純文学小説投稿サイト jyunbun 投稿小説番号203
『捨てたもの』
「おまえは、いらない子なのよ」
そう言って、母さんは僕を外に連れ出した。
真冬の夜。ぼろぼろのシャツに半ズボンというみじめな格好だった僕にとって、外の気温はもはや寒いというレベルではなかった。
僕の家からしばらく歩いたところに、とある川があった。
昼間はとてもきれいなのだが、夜になるとよくわからない。
僕はこごえる体を温めようと必死に、何度も手でいろんなところをさすった。手に暖かい息をこめた。でも、その時、母さんは冷酷に
僕の小さな体を、川に投げ込んだ。
「!!」
日はすっかり暮れ、満月が天空を支配するこの時間、僕は悪夢を見た。
でも、夢じゃない。これは本当に起きた現実の話。僕の、幼少期。
「…寝てたのか」
平常心を取り戻し、椅子の背もたれによっかかった。
来週は期末テスト。前回のテストよりもいい点数を確保するために、夜中まで起きて勉強の日々。疲れているのか?よりにもよって、あんなことを思い出すなんて…。
「もう、寝ようかな」
真夜中の2時、僕は椅子の上からのろのろと立ち上がり、ベットに向かって前進した。
『なんか、くさいぞ、ここ』
『あいつだ。あいつのせいだ。あいつが悪いんだ』
『こっちよるな! 汚いだろ!』
『ばーかばーか! 死ねクズ!』
『消えろ! 消えろ! 消えろ!』
「死んでしまえ…みんな、みんな…」
その日の夜、僕は何度もうわごとのように繰り返していた。
「おはよう、母さん…」
「おはよう」
リビングに行くと、そこにはいつもと変わらない母さんがいた。エプロンをつけて、にこやかな顔で朝食を作っている。
この母さんは、“僕を川に投げ捨てた母さん”じゃない。僕を、正真正銘、一人の人として、家族として、愛してくれている人。優しくて、愛情に満ち溢れた人。
「ご飯、まだ?」
「まだよ。どうして?」
「いや、別に…」
お腹がすいてるから、と言ったら、笑われるだろうか。
(だって、昨日はご飯食べる時間に寝ちゃったから…)
仮眠と称して二十分で済ませるはずだった睡眠が、いつのまにやら四時間になっていた。
おかげで、午後七時に布団に入り、七時二十分に起きるはずだったのが、十一時に起きてしまっていた。
おかげでご飯を食べる時間帯に遅れ、リビングに行くとだれもおらず、しぶしぶ、部屋に戻って勉強をはじめた。
そしていつのまにやら居眠り。それで、あの悪夢が―――――
「…」
駄目だ。思い出すだけでぞっとした。
あのとき僕が受けた傷は、一生かかっても癒えないだろう。そう思えてきた。
プルルルルル…
家の電話が鳴り、僕はそれを取ろうと震える手を伸ばす。すると、横から別の手が伸びてきた。
「はい、日下ですが…」
僕の、父さん。
「…ああ、またですか。いい加減にしてください」
父さんは少し怒ったように言って、受話器を持ったままどこかへ行ってしまった。
「…誰?」
僕は母さんのほうを向いて聞いた。そしたら母さんは少し苦笑いをしながら、
「父さんも、いろいろ忙しいの」
と一言言って、また料理に戻った。
僕はこの受話器の向こう側の人物が、この時は誰かわからなかった。
キーンコーンカーンコーン…
僕はチャイムが鳴って慌てて席に着く生徒たちを見ながら、先生が入ってくるのを静かに待っていた。
やがて全員が席に着く。でも先生はやってこない。どうしたんだろう。
考えていると、教室の電話が鳴った。僕は電話から一番近い席だったから、その電話をとった。
「はい、二年三組の日下です」
『ああ、日下か。新部だ』
新部、というのは、いまから授業をする予定の先生の名前。
「先生、授業は…」
『今日は、自習だ』
「自習!?」
その声に、後ろの男子生徒が喜んでいる。
自分の好きなことができるとなって、嬉しいのだろう。
僕はその要件を聞くと、受話器を戻した。そして黒板に大きく自習と書くと、黙って席について教科書を読み始めた。
それから放課後。下校し、家の玄関に入ったころ、ぽつぽつと雨が降り始めた。
「雨…」
僕は濡れてはたまらないので、家の中に入ることにした。扉を少し開けた瞬間、怒鳴り声が僕の耳を突き刺した。
「それは出来んと言ってるだろ!」
父さんの声だ。
どうして声を荒げているんだろうか…次に聞こえた声で分かった。
「まあ、落ち着いてください。日下さん」
「これが落ち着いてられるか!」
この声は…。
『おまえも、母さんの子供に生まれてこなけりゃよかったのにな』
『可哀想なやつだな、おまえは』
『俺はお前を守ってやれないよ。すまないな』
…もう一人の父さんの声!
僕ははっとなって玄関に並べられた靴を見た。
父さんの靴、僕の靴、母さんの靴…その横に、見慣れない靴が、ふたつ。
ひとつは男物。たぶん、もう一人の父さんのもの。そして、もうひとつは…。
『おまえは、いらない子なのよ』
母さん!
幼少期の記憶が元に戻ってくる。
(いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!!)
僕は体の中で湧き上がる恐怖を感じながら、靴を脱ぎ捨て、二階の自分の部屋へと駆け上がった。
途中階段で転んだが、おかまいなしに上って行った。
そして、自分の部屋に行き、ベットに飛び込んだ。
激しく胸を上下させ、荒い吐息を繰り返した。汗も噴き出た。
それでも頭の中は幼少期のことを何度も何度も繰り返していた。壊れたテープのように、何度も何度も巻き戻される。
僕の頭はおかしくなりそうだった。
そうして、僕は自分でも気がつかないうちに意識を失っていた。
「…」
目が覚めたのは、午後六時だった。なんで目が覚めたのか分からないけど、目が覚めた。
布団のシーツが汗でびっしょりになっている。居心地が悪い。
そしたら、その時、母さんがノックをしてドアを開けた。母さんは少しやつれているようだった。
でも、僕の起きているところを見ると、顔いっぱいに笑って、
「おはよう。ご飯出来てるけど…食べる?」と聞いてきた。
僕はかき消えそうな声で「うん…」とつぶやいた。
リビングの机の上に、僕の分のご飯がのっていた。あの二人は、帰ったんだろうか。聞こうと思ったけれど、怖くて聞けない。
「…」
「お茶碗、洗っておいてね。お母さんは寝るから」
母さんはにこにこしながらリビングを出て行った。僕はご飯を食べながらふとゴミ箱に目をやると、白い封筒のようなものがゴミ箱に捨てられていた。封筒の一部分がゴミ箱からはみ出ている。僕はそれをゴミ箱から引っ張り出した。
そこには、何も書かれていない。白紙の封筒だった。中を開くと、手紙が入っていた。
手紙を読み終わった瞬間、僕はその手紙を破り、再びゴミ箱に入れた。
そこには、あの“僕を産んだ両親”が書いた、僕ら親子を批判する文字が並べられていた。
家族とは、血のつながりがある者同士のことを示すだの、お前たちは家族じゃないだの、
息子を返せだの…最悪の文字ばかりだ。
どうして自分で捨てたものを、今更になって返せと言うのか。
なんともいえないもどかしい気持ちをまぎらわすために、僕は食べかけのご飯を胃にすべて押しこんだ。