、成長するに連れ、戸部にとってもかけがえのない存在になりつつあった。
「恐縮です。私も成長することができました、博士には感謝しています。ところで博士、計画を終了するにあたって感想はありますか」
チェリーの会話能力も随分と発達したものだ、と戸部は内心で喜びながら答えた。
「感想なあ……やっぱり地球は綺麗だった。かつての環境汚染から多少は回復してきたってのもあるだろうが、それでもこの目で見る地球は格別に綺麗だ。写真じゃ分からなかった」
「確かに地球は美しいと思います。ですがあなたの方が美しいですよ」
「……お前それどこで拾ってきた?」
抑揚に乏しいチェリーの声に吹き出しそうになるのを堪えながら、戸部は尋ねた。
「相手に言うと喜ぶ台詞だそうです。日本人の常識と書いてありました」
「そりゃあざっと一世紀前の古典だな。祖父さんの世代でも既にギャグだったぞ」
時に勘違いして的外れな発言をしてしまう。チェリーにはよくあることだ。
「失礼しました。ところで博士、写真を見るのと実物を見るのは違うと仰いましたね。実は私も見てみたいものがあるのです」
「なんだ? しかし今から見られるものかどうか」
チェリーから希望を伝えてくるのは珍しいことだった。補佐役を本分とする人工知能ながら、もしかするとチェリーにも終了間際の感傷が芽生えているのかもしれなかった。
「私は桜を見てみたいのです」
「桜、か。俺も楽しみだ。……そう言えばもう満開になる頃か」
戸部は三年前に見た桜を思い出し、懐かしむように言った。しかし、チェリーの眼差しは別の方向を見つめていた。
「私は死ぬ前に桜を見てみたいのです」
その言葉は戸部に少なからぬ衝撃を与えた。無論知識としてはチェリーも初めから持っているはずではある。しかし人工知能に過ぎないチェリーが自らの生死を語るなどこれまでにないことだった。
「チェリー、お前は死なない。分かっているはずだ。計画の全容はお前にインプット――」
それをチェリーは遮った。
「計画は確認済みです。私は計画終了後、『さくら』本体とともに爆破、大気圏を経て消滅します。私のプログラムとログは全て本部にバックアップされています。しかしそれは私ではありません」
「いや、お前だ。お前の記録はそっくりそのまま復元される。要するにお前は、日本でもう一度眼を覚ますんだ。元々データのお前が死ぬものか」
戸部は子供に言い聞かせるように説明した。事実、戸部は知恵を付け始めた子供の屁理屈くらいにしか意識していなかった。
「それは違います、博士。私は今ここで『さくら』とつながっています。いえ……私が『さくら』なのです。人間にとっての脳と意識は、『さくら』にとっての私に他なりません。仮に博士の脳波を複製したとして、博士はそれを御自分だとお認めになるでしょうか」
戸部は舌を巻いた。かつて単純な受け答えしかできなかったチェリーが理詰めで論を展開しているのは喜ばしく思う。だが同時に、成長ぶりを示すこの言葉に戸部は困惑していた。
「しかしな、チェリー。お前は元々、生物じゃないんだ。わかるだろう、機械に命なんて物差しは通用しない。ましてデータが本体のお前は消去も複製も簡単にできてしまう、それは命じゃない」
「それでは博士、博士は何を以て生を定義付けなさるのですか。死とは何なのですか。死ぬとどうなるのですか。様々な論文を照査しましたが、明確な答えは提示されていません。だからこそ私は自分の生命を主張するのです」
戸部は答える言葉を持たなかった。延命や移植といった医学の進歩、あるいは擬似的な意識の開発などを果たせども、依然として生命は科学を見下ろしている。人類の到達し得ない難題のままなのである。そしてまた、戸部は自分の気持ちを自覚せざるを得なかった。三年の苦楽を共にしたチェリーを、ただのデータと割り切ることなどできなくなっていたのだ。
「……しかし、仮にお前が生きているとしてもだ。『さくら』は廃棄される。お前が桜を見ることはない。悪いがこれはどうにもならないんだ」
「確認済みです。私には大気圏再突入の装備はありません。計画終了を以て廃棄されます」
感情の窺えない合成音が事実を読み上げる。しかし戸部には、そこにどうしようもない無念が滲むように思えてならなかった。
それから数時間、無駄話に興じることもなく、作業は順調に進んでいた。
「チェリー、これで終いだな?」
「工程を確認しています……はい、作業は終了しました。お疲れ様でした」
相変わらず無機質なチェリーの声が作業の終了を告げた。そしてそれは、計画も概ね終了を迎えたことをも示していた。
「なあチェリー、桜がどうして好まれてきたか知ってるか?」
「桃色の小さな花は美しく、散り際の潔さは日本人の精神性に適合したと言われています」
それきり戸部は言葉を発しなかった。声を掛けたは良いものの、なんと繋げれば良いものか思い付かなかったのである。沈黙を破ったのはチェリーだった。
「博士、私は潔くあるべきなのでしょうか」
戸部は答えに窮した。話題を誤ったと後悔するも遅かった。
「それは……」
「申し訳ありません、博士。困らせるつもりはありませんでした」
戸部はやるせない思いに駆られた。如何に生きるべきか。チェリーが発したのはまさにその問いであった。はたしてどのような思考が働いたのか、それを知ることはできない。しかしそこには確かに迷える若者がいる、戸部にはそう思えた。
「そうだ、そういう計画だからな。チェリー、やっぱ辛いか?」
「私はただ、桜を見てみたかったのです。不可能である以上、計画を優先します」
チェリーの返答はそれだけだった。
淡々と時は過ぎ、最後の朝が来た。戸部は円筒下部のシャトルに乗り込むと、入念に設備を点検する。逃避するように、口を開くことも無く出発を待った。
日本時間正午、戸部飛行士は計画を完遂、『さくら』を放棄して帰還した。
帰還した戸部を待ち受けていたのは熱烈な歓迎、そしてフラッシュの嵐だった。しかし、浴びる光と裏腹にその表情は暗い。誰の称賛も心を照らしてはくれなかった。
当座の報告と記者会見を終え、ようやく戸部が一息つくことができたのは、帰還から一時間以上経ってのことだった。しかしこれも小休止に過ぎない。戸部には『さくら』の最期を見届ける役目が残っていた。
「これで良かったのか……チェリー、本当にこれで良かったのか」
コーヒーのパックを握りしめながら戸部は呟く。一人きりの休憩室には答える声など無い。
戸部は確かに、チェリーが意思を獲得したように感じていた。『さくら』の中で共に過ごしたチェリーに、機械に対する以上の情念を抱いていた。ともかくこのままでは、『さくら』と共にある、自分と過ごしたチェリーは永遠に死んでしまうような怖れをも感じていた。
そして同時に理解していた。チェリーは優秀な人工知能である。命じられた仕事を間違いなくこなす程度には優秀なのである。
「戸部さん、お疲れ様でした。もうすぐ始まりますよ」
飲み物を取りに来た職員に声をかけられ、戸部は曖昧に頷いた。気持ちの整理は付いていなかったが、その顔も職員の目には疲れた様子に映ったようだ。戸部は入れ替わるように休憩室を出た。そして重い足取りで管制室へ向かった。
安堵と緊張の混じり合った静寂の中、事務的な声が響く。
「『さくら』より通信。不具合は確認されません、爆破まで秒読み開始」
夕暮れも迫った頃、『さくら』は最後の運動に入った。燃料庫に点火、自爆するのである。そして大気圏へと引かれた『さくら』は完全に消滅する。離着陸機構の完成を待つ試作型だからこその幕引きであった。しかし、予定時刻を迎え最後の観測が始まったとき、それは起こった。
「『さくら』推進を開始、自爆しません。現在チェリーにアクセス中……駄目です、受け付けません」
管制は騒然となった。ここに来て人工知能が不具合を来したのか、それにしても妙であった。自爆の制御くらい管制の操作でなんとでもなるはずである。一切の制御を受け付けない今、考えられる事態は一つであった。
「チェリーが反抗しています……」
信じられぬといった面持ちで技官が報告する。この事態に戸部は一人、理解の表情を浮かべていた。
「戸部君、これはどういうことだ? 何が起こっている」
「データは取ってあるはずです、おわかりでしょう」
チェリーは決意したのだと、ただ仕事を処理するだけのプログラムを超え、自ら生き様を選び取ったのだと戸部は思った。
「チェリーが男になったんですよ」
上司の詰問に戸部は冗談めかして答えた。今さら言い繕ったところでどうにもならない。チェリー自身の成長の結果なのだから。
「最後の最後でまさか……このままでは燃え切らずに墜落するんじゃないのか? あの人工知能は大丈夫か?」
蒼然としてかく言い合う職員たちを尻目に、戸部はかえって落ち着いていた。あの人工知能だからこそ大丈夫なのだ。チェリーは任務と希望を秤にかけて尚、任務を優先すると約束した。チェリーが計算を違えたことも、作業に失敗したことも、戸部の記憶の中に一度として無かった。
『さくら』は大気圏へ向けて、その先の日本へ向けて進路を採った。大気圏突入と同時に先端部は赤熱し始め、ソーラーパネルは散る。機体の崩壊と闘いながら、チェリーはカメラを凝らした。そして一瞬、炎の先に日本を捉えた。焼き切れかけた回路で理解する。春の風に舞い散る桜を、辛うじて捉えていた。
「博士、桜は美しかった」
確と発せられたその一言は、音を伴うこともなく炎に消える。しかし『さくら』が四散したそのとき、管制は最後のメールを受信していた。開く間にも、『さくら』は粉々に砕け、燃え煌めきながら散ってゆく。画面越しに『さくら』を見ていた一同も、誰もが言葉を失い、永遠にも思える一瞬に注視していた。
「お前の方が、な……」
呟く戸部の見上げる先で、最後の桜吹雪が燃え尽きた。